100人

会う

100人にあなたが会えば「100人」のあなたが現れます。100種類のあなたが実はこの世界に現れるのです。え?????????100人???????そうです。100人です。なぜ???????100人に合わせた100人のあなたが現れでます、なぜならば本当は本当はあなたは存在しないからです。だから100人に会った瞬間にその100人に合わせた一時的な「あなた」が現れ出るのです。

本当は誰もいないから

「本当の自分が居て」その自分が100人に合わせるのではありません。100人に合わせた「あなた」が現れ出るのです。そこ大きな違いです。本当の「あなた」なんてこの世界には居ません。100人に合わせた「あなた」がその都度現れ出るだけです。どうやって現れ出るんですか?????相手に反射して勝手に自然に現れ出るのです。

本当の自分が分からない

色々な人に会っていると本当の自分が分からなくなるんです。いやいや本当の自分なんて居ないんです。ただその相手相手に反応する「あなた」が勝手に自然に現れ出るだけですから。だから何も心配しないでいいのです。最初から本当のあなたは存在しないのですから。

自分が現れ出るその瞬間に気づく

重要なことは相手に会った時に現れ出る「自分」という存在に気づくことです。ブワッと現れ、、その相手自様の「自分」をベースにした思考、言葉、行動が現れでますよ。だからそこにこそ気づくのです。何もないところから自然に現れ出る「自分」を観察します。記憶が作り出した「自分像」の現れに気づく時、、そこには「自分」という独立分離した存在など一切存在せず、、、記憶が作り出したイメージのみが起こることが分かります。

自分が居る?????

この動きを見切った時、自分は居るんだ!!!!!と大手を振って宣言できることがなくなります。なぜならば私というのが記憶が作り出したイメージに過ぎないことは十二分に分かっているからです。だから「自分が居るんだ」という認識から私とは記憶が作り出したイメージなんだという新しい認識のままに言動が起こるのです。その時全く異なった認識、経験が起こるのです。

イメージになり切って

社長の前では「社長前の私のイメージ」が記憶から勝手に自然に湧き上がり、、そのイメージをやるという動きが起こります。そこから思考、言葉、行動が現れ出ていきます。その動きを観察します。何もないところから記憶が作り出した「私イメージ」が起こりそれを前提とした言動が起こることを認識します。イメージをはっきりと認識することを認識した時、、、、イメージはありありとそこに浮かんだのだという新しい認識が始まるのです。「イメージが湧き上がることに無自覚でそのイメージに沿った言動が起こることに無自覚であった状態」から「私イメージの湧き上がりに気づきそのイメージに沿った言動が起こることに気づく」という状態にシフトします。

落ち込むことに落ち込むのも自然無為

全てが自然無為

「俺は絶対に這い上がってあれもこれも全部手に入れてやる」この思考が自然無為として現れたのです。「世界で一番豊かになるべきはこの私で私以外は絶対に認めない」この思考が自然無為としれ現れました。全現象が自然無為です。為される主体が存在しないということです。「居るじゃん!!!!俺だよ俺!!!!」この思考が自然無為として現れでたのです。

雑草

自然無為の理解が起こっても、、それでも「勘違いの思考」は次から次へと育ってきます。放っておけば直ぐに生えてきます。それに気づくたびに「勘違いの思考」が枯れていく。。。そうです、、「勘違いの思考」という現象は「気づく」ことで枯れます。ただただ起こる思考の内容が「自然無為」に則しているかを確認するだけでいいのです。

「自然無為」に則していない

これまでは湧いてくる現象である思考をチェックすることなど全くなく、、、ただ野放しでした。だから伸びたい放題、雑草だらけ、、だから苦しい。。。。ですが自然無為、無為自然を理解しますと、、、思考の内容が「則していない」ことに気づくという現象が起こるようになります。

いつの間にか

いつの間にか「自然無為に即さない思考」が湧かなくなっていきます。あれ?????最近湧いてくる思考の内容が変わったぞ!!!という気づきが起こります。次にもう昔は何を考えていたのかさえも忘れる、、という現象でもない現象が起こります。最後にもう「自然無為に即した思考」しか湧かなくなった時「自然無為」そのものになります。一点の曇りもない自然無為です。

落ち込むことに落ち込まない

反省したことを反省しない

また私落ち込んでる、、、、また私反省してる、、、、、真実の理解が進んだ時、、、「反省、落ち込み」をさらに「反省、落ち込む」という流れが生まれることがあります。分かってないなー私、、、本当は全部勝手に起こったんだから落ち込んじゃダメじゃん!!!!です。でもいいんです、、、反省、落ち込みもまた勝手に起こったのです。だからそこに気づけばいい、、、笑っちゃえばいいのです。「反省、落ち込み」が起こったこを認識し、、笑っちゃえばいいのです。

古い習慣が起こったことを

古い習慣が起こり続けます、、ですがこの古い習慣を古い習慣と見抜けていることが凄いのです。だから落ち込んでも反省しても、、気にしない、、、古い習慣が起こることが当たり前なのです。当たり前のことが当たり前に起こってそこに気づく、、、既にこれは進化です。古い習慣が崩れていく予兆です。「また手で触っちゃった」この気づきが起こっている時点で「サッカーが上手くなっている」のです。子供は手でボールを触ったことにも気づきません。

裏切られない安心感

何を言われようと

学校に行かないと大変になっちゃうよ!!!!!宿題やらないと大変になっちゃうよ!!!!!どんなに脅されようとも全く気にならない信頼できる安心感がかつてはありました。そのうち、、徐々に、、あれ実は??????安心感なんてものが嘘で本当は危機感が正しいのかも??????という思考が常に常に湧いてくるようになりました。いつしかかつての安心感は崩れ去り不安の中での行動だけが増えていったのです。

全部嘘だった

やっぱり!!!!!やっぱり嘘だったんだ!!!!!!そうだよ、、俺こうやって騙されてきたんだ!!!!!という突然の理解が起こります。知ってたんです、裏切られない信頼感の方が正しいことを、当たり前なことを。今のこの危機感、不安感こそが嘘チンです。大人は何をそんなに大真面目に生きてんだ?????というこの感覚こそが当たり前なんだ、正しいんだ!!!!!!です。

それも許せる

本当の理解が起こった時「大人めー、俺を騙しやがって!!!!!」が起こらない、、両親への怒り、先生への怒り、マスコミへの怒り、、、起こらない。。。。。。。なぜ??????だって分かっちゃったから。だって誰も主体性を持ってそんな発言していなから。完全自然現象的に全てが起こっただけだから。三年前のあの台風、コンチクショー、、、が全く起こらないように、、、、起こらないのです。

新しい認識

地球が自転している

この新しい認識は全てに認識を崩していきます。「太陽の動きを見れば」太陽が動いていたと思ったが、、、そうだ動いたのは地球だ、、、という認識(経験)が起こります。朝日が昇るのを見れば「太陽が登っている」という認識から地球の動きこそが「太陽を現したんだな」という新しい認識(経験)が起こるのです。

真実

真実の理解が進みますと、、「俺がやってる!!!!」という思考が湧いた後に「そうだ、、これ勝手に起こったんだ」という新しい認識が起こるのです。「行動が自然に起こったなー」という新しい認識(経験)が増えていきます。「昨日は飲みすぎたなー」という後悔が訪れた瞬間「そうだ、、それって自然に起こったんだ!!!」が起こり、、「後悔という感情が吹っ飛ぶ」という新しい認識(経験)が起こるのです。

全てが

「古い習慣が先ずは起こり」「古い習慣が起こったことに気づく」という新しい習慣が起こり、、やがて古い習慣が起こらなくなり「新しい習慣」のみになっていきます。「メールしなきゃ」が起こるたびに「そうだLINEだった」がしばらくは続きますがいずれ「LINEしなきゃ」から始まるようになるのです。

馴染ましていく

一瞥体験で「古い習慣が新しい習慣にドーン!!!!」ではありません。真実の理解により徐々に徐々に新しい習慣に切り替わっていきます。新しい習慣が完全に馴染んだその時「なんとも言えない安らぎ」がいまここにあるのを感じます。

自我による行動?????

ない

厳密に言えば「自我による行動」は存在しません。行動は全て全自動、全自動反射でありそこに「自我」という存在が介在するような隙間がないのです。「自我」とは起こった反射を「私がやった」と後付けする「思考」であり「感覚」のことです。この感覚が強けば強いほどに「自我が強い」となりますが実際にはありません。構造上不可能なのです。

前提の

ただし、、「私がやっている」という前提の反射が起こります。「自我」前提の言動が反射としては起こります。この行動が神経不安症的な言動になっていくのです。例えば引きこもり、不登校、などなど、、神経症的な言動を引き起こす「原因」として「私が全部やっている」という思考がなることはあります。ですがその「私が全部やっている」という勘違いすらも自然と起こったのですからそこにコントロールもありません。

だが

今ここでこの仕組みの理解が起こりました。認識が起こったのです。今まで自然と勝手に起こっていた「自我」ベースの自動反射を、、俯瞰して認識する認識が起こりました。この認識が起こった時「自我ベース」の反射が起こらなくなります。「本当は地球が自転しているんだ」という新しい認識が起こった時「太陽が回っている」という認識が消えます。「本当はただ反射しか起こっていなかった」という新しい認識が起こった時「自我」という認識が消えます、自我という認識が消えた時「自我ベースの反射」が起こらなくなります。

私物語という宗教

人類全般

ガンガジが著書の中でこの世界には「私物語という宗教」が存在する、、と表現していますがまさにその通り。私物語とは人間が崇拝する最後の宗教です。本当は時間も概念、私も概念ですが、、その二つがあたかも真実として存在するかのようなこの物語を信じる動きが起こっています。「私物語」が概念でしかなく、、そこには本当はそれを表す思考のみが出現しているのだ、、という真の気づきが起こる時「革命」が起きます。

全く違う

テクノロジーで「動物が人間の会話を理解する」ということがもしも起こったら動物は腰を抜かすでしょう。なぜならば人間の会話に出てくる「私」「あなた」「彼」という言葉の指す「意味」が全く理解できないからです。それは「どこに現れているんか????」「何の話をしているのか?????」「夢の中の登場人物」の話なのか????????そうです!!!!まさにこれは夢です。この世界に一切現れ出ていない「存在」の話を一日中行っているのが人間なのです。

体は認識できても「主語」が認識できない

動物には人間の体は認識できても「主語」が認識できません。「私って何のことだ???」が動物から起こります。全く存在していない「私」「あなた」にまつわる会話がひたすらに行われるその状況は、、まさに夢なのです。人間とは「いまここ」に存在しながら「いまここ」に一切表れでない存在の話をひたすらに行っている存在なのです。動物から見れば人間は「神棚(体)の中の神様」の話を延々とする動物に見えるわけです。

思考する個人すら居ない

実は

実はこの世界には思考する個人は存在しません。ここに存在するのは「思考の中の個人」か「個人という感覚」だけです。あらゆる思考の中に個人は存在しますが、個人が思考するのではありません。多くの方は完全に勘違いしています。個人が思考しているのではないのです、思考の中に個人が居るのです。そして個人ではなく「個人感」だけがこの世界に現れ出ています。

個人を前提にする思考の数々

注意深く注意深く観察しますと「個人」なんていう単体の存在がこの世界に現れ出ることは一切なく、、この体を個人とする考え方、、もしくは個人感しか現れ出ていません。孤独という状態が現れ出ることも一切なく、、孤独という思考、孤独感しか現れ出ていない。他人と呼ばれる存在から現れ出るのは「他人が発した言葉」ではなく「思考の中に他人が居る」のです。だから全ては概念、思考です。

この世界

この世界には本来分離というものは一切ありませんから『「何か独立した存在」が居る』というのは全部概念思考です。「ある動物が餌を食べる」というのも概念であり、、見かけ上の独立した動物を通じて食べるという行為がただ起こっているだけです。なぜそこに気づかなくてはならないのか??????微妙なその違いが何の効果があるのか????「認識こそが経験」だからです。認識がそのまま経験になります。

あるがまま

「あるがままをあるがままに経験する」が起こる時「本当の平和」が起こります。あるがままを「真実ではない思考」として経験すると「分離感」「孤独感」「苦悩感」を経験することにあります。どちらが「良い」という話ではなく、、そうなっているという話です。「出来事」自体には「苦しみ」を生み出す力は一切なく、、それを「個人として味わう」という「思考思い込み」が現れた時だけ「出来事の内容」に関わらず「分離感」「孤独感」が起こるのです。

100億円のマンションが売れる理由

お腹が満腹になっていない

もしもあなたが吉野家で特盛を二杯食べたらどうなりますか??????お腹いっぱいで絶対に絶対にもう「食べれない」でしょう。当たり前です。その後にラーメン??????無理無理。つまりお腹いっぱいの状態とはもう食べれないことを言います。100億円のマンションを購入する人は間違いなく今「億ション」に住んでいます。家賃8万円生活の次が100億円マンションってわけにはいかない。つまり億ションから100億円に引っ越したわけです。

気づきませんか??????

つまりつまり億ションでお腹がいっぱいになっていない「まだ食べれる」のです。だから億ションに住みながら「100億円マンション」を購入するのです。人間とはつまり億ションで満腹にならないということです。億ションで満腹にならないから「100億円マンション」で満腹になる??????なるわけがないのです。なぜ?????なぜ??????満腹にならないのか???????

私感

「私が居るという感覚」「私感」が生まれることで生み出される「分離感」「孤独感」「苦痛感」を100億円マンションで埋めることは不可能なのは分かりますか?????それを生み出した原因と、、、100億円マンションはまるで関係がないのです。本当の原因を解消しないで、「100億円マンション」を手に入れても、、、起こったのが「100億円マンションを手に入れた私」という思考だけです。この思考の現れと「私感」が生み出す苦悩とは全く関係がないのです。

目指さなくていい

ビジネスエリートは「自己管理力」「セルフプロジュース」のプロですよね???????逆です逆です、、彼らは「そう思っている」でしょうが、、実は真逆なんです。徐々に悟っている、つまり諦めているんです。諦める??????そうです、、自分を過剰評価しない、他人を過剰評価しない、、、これができているわけです。自分も他人も過剰評価しないでなぜ??????成功できるのですか??????

先ずは他人に期待をしなくなった

成功者の中で「全部が全部人任せ」って人は少ない、、、どちらかと言えば「全部自分でやっちゃいたい」が多い。。。。なぜ?????????他人を見抜いたのです、、、先ずは他人を見抜いたのです。他人は実は全くもって主体性なくただの反応であると。他人は実はこちらの行動に反応しかできない存在であることを見抜きました。つまり諦めたんです。他人の主体性を。他人には「自己管理能力」「セルフプロデュース能力」はないと。

自分を見抜いた

次に次に「自分」を見抜きました。自分なんてもんは全く全くあてにならない存在であると。自分との約束は全く守れない、ノルマ守れない、ルール守れない、、、全部守れない存在であると。。。するとどうなるか??????この全くあてにならない存在をどう扱っていくのか?????という俯瞰した存在になっていきます。つまりつまり何も期待しないからこそ「心に余裕」が生まれその余裕が行動を軽くしていったのです。実はこれしかやっていません。諦めたのです、自分自身を。