私はこれに気づかない

全自動

ヒステリック、、女性に多い症状の一つですが、、、女性がヒステリックに陥っているその瞬間「ヒステリック」という自覚はゼロです。「当たるもの皆傷つけるその状態」に無自覚です。つまりそのことに気付いてるのは「周囲」だけです。「鈴木さんって頻繁にヒステリックになるよね!!!!」、、、この周囲からの言葉に「え??????私が??????」と初めてそこで気づくのです。すると、、、次のヒステリック状態時「あれ?????もしかして私今機嫌悪いかも?????」が起こります。

誰が気付いた???????

ここ最重要ポイントです。誰ですか?????それに気付いたのは?????「私ですよ!!!!!!」私が「ヒステリック」に気付いたんです。。。。では今まではなぜ気づかなかった??????私はその時かつては何をやっていた???????私は寝ていたのか??????今ヒステリックに気付いた私と、、気付いていなかった私とは何が違うんですか?????今までの私は意識を失っていたんですか??????失っていませんよね???????じゃあ何をしていたんでしょうか?????

私ではない!!!!!!

そうです、、ヒステリックに気付いたのは「私」ではないんです。気づきだけが起こったのです。そしてこれまでの「ヒステリック時」はその気づきがなかったのです。「私」は何にも気づかない、、無意識ですか?????違います。「私」が居ないんです。「ヒステリック」に気づく「私」という存在自体が居ないのです。

そういえば

ヒステリック時、、、、それに気づく「気づき」は最初から実はありました、、、ですが、、それ以上に「思考」に気づきがいっていた「あのやろう」「このやろう」「あいつのせいだ」「こいつのせいだ」です。ヒステリック」という気づきを超える「思考」の気づき、、、、、、だか周囲から「あなた今凄い機嫌悪いよ!!!!」と言われば、、、「あ、、、、ばれた」となります。

思考の嵐から

最初から「気づき」しかありません。。。。。。「ヒステリックに気づかない時」、、、「思考の嵐」という気づきだけがありました。。。次に「ヒステリック」に気づきが起こり、、、「ヒステリック」が「思考の連鎖」を起こすという気づきが起こり、、、「思考の連鎖時にヒステリックに気づく」が起こります。すると「思考の連鎖」が終わり、、「ヒステリック」だけになる。なぜならば思考の連鎖は無駄だからです。「ヒステリック」だから「犯人探しの思考」が起こることに気づくのです。

何も問題がない

全部が全部上手くいっていなくても

会社で上司に騙され、会社を首になり、家族も離散し、住む場所も失い、、ギャンブルで負けて、、借金を作り、、アル中になって最近朝から飲んでいます。。。全部が全部崩壊し生きるか死ぬかの域です。何も問題はありません、、世間的には大アリですが、、何も問題は起こっていません。なぜならばその行動の全ては勝手に勝手に起こったのですから。この事実を理解した人間は何かを問題視するということが構造上出来なくなります。

本当の不安

本当に不安というのは「世間で言う人生のどん底」に落ちた時に、、自分を責める他人から非難される、、、ここを気にしているのです。俺が築いてきた全てとは「信用信頼他人からの評価自己評価」です。これが崩れるのを恐れているのです。後指指されるような人生だけは起こりたくはないのです。だがしかし構造上「コントロールが無理」だと分かった瞬間、「どうでもいい」に変わります。というよりも「どうでもいい」しか感情が湧かなくなるのです構造上。

騒ぎ立てる周囲が可愛く見える

明日から会社辞めて旅に出ます、、、突然そう宣言すれば、、家族、上司、仲間は一斉に「正気じゃない」と大騒ぎするでしょう。気が狂った、、と大騒ぎします。でも分かっちゃうとこの反応が面白い、、、予想通りすぎる、、分かりやす過ぎる、、、です。そうです、、そのまんまです。。。つまり多くの方が常識に従っていきている理由は「周囲からの反応」を恐れているのです。自他共に「コントロール能力がない人間」と判断されるのが怖いのです。真実では「コントロール出来る誰かは居ない」です。だから上記の判断自体が「大勘違い」なのです。

逆ドミノ

全て逆

多くの方(本当は居ない)は今の価値観の延長線上に幸せがあると信じています。価値観のアップデート、考え方のアップデートの先に幸福があると信じていますが、、、、逆です。最後は大ドンデン返しが待っています。マリオは最初はプレイするだけで楽しかった、、だが徐々に徐々にプレイそのものではなくステージのアップに関心がシフトしていく、、、プレイのコントロール能力、コインの数、、数字、結果を楽しむようになっていく、、違う、、結果しか満足させてくれるものが無くなっていく。ところが最後、、このゲームそのものの舞台裏が完全に理解できた時、気づけた時、、、全く違う感情ともいえない感情が湧いてきます。それが真の安らぎです。

マリオのプレイ結果じゃなかった

勘違いしていたのです、、マリオが結果を出すことが幸福になれることだと信じていたんです。ですが違った、、マリオが結果を出した時だけ結果を出さなくてはというプレッシャーから解放されて偽りの安堵をしていただけだった。本当の安堵は、、そもそもマリオは結果を出さずとも、、、これがゲームであることにさえ気づければ、、、それで安堵が起こることに気づくことです。

だがしかし

マリオのプレイが始まって、、マリオが徐々コントロール能力が高まっていく途中から、、ゲームの裏側、舞台裏に興味が湧くって不自然なんです。サッカーに夢中になる子供が、、(プレイ以外の)裏技に目覚めるのって不自然なんです。だから徹底的にプレイに集中し切ることが超自然、、全く何も問題はありません。プレイに全集中している間に自然と裏技、舞台裏に関心がシフトし、、、最後は全カラクリに気づくのです。

悟り本

悟り本とは「裏技特集」です。悟り本とはゲーム製作秘話です。この内容に興味を持つのはマリオゲーム完全クリア後が普通、通常でしょう。一応クリアしたけど、、、この先何度も同じことやってもしょうがないし、、、舞台裏を知りたいな、、、、が起こった時、、、理解が起こるのが普通です。もしくは極度のストレスで、、、マリオゲームを作り出す勘違いの思考が突然落ちる、、思考を維持する記憶が落ちる、、この時分かっちゃいます。

後悔と不安

自動反応

多くの方は後悔と不安の中で自動反応という船に乗って人生が歩んでいきます。後悔と不安という「記憶から形成された思考」を土台に反射反射が起こり続けます。何も決めれはしないが「後悔と不安」という思考も反射として現れその土台に沿った「行動反射」が起こり続けていきます。その期間はひたすらにそれに伴う感情も湧き上がっていきます。俯瞰してみれば全てが自動反射、、、ですが思考の内容は「私が決めている」が自動反射で起こるのです。

人生が中盤になる頃

若者は不安と期待の両方を持ち、、行動思考の自動反射が起こる続けますが、、、人生が中盤になる頃「期待」は減っていき不安と後悔が増えていきます。あの時こうしとけば、、、を所有しながら、、不安を避けようとする動きの中で人生が自動運転で進んでいきます。そして人生が終盤になってくれば後悔の比重が多くなり、、死後の不安を抱えながら自動運転が進んでいきます。

どうせ自動運転、自動反射ならば

気づきがやはり自動運転の中で起これば「これが自動運転である」という気づきの中で自動運転が進んでいきます。その時気分は「自動運転ゆえの不安」はありつつも重い重い重責は消えていき、、軽さの中で「不安」が起こります。過去への後悔という重りが取れた状態で人生は進み、、「軽さ」の中で毎日が繰り広げられていくのです。「自動運転」という気づきは「自我の不在」という気づきに繋がり「他人の不在」が起こり、、「自分と他人の垣根」が消えていきます。次第に「たった一つの」現れであるという気づきが起こり、、、たった一つこそが自分であるという気づき、、たった一つならば自分でもないという気づきが起こります。つまりこれは無の現れに過ぎないという気づきが起こります。

だったら何もしなくていいじゃん

も起こる

全てが自動運転、自動反射だという気づきが起こると、、、、「だったら何もしないでおこう」という発想が起こります、、、、この気づきが次の反射を起こすのです。ですが直ぐに気づきます、でもその後どんな思考が起こるかも自動反射じゃ意味ないか、、、という気づきが起こります。そしてどうせ自動反射で責任を一切取れないなら勝手気ままにいきてやる、、が起こる。。。でも次に、、というか勝手気ままに生きようと決めたとて、、それは自動反射だから俺には何も決めれないんだ、、という気づきが起こります。

ということで

このように思考が現れては、「真実の理解」によるさらなる気づきがエンドレスに続くのです。そして過去を振り返り、、、つまり全部俺がやっているという思い込みも勝手に起こっていて、、開き直るも勝手に起こっていて、、時に自信満々になるのも勝手に起こり、、時に自信喪失になるのも勝手に起こっていたのか!!!!という気づきが起こります。

こんな気分で俺やっていけるのか?????

も勝手に起こり、、とはいえ周囲にはこのことは話してもしょうがない、、が起こり、、、ただ「何も今までとは変わらない態度」が起こり、、とはいえ内心では分かっている、、が起こる。。。。全員が全員全く違うプロセスで気づきの連鎖が起こり続けるのです。そして最後「何も疑問が湧かない」、、、までこの気づきの連鎖が起こるのです。

自動反射の途中で

気づきも自動反射

笑うしかないのですが、、気づきも当然自動反射の中で起こります。意図した私は悟ったのだ!!!!はないのです。全部自動で起こります。悟りも覚醒も解放も解脱も全部自動反射の中で起こります。だから何もかも心配はないのです。死ぬまでに悟るか悟らないかの違いを個人は生み出すことはできません。全部が全部完全自動システムの中であらゆる「気づき」が連発して起こっていき最後は悟りが起こるのです。

期待も不安も勝手に起こる

将来に対する期待も不安も後悔も無念も勝手に勝手に起こり続けます。そこに介在できる自我など存在しません。全員が全員ベルトコンベアーのように流されていきます。不安にさせられ後悔をさせられ地獄を見せられ天国を見せられ悟りを閉ざされ悟りを開かされる、、、これが勝手に起こるのです。

全部が全部自動反射という気づき

この気づきもその流れの中で勝手に起こり、、この流れの中で自動反射を絶望するが起こり、自動反射に安心するが起こり、、このことを誰かに伝えたいが起こり、、このことを誰かに伝えてもしょうがないが起こり、、、とそれも自動反射で起こるんです。つまりコントロールできる自我はいないんだ、という気づきも起こり、、じゃあ自分も他人も居ないんだという気づきが起こり、、、つまりこれってたった一つのエネルギーじゃん、、という気づきが起こる、、、、のです。

意織→セルフイメージ(反射)→反射言動

次々に

目が開く時、先ずは意織が芽生えます、、これは体を持つ存在全員に起こります。次に自動的にセルフイメージが湧き上がります(記憶をベースに)次にそのセルフイメージが反射行動を起こします。意識が芽生え「俺は会社員の鈴木だ」が起こり「仕事に行かなくちゃ」が自動連鎖で起こります。セルフイメージは継続し、このセルフイメージに準じた反射がただ起こるのです。

目が開く時

意識が芽生えます、と同時に寝ていたという気づきが起こります。何かから目覚めたという自覚です。この何かこそが本当の我々(自覚なき我々)です。意識そのものの瞬間があり次に意識の中で「セルフイメージ」が起こるのです。これは全て自動です。反射です。誰にもここに自主性はありません。朝日がセルフイメージの起動になるのか目覚まし時計なのか、そこは全くの反射です。

セルフイメージ

セルフイメージが起こり、、、次に次にと自動反射が起こり続けます。「いや、私は意識的に行動している」そう思っているだけです。その意織的な意織こそが勝手に起こったのです。そうして今このブログを「あなた」は呼んでいます。その自動反射の連続の中にこの「ブログを読む」が含まれていたのです。

呼んだ後

ブログを読んだ後にも次の反射が起こります、、私は何も反射が起こりませんでした、、は絶対にありません。このことで次に何かは起こるのです。昼寝かもすれない、ランチかもしれない、瞑想かもしれない、、、何かが必ず起こります。これが次の日も次の日も次の日も起こるのです、、、死ぬまでこれが続きます。

カワイイ

全てが

例えばミュージシャンの歌を聞けばあらゆる「歌詞」を聞くことができます。今まではこの歌詞好き、この歌詞嫌いと曲ごとに好き嫌いがありました。ですが今は違います、、全部可愛い、、、なぜか?????だって全部勘違いですから。それぞれの信条、心情が乗せられています。全部勘違いです、、聞いてみてくださいほぼ100%勘違いですから。

映画を観れば

笑っちゃいます、本当に思考、思想が強い、、価値観、判断ただこれだけが起こっています。セリフを聞いてられません、恥ずかしくて。。。。。いやー、、そうか、、、本当に俺もこんな感じて生きてたっけ。。。。辛い、、、というか恥ずかしい。。。。くすぐったくて観てらえない。。。。。深刻さは全くないんです、、ただ演技が全部過剰に見えちゃうんです。

飲み屋の会話

バイトの店長がさー、、、彼氏がヤバくて、、、そういえば親あのこと許してくれた??????会話のほぼ全てが判断判断判断です。「ちょっと聞いてよ!!!!!!」です。もう笑うしかない、、、、解っちゃうと、、もう100%会話内容が判断って気づきます。そこまできたら嬉しですよ、そこまできたら笑えます、、そこまでくるともう夢を見ている感じです。

私物語が終わるわけではない

私物語を俯瞰する視点が現れる

日雇いアルバイトに行きます、、一生懸命バイトします、、、バイト終了後。。。。「今日の私へのバイト代をください!!!!」この言葉が出ないようでは危なくて働くこともできません。財布を電車で取られそうになります、私の財布を取らないでください!!!!この言葉が出ないようでは危険です。そうです、、、我々はこの私物語を終わらせることは絶対に絶対にできません。バイト代をしっかりと貰うのは「明日の家賃」を払うためです。

私物語をやりながら

悟りとは自分という存在が消え去ってしまい、、「自分をやれない」なんていう精神異常者になることでは断じてありません。「私物語も私も完全に思考が作り出した概念である」という新しい認識を持って「私物語、私」をやるのです。私が誰かから攻撃されても「概念である私」が攻撃されたという認識が起こります。相手は「概念である私」を攻撃したという新しい認識は余計な感情を生み出さないのです。

まるで映画

これは映画です、、映画であることを自覚して役を勤めるのです。「思考が作り出した映画である」という絶対的な認識の中で経験だけが起こり続けます。この映画がどのように作られているかを完全理解した「状態」の中で映画だけが続きます。後悔が全く湧かない映画、期待が全く湧かない映画、、、、ただ「真の気楽、安堵、平和」な中で映画が進みます。

「自分が苦しみから解放されたい」と思っている

これが苦しみ

本当にギャグのような話なんです。『「今苦しい」という認識が起こりました。』その時「この苦しを感じたのは私だ」という概念が湧き出ます。まさにその思考この思考こそが「苦しみ」を作るんです。『「今楽しい」とおう認識が起こりました』その時「この楽しいを感じたのは私だ」という概念が湧きます、まさにその思考、この思考こそが「苦しみ」を作ります。

喜んでもらえた

「話をしたら喜んでもらえた」という認識が今起こりました、、、、まさにその時「喜んでもらったのは」私だ、、、という概念が起こります、、その思考、この概念こそが「苦しみ」を起こすのです。喜んでもらった、嬉しい、楽しい、、、、、、の次に「苦しい」が起こる、、、、なぜ?????????それを「私」がやった、、、という概念が続けて起こったからです。

自己防衛

この体を守るために「私がやった」という概念が湧いても全く構いません。このプロジェクトで多大な貢献をできた、、、それをやったのは私だ、、、、という概念が抜け落ちては、、労働をお金に返ることができません。だからそれが悪いということではないのです。ただしそれを認識する視点を所有しない限り、、「苦しい」が止まりません。「自我をベースにした思考の起こり」を認識する視座を所有する、、、、これがこれからの新しい時代の「生き方」(本当はない)です。