成功者=行動力ある神経症

怖い

成功者の深層心理を教えましょう。。。「怖い」です。怖くて怖くてたまらない、、、です。成功者と呼ばれていない人々に比べてもはるかに怖いのです。何を恐れているのですか????????「自分の行動」です。1ミリも行動を選択できないにも関わらず「あらゆる物も手にしてしまった」「家族」「高級車」「高級マンション」「お金がかかるパートナー」「お金がかかる子供」、、、、、、この状況がどれほど怖いか分かりますか?????ゾッとしますよ。

一ミリも

一ミリも、、、自分の行動をコントロールできません、一ミリも自分の思考をコントロールできません、、、一ミリも自分の感情をコントロールできません。。。。。このことをどこかでは確実に分かっています。にも関わらずこの「自分」には多くの多くの責任がのしかかっています。さて、、、、これがどれほどの恐怖か分かりますか??????

感じたくないから

「この恐怖心を感じたくない」という感情が起こり、、それを打ち消すような行動が勝手に勝手に起こります。その行動が周囲からはやはり「成功者は違う」と写ってしまいます。だから走る続ける、どこまでも走り続けます。深層心理では「俺はどこまで走ればいいの?????」が起こるがそれを打ち消す行動がさらにさらに起こるのです。

壁打ち

サッカー

サッカーの練習には「壁打ち」というのがあります。サッカーボールをただ「壁に向かって打つだけ」ですが蹴ったボールがあらゆる方向に跳ね返っていくため「俊敏性」「キック力」「予想力」あらゆる能力がこれだけで身につきます。実は実は人間関係とはこれです、、、他人とはただの壁です。壁と同じで打てば必ず反応するのです。そしてそこには全く持って主体性のある意図はありません。

おはよう!!!!

お早う!!!!というこちらの言葉に他人(壁)は反応します、、「元気?????」というボールが返ってくるか、、、「お茶しよう!!!」が返ってくるか「宿題やった?????」が返ってくるか全く読めません。なぜか「壁=他人」にも何も分からないからです。なぜならばこれはただの反応だからです。たった一つ言えること「反応だけは起こる」ということです。壁(他人)には一切の選択肢が用意されていないのです。

こちら側(私)

ではこちら側(私)はどうなのか?????私には「選択肢」はありますよね??????ないんです。全他人に選択肢が無いにも関わらず「私だけ」に選択肢が用意されているって意味不明ですよね??????そうです。ないんです。私も壁です、、壁そのものです。向こうから飛んでくるボールにただ勝手に反応が起こるだけなんです。だから何もできない。

「私がやっている」という感覚

我々は壁でしかないにも関わらず「私が選択肢を持ってやっている」という感覚がやはり勝手に芽生えます。跳ね返した「ボール」を俺が返した!!!!という思考感覚が起こるのです。そして他人(壁)にもそれが起こります。ボールの反射の連続の中で「ありとあらゆる思考」が勝手に湧き上がり「感情」が勝手に湧いていきます。ボールのやりとりに伴う、、「動き」が起こるのです。

壁の状態

壁の状態は「起こる思考感情」によって変わります。昨日は「元気いっぱい」だったのが今日は「元気なし」の反応にも当然なる。ただしこの反応も完全自動です。そこには自由意志は一切ないのです。

私感を見抜く

宇宙人には「マリア様」は見えない

宇宙人が毎日毎日瞑想しても「マリア様」は見えません。瞑想中に「マリア様」を感じることができるのはキリスト教信者だけです。ブッディストには「マリア様」は見えず感じずキリスト教信者には「釈迦」は見えない感じません。では我々はなぜ「私様」を感じているのか??????「私信教」に入っているからです。「私信教」に入ることで「私様」を常に常に感じているのです。

あなたは太郎くん

「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」「あなたは太郎くん」こう一万回呼ばれ続けるうちに「俺は太郎くん」という感覚が芽生えてきました。。マリア様を感じるように「太郎くん」を感じるようになるのです。俺は太郎くんだよ!!!!だって太郎くんを感じるから。。。。。。。です。

言葉が感覚を作り感覚が感覚の連鎖を起こす

感覚とは認識のことです、疑いようのない認識を感覚と呼びます。「あなたは太郎くん」という言葉が感覚のレベルに落とし込まれた時「分離感」「孤独感」「苦痛感」「悲壮感」と感覚の連鎖が起こっていきます。あらゆる情報が認識されていく時、、それは感情を生み出す、認識の連鎖を起こすのです。

ただの感覚の連鎖

なぜ「私は苦しいのでしょうか?????」簡単です、、、私感という疑いようのない感覚が起こった時に「感情の連鎖」が起こっただけです。ではなぜ私感は起こったのか?????それは一万回「あなたは太郎くん」と呼ばれ続けたからです。言葉が生み出す感覚の発祥、ここを見抜きます。言葉なしに「私感」はありえないこと、、、言葉があらゆる感覚を生み出しているという事実を見抜きます。その時「感情」を真に受けない「余裕」が生まれます。

「私はメッシ」という感覚

サッカー選手

今日は自分がメッシになったつもりで「プレイ」しました。自己洗脳です。メッシになったつもりでやったら「何でもできる気」が湧いてきましたよ!!!!!!明日の試合も「私」は「メッシ」になりきって「メッシの気分」でやりたいと思います。これスポーツ選手はよくよくやるんです。だから選手の多くは憧れの選手を持ち「その選手のユニフォーム」を着て練習したりします。

「私感」から「メッシ感」

メッシ感はメッシという言葉が作り出すのです。私感は私という言葉が作りだすのです。「私感」が「メッシ感」を味わっているんではないですよ!!!!!!私感もメッシ感も同じ「感覚」ですから。。。。ではサッカー選手が「メッシ感」を味わっている時、、どうしているんですか???????誰がメッシ感を味わっているんですか??????

誰も居ない

誰も居ない存在が「私感」を味わい続け、、、、試合中は「私感」から「メッシ感」にシフトチェンジしたんです。「私感」からメッシという言葉を利用して「メッシ感」にシフトチェンジしたんです。私がメッシ感を味わっているんではありません。「私感」から「メッシ感」に「変わった」が起こりました。「メッシ感」の認識がが「万能感」を起こし「万能感」の認識が「余裕感」を起こしたのです。認識の連鎖が起こったのです。

認識の連鎖

「私感の認識」が「分離感」を起こし「分離感」の認識が「孤独感」を起こし「孤独感」の認識が「苦痛感」を起こしていきます。認識を起こすのは「私」ではありません、つまり孤独感、苦痛感、分離感はただ連鎖のようにこの世界に現れては消えているのです。この連鎖をどうやって消せばいいのか??????『今です』、、この事実を「認識」すること、、これだけがこの連鎖を止めます。

「私感」が幸福感を手に入れる?????

私とは言葉が作った「私感」

私というこの世界に完全独立した存在がいるのではなく「私感」だけがあります。言葉は感覚を作り出します、「霊」という言葉が霊感を作ります。「気」という言葉が「気感」を作ります。私という言葉が「私感」を作ります。そうです我々のこの紛れもない私という感覚は言葉が作り出した「私という感覚」です。思い込みが激しい性格の方は「私感」が強いのです。私感をガンガン感じるのです。だから「私が居ることに」疑いを持たないのです。

だから

私なんて居ませんよ!!!!と言ったところで『じゃあこの私という感覚」を説明してみろ!!!!で終わりです。そうです、、この体には私感が張り巡らされているのですから。ではもうこの私からは解放されることはないということですよね???????とんでもない、、「言葉がこの私感を作り出している」という事実の認識こそが最も重要なことなのです。「マジック、イリュージョンのプロ」がそのマジックはこうなっていると解説した瞬間「マジックが違って見えます」、そうです、、我々は抽象度を上げた解説を認識した瞬間「私感」が変わるのです。「私感」を認識する存在が現れるのです。今「私感」が起こった認識を「認識する」が起こるのです。

「私感」は「幸福感」を味わえない

私感を感じている時「幸福感」を感じることはできません。「私感」を感じる時「辛い感」を感じることはできません。「私感」を感じる時「悲壮感」を感じることはできません。「私感」の上に「〇〇感」が重なることはありません。つまり私は悲しむことも苦しむことも幸福になることも無理です。「私感」が感じられその後「苦痛感」が現れ「分離感」が現れ、、が続くのです。

苦しみを生み出す「私感」

私がこの世界に出現したのではなく「私感」がこの世界に現れました。「私が居る」という思考が「私感」を作り出し「私感」→「分離感」→「孤独感」となります。それを味わっているのは「私」ではないですよ!!!!!!私は居ないんですから。逆に「私感」を「私感」としてしっかりと認識した時、、、、この「私感」はなぜ起こったのか???????「私が居る」という思考が起こしたのだ!!!!という認識が起こることで「私感」が紐解かれていきます。

『HELLO』

その瞬間

私のこと????俺のこと??????が起こります、思考です。まさに振り返る瞬間「物語」に入り込みます。当たり前です、それでいいいのです。ですが同時に「物語に入った」ことに気づきます。物語が今作り出されたことに気づくのです。「久しぶり!!!!」向こうからかけられたその言葉に「物語に入る」仕掛けがあることを見抜くのです。

私神様

むこうはこの体の中の「私という神様」に向かって話しかけているのです。「私神様」にならずにこの会話は絶対に絶対になりたたない、、、だからそこで入り込む、役に入り込むことに気づくのです。しっかりと役をやっているという自覚の元「役をやる」のです。そしてその役作りとは「思考」です。「私が居てあなたが居る」という思考こそがこの役への没入を可能にします。

分かっている

対面したその時、、この顔はまさかの現れ出ていません。そのことを分かっています。映画の対面シーン、、こちらからの画像のまさにその時、こちらには役者は居ないのです。全く同じ、、こちらの目、鼻、耳、口は現れ出て居ないにも関わらず会話が成り立ってしまうというこの事実をしっかりと自覚します。その時我こそは役者であって「役」ではないという気づきの中で演技が続きます。

何が今起こっているんだ????

今まさに物語を織りなす「思考」が起こります。今です、今まさにこのファンタジーを作り出す思考が湧くんです。だから悟りとは今そのことに気づくことです。「いつか」は全く必要ないのです。なぜならば悟りを閉ざすその思考は今ここで起こっています。現行犯逮捕です。この犯人を今ここで捕まえなくてはいったいいつ????捕まえるのですか??????現行犯逮捕しか犯人(思考)の逮捕はありません。

いつか悟りたい

「いつか悟りたい」この思考こそが犯人です。ほらここでこの犯人を捕まえるのです。いつか悟りたいのは誰ですか?????私ですよね、、、その「私」という思考が「今」起こったのです。確信的犯行が今起こりました。そこを見逃してはいけません。最後の最後は現行犯逮捕なんです。

思考を捕まえる?????

私物語、マイストーリーを織りなす思考が今起こりました、はい!!!!そこに気づきます!!!!思考を捕まえて袋に入れて閉じ込める??????出来ません。現れでる思考は「気づく」しかできません。でもその思考は気づかれた時点で「そのままに真実」にはならない。「私は本当に起こっています」という思考が現れ出て私物語を織りなす、、、このことに気づくと、、、「そのままに真実」にはならないのです。

TVドラマ

「お前は既に死んでいる」この言葉がケンシロウから放たれた瞬間「誰?????」という思考が起こる「死ぬのは誰だ????」です。物語突入です。その時「物語」に入り込んだことに気づくのです。「物語は始まった、だが俺はケンシロウではない」という認識です。友人からの「よう太郎!!!」この言葉で物語に入り込む時、同時にそれに気づく存在になるのです。「今太郎として物語に入ったぞ!!!!」この気づきこの気づきが起こりますと、、もう太郎ではない、、、物語の中には居ない、、、物語を外から見守る存在になったのです。

状態

次元が変わる

成功メソッド、高収入メソッド、自己啓発メソッド、人格者メソッド、、、これらは個人という存在がこの世界には居てその個人がこの外部環境の中をサバイブしていく、、という前提のものです。ですが悟りは『「個人という存在がこの世界には居てその個人がこの外部環境の中をサバイブしていく」というのはただの思考でその思考が認識された時、その認識だけが起こっていた』ことに気づくことです。何が違うんですか??????多くの方は「この体である私はこの世界の中を生き抜かなくてはならない、それが真実である」と思っています。ですが本当は「この体である私はこの世界の中を生き抜かなくてはならない、それが真実である」というのは思考であり、、その思考が認識されるからその認識が起こったのです。

この体である私はこの世界の中を生き抜かなくてはならない、それが真実である

これは思考です。真実ではありません。真実は「この体である私はこの世界の中を生き抜かなくてはならない、それが真実である」は思考に過ぎずこの思考さえ湧かなければそのような認識は起こらない、、よって悟りとは「この体である私はこの世界の中を生き抜かなくてはならない、それが真実である」は思考に過ぎない、、そのようなことは真実とは何も関係がない、、と見抜くことです。

え?????

この私もこの物語も全部思考ならばじゃあ悟ると何が残るんですか??????残るんではなく、、今までこの物語を作り出していた思考がまさに思考であったという「気づきの中で」また思考や感情、行動、この体、この花、この木々、この店々、この建物、、、、が起こり続けます。「物語を織りなしてきた思考」が思考であることを見抜かれながらまた起こるかもしれないし起こらないかもしれない。私の物語が物語に過ぎないことを見抜かれながら思考が起こるかもしれないし起こらないかもしれないのです。

つまり

ここは状態でしかなかったのです最初から。最初から状態でしかなく、、これからは状態であることを認識ながら状態が起こるのです。「いまここ」という状態の中で「時間」という思考も「私」という思考も「私の物語」という思考もこれからは起こるでしょうが、、、起こってもいまここはいまここです。思考が起こることで「いまここ」が「いまここ」では無くなってしまうということはあり得ないのです。

悟り

悟りとは次元の転換です。DOINGからBEINGへの転換です。DOINGはこの場所で思考の中でしか起こりません。DOINGとは思考という現象の中だけで起こるのです。そういう意味ではDOINGはいまここでは起こっていません。この次元では起こっていないのです。起こっているというイメージを起こすことはできてもDOINGは起こらないのです。そこに気づくとここがBEINGでしかないことが分かります。BEINGの中にあらゆる現象が現れその中に「DOINGのイメージ」を含む思考という現象が現れては消えていきます。

BEING

BEINGとは我々の本質です。我々はこの現れでる現象の全てでありこの現象が現れでるスペースであり、その認識の全てです。これを全部ひっくるめてBEINGなのです。ですがこのBEINGが存在するためには「HUMANと呼ばれる体という現象」が必要であり、、そういう意味で我々はHUMAN BEINGなのです。

菩薩界

あなたは価値ある人間よ

あなたは価値ある人間である、、そう教わり続けた人間は「他人の富を奪う」ことよりも価値をより高めることに関心が高まります。この体の中に価値があるのならばではより価値ある存在になってやろう、、、という考え方が芽生えます。この作戦は多くの場合成功します。エネルギーが「他人」に行かないからです。他人という「変幻自在」コントロール不能な存在に注がれず「自分」だけに注がれるからです。この作戦は「エネルギー消耗」が少ないのです。

結果

楽に楽に「価値を創造し続ける」ことができるようになります。「この才能を伸ばそう」「あの才能も伸ばそう」「これも私の才能かも」です。多くの場合これは上手くいきます。ですがここで大きな落とし穴が待っているのです。「比較」です。私は才能を努力の結果発揮した、、では俺以外はどうだろうか?????という比較比較が始まるのです。より多くの評価をされるべきだ、、、が起こります。

他人

他人にエネルギーを注がず「自分」だけにエネルギーを注いできたから上手くいったのです。なぜならば他人は「コントロール不能」であり、、そこに合わせるという生き方、それと足並みを揃える、、という生き方は莫大なエネルギー消耗を起こすからです。真実はその通り「他人には自己は存在せず完全勝手気まま」なのです。ところが「自分」は違う、、自分はコントロール可能である、、これが菩薩界の勘違いなのです。ここが菩薩界の苦しみです。

コントロール不能

実は実は自分もコントロール不能だったのです。たまたま「私の体は価値を生み出す存在である」と教わったからそこにエネルギーが自然と向けられてきました。しかしそれは家庭環境の影響だったのです。「自分の意思」でそうしてきたのでは決してないのです。全部偶然です。だからこれからも全部偶発的に思考が起こり偶発的に行動が起こり偶発的に感情が起こるのです。それが本当の意味で理解できた時「全てのプレッシャー」から解放されます。

許せる

全部が全部たまたま偶発的にそれが起こっていた、、という気づきは、、全てを許せます。先ず最初にプレッシャーが消えます。重い重い重責が取れます、、、すると他人に優しくなれます。この体から完全に「プレッシャー」が消えた時初めて他人に優しくなれるのです。本当の優しさとはこれしかありません。重い重い重責からの解放以外に「本当の優しさ」は芽生えません。

仏界

仏界とは、、菩薩界の住人から湧き出ていた「勘違いの思考」が湧き出なくなった「状態」のことです。ここにはもはや個人は存在しません。「自由意志はある」という思考、「個人は居る」という思考が、、、この体から一切湧き出なくなった「状態」これが仏界です。「自由意思はない」という思考、「個人は居ない」という思考がこの体から現れることが仏界ではありません。「自由意志はなかった」「個人は居なかった」という完全な認識が起こることが仏界です。

餓鬼畜生界

そう教わったから

あなたには才能んてない、あなたは頑張ったって大したもんではない、、才能なんてあるわけない、お前はその辺のぐうたらでしかない、、、、そう教わって教わってきた人間は「私には価値ある才能、富はそもそもない」が人生のスタートになります。そしてだからこそ生きるためには「人からお金を貰うか奪うしかない」と考えるようになります。その結果「言われたことを忠実に従って代わりにお金を貰う」か「それができなければ人を騙してでも生きなくては」となっていくのです。

そもそも

富とは何でしょうか?????人間業界で言えば富とは希少価値です。希少価値とはその人独自の作物、、その人からでしかでない作物です。ところが学校ではルールを守ることばかり教わります。言われたことを暗記する、理解することばかりを教わります。結果「そこからでるオリジナル」は、、、ルールを守った者だけが認められる特権のようになる。均一化ばかりを求めておいて「お前には富ある価値を創造できない」というのは矛盾です。

思い込みを潰す

周囲から教わった「お前には価値ある富はない」は嘘です。そのような動物は自然界には皆無なのは、、動物はそのような嘘を信じていないからです。あるのは「お前には価値がない」という思考だけです。だから価値を提供するためにやるべきことはただ一つ「嘘を嘘と見破る」ことです。私から現れる才能はそのままで価値があることを思い出すことです。

富以外は現れでない

この世界は「富」以外は実は現れでないのです。実は思考すらも富です。「私は価値がゼロである」という思考すらも富です。そんな酷い思考がなぜ富なのか???????「私は価値がゼロである」という認識を認識できることが富なのです。そんなことを認識できる「ライオン、虎、シマウマ、あざらし、猫」が居ますか????居ないんです。だからこれも富です。でもそのことが分かってしまったらその思考「富」欲しいですか????