言葉

思考に関わらない

ただ湧いては消えていく思考に振り回されない

思考はとにかく湧いてきます、青空に湧いてくる雲のように、、次から次へと、、、ですがこの思考に関わってしまうと思考ループに取り込まれます。その思考ループは誰もが知っていますが苦しいゾーンです。雲に巻き込まれた飛行機、思考に引っかかってしまった意識は苦しいのです。思考は放っておけば消えてしまいます、ですが人間はこの思考に敏感に反応します。そして苦しみの時間が継続します。

思考というエネルギーを掴まない

思考というエネルギーを一度掴むと長くそこに巻き込まれることになります。ですから思考が湧いてきても放置します。放置して消えて無くなるのを待ちます。それよりも日常生活の感覚に意識を向けます、五感に意識をむけます、、、体の感覚、五感の感覚は今にしか存在しません、体の感覚に意識を向けるとそのまま今に入れます、今とは非二元、ワンネスのことです。これを言葉で理解するのではなく体で感じます。体で非二元を感じていきます。

人と話をしているとなぜ楽か?

人と話をしていると相手の話を聞くという行為が入ります、この瞬間思考を使わずに済みます、思考しながら話を聞くのが難しいのでその瞬間思考が外れるのです、そして話を返している瞬間思考が止まります。要は人とのコミュニケーションは五感を使うということです。その瞬間非二元を感じることができるのです。

ノンデュアリティの革命

金森将さんはノンデュアリティの革命家

私は日本人の非二元スピーカーを何人か注目していますが金森将さんはその中の一人です。彼の理論はとてつもなくシンプルでありながら誰でも実践できる理論を打ち上げています。この日常生活から非二元に触れるというモノです。瞑想をするでもなく思考観察をするでもなく花道など何かに集中するでもなく、、、日常生活にただシンプルに触れていくという画期的なメッセージです。ですがこれは真理を突いており素晴らしいアイデアです。

非二元を日常で触れ続けることで非二元を理解する

日常生活において非二元とは何か??それはこの体が五感で感じる瞬間です、朝起きてコーヒーを飲む、音楽が耳に入る、小鳥の声を聞く、青空を眺める、、シャワーが肌に触れる、、、、この全てが非二元です。つまりこの体に在るということ、体の感覚に今この瞬間在るということを実感する、、、この体の感覚こそが今ここに在るということ、非二元です。思考を放置してこの体に在り続ける、、、そして非二元に触れ続けることでそのまま非二元に馴染んでいく。。。禅などはこの手法をとるのかと思いますがこれを日常生活のあれこれで実践できるということが素晴らしい。

思考を放置

思考が湧いてきてもただ放置する、、、そこに関わらない、、無視を決め込むのでもなく、、、ただ放置する、、そして再び五感での体感に注力する、、、そこから非二元を感じる、、、非二元の素晴らしさが分かってくる、、、非二元になる、、、周りくどい説明は一切抜きにしてただ非二元に近づいていく、、、言葉や概念から非二元を理解するのではなくあくまで感じていく、、、ノンデュアリティの革命です。

自我は言う、悟った暁には絶対に幸福になれると

自我とは大いなる勘違いした存在

悟りという言葉ほど誤解されている言葉はないかもしれません。悟りとは、、、個人が成し遂げるもの、、この誤解を最もされています。あの人は悟っている、あの人は悟っていない、、、、どこまで行っても悟りをこの人間と結びつけたがります。ですが実際にはこの誤解こそが悟りを人間から遠ざける結果になるのです。人間が彷徨いながらこの世界を生きていく時、「悟り」こそがこの苦悩を終わらせるメッセージであるにも関わらず人間はこの「悟り」を理解できません。なぜならば人間が実は幻想という身も蓋もないメッセージだからです。

神から自我へのコンフォートゾーンのシフト

コンフォートゾーンで説明すると悟りは一気に理解できるようになります。先ず第一にこの世界の主人公は全体、神、ワンネスです、主人公というよりも、、それしかありません。たった一つのエネルギーだけがありそれが姿を変えて現象化しているだけ、、、これが真実です。で、その中で人間という形をとった生命現象が出現しました、、この生命現象は独自の進化を重ね、体、脳を相当なハイスペックなレベルにまで向上させました。これにより全体、神、ワンネスはこの人間に意識を集中させる、コンフォートゾーンを全体から人間にシフトさせることに成功したのです。

これに成功した神は。。。

これに成功した神はそこからは自身を人間として生きていくことになります。人間と人間以外の世界を生きることに成功したのです。その世界では常にこの体を守っていかなくてはならなくなり、、必死になって知識、体力を付けていきます。全ては生き延びるため、、、人間になり切った神はこれを消滅させないために必死に生きていくのです。ですがそれと同時に人間にコンフォートゾーンをシフトさせた状態では絶対的な永遠の幸福に至れないことも知っています。なぜならば神=人間ではないからです。これはどこまで行っても茶番に過ぎずだから人間は常に不足感を抱えて生きているのです。

人間に成り切った、人間にコンフォートゾーンをシフトした神は、、、

この人間体験を大いに楽しむわけですが、、そのためには自分が神であることを忘れる必要がありました。ですが実際には神は自身が神であることをどこかで気づくことになります。いつまでも人間になり切って自分が神であることを忘れ続けるのは難しいものです。それはある意味人間としての幸福実現の限界に達した時かもしれません、、、どこまで走れば人間は幸福になるのか???これって本当にゴールはあるの????こういった疑問が人間から湧いてくるようになると人間に成り切った神はそもそもが大天才ですから本当のことを思い出すようになっていきます。

神であるこなることにコンフォートゾーンをシフトする

自分は神だ、が当たり前になる

本当のところ我々は神です、ですがその事実を完璧に忘れています。これによってこの世の不幸、欠乏感、居心地の悪さが生まれています。どれほど完璧に神であることを忘れたかがどれほどこの世が苦悩かのバロメーターです。例えば老けるのが非常に早い人はこの傾向にあります、私は人間であるという完璧な割り切りは恐ろしいほどの苦脳をその人は抱えることになります、ですが外から見れば自立した立派な大人である可能性はあります。これが人間の矛盾です。

自分は神だ、、はあり得るのか?

あり得るであり何もこれがデフォルトです、神という言葉が誤解を生みますが要は全体ということになります。この全体から脳が進化した人間に意識が完全シフトした状態が「自分」です。コンフォートゾーンが「自分」にシフトしたのです。ですがこの「自分」は神の一表現でしかなくその一表現にコンフォートゾーンがシフトしても苦しいに決まっているのです。本来のコンフォートゾーンは神だからです。ですが「自分」にコンフォートゾーンがシフトした理由は神がそれをやってみたかった、ただそれだけです。ということでこの世に本当の意味での不幸人間は誰一人いません。コンフォートゾーンの位置の問題だけです。

先ずはこの自分は幻想であることを理解する

自分が神であることに確信を得る前にやることがあります、それは「自分」というこの疑いようのない存在の嘘に気づくことです。どうやってこに体、思考、感情を自分と思い込むことに成功したか、、、ここを突きます。これをしないと始まりません。いかに神であることを確信してもこの日常生活はリアリテティーがあり過ぎて直ぐに自我コンフォートゾーンに引き戻されてしまいます。この五感があまりに優秀すぎてリアリティーに負けます。

脳の分離錯覚を見抜くと自然と衝動が湧いてくる

この衝動は面白い

私は「神との対話」という本を読んで自分が実は神であった、全体であったことを腹落ちさえました。確かにどう考えても自分が神であることは間違いながない、、、、この事実を腹落ちさせた頃から面白いことが起き続けています。とにかく体の中から衝動が止まらないのです。これを達成したいこれをこれを成し遂げたい、、、これは言葉では限界があるのですがその衝動にしたがって動いていると止まらなくなるのです。いつまでもやっていられる、、、今私の衝動はこのブログを書き続けることです。中から湧いてくるこの衝動をただ形にしています。

衝動を形にするだけで気持ちがいい

この衝動を形にしていきますとひたすらに面白い、楽しいが湧いてきます。そしてこれが形になればさらに面白いでしょうがそれは一瞬の達成感でありそれはその瞬間のみであることも知っています。ですからそれは一瞬のご褒美のみであってそれよりもこの衝動に従っているのが気持ちがいいのです。衝動に従って生きているとそれ自体が楽しいのでそれ以外を求める感覚が薄れていきます。そしてこの衝動に従うにあたっては全部無料です笑

自己実現から自己超越へ

自分が好きなことで世の中の役に立つというのが自己実現ならば、、、自分という存在が無くなりただ世の中のために生きることを自己超越と呼びます。例えば全くの無記名で大金を募金する方などの境地はそれに当たります。そこに自分はもう存在していないのです。なぜそんなことをするのか?多くの方は理解に苦しむとは思いますが実はこの自分という存在がいなことこそが一番の歓喜、平和、安堵なのです。ですがこれは言葉でいくら説明しても意味不明です。言葉を超えた場所にそれはあります。

知性では非二元は理解できない

言葉での理解を超えている

非二元は言葉によって二元の世界に豹変します。言葉こそが二元を支える土台です。その言葉で非二元を理解しようというのが人間の試みです。言葉で非二元を二元に表変させておいてその言葉で非二元を探すというこれはとんでもない矛盾行為を行なっています。それでも人間はなんとか非二元、真実を求めてそれを指し示す言葉を探すのです。

詩を読むように世界観に触れていく

私がお勧めする方法は詩を読むようにこの世界観に触れていくことです。ピカソの絵の素晴らしさを理解したければあらゆる「絵」に触れるしかありません。おそらくこれを言葉で理解するのは不可能でしょう。そうです、良い音楽も良い小説も、良い絵画も言葉で説明できるわけがない。非二元も同じです、これを言葉で理解するのは本来不可能でありゆえにこれは触れて触れて真実を掴むしかありません。

良い詩を作るのにマニュアルがない

良い詩を作るのにマニュアルがないように、、、非二元を掴むマニュアルなどあるはずがありません。ただ非二元は常に今ここにあり逃げることは絶対にありませんから少しずつでも触れていくしかないのです。ですが非二元に触れると言ってもこれは実態がない世界ですから焦れば確実に空振ります。ピカソの絵の素晴らしさを理解するマニュアルがないように非二元を掴むマニュアルがないこと、このことを理解すること、これが言葉の限界です。

こちらの認識とは何も関係なく、、色は動く

分離の世界を生きていようといまいと、、

こちらの認識とはうっさい関係なく色は動き続けなす。修行無常の世界はただ動き続けます、変わり続けるアート作品のように、神が作ったクリエイティブ作品のように。私という視点がどのような分離の世界を見ていようとそこには何の関係もなく色の世界はただ動いていくわけです。そこに人間の脳は分別、解釈を加えていき一人一人違った世界を見せるだけです。ある人の解釈する世界ではそこには争いが絶えず、ある人の見る世界では罵詈雑言が飛び交っているかもしれません。

こちらの思考の解釈がただある

思考の解釈に優劣はありません、ただその「自分」というものが体験した積み重ねが記憶に構築されそこから価値観が生まれだします。その価値観に基づき分別が生まれ、この大アートを切り刻んでいきます。この切り刻み方が人によって全く違うということです。どこをどう切り刻むかによってこの分離の世界は姿を変え続けるということです。どのような分離の世界を生きるか、、これは全員が違いますが唯一同じことがあります。それは分離の世界はどこまで行っても苦しいということです。だからこそ分離の世界にお腹いっぱいになった順番で悟りを目指すようになります、分離した「自分」が。

宇宙のアートはただ動く、それぞれが自由に切り刻む

本当の本当はどう個人がこの宇宙アートを言葉で切り刻むかすらも決まっているのですが、、そこは横に置いておいて我々個人はこの神のクリエイティブ作品、宇宙アートを独自の言語、単語で切り刻んでいきます。「自分」を切り刻み、見える世界を八つ裂きに切り刻んでいくのです。切り刻み方によって見える世界は変化していきます。切り刻んで切り刻んで切り刻み尽くした時に分別のある大人が誕生しているかもしれません。ですがそこにはアートはすでに存在せずアートの残骸、背景に化した世界が広がっているかもしれません。

「最初に言葉あり」の真実

言葉がこの幻想を作り出した

本当は二のない一つのエネルギーが織りなす世界が我々の前にはただ在ります。今もこして私はPCでブログを書いていますがその瞬間も目の前に二ではない一つのエネルギーが蠢いています。ところが実際はそうは見えない、、これはなぜか?我々が言葉を覚え生命現象に名前を付けたからです。ここが超重要なポイント、ここが最大の転換点です。これこそがこの2のない一つのエネルギーを分離した世界に見せているのです。

先ずは「自分」を言葉が出現させた

言葉を覚えていく過程で一番最初に覚えていくのがこの「自分」という存在です。この「自分」という存在を言葉によって作り出しました。これによってこの2のない一つのエネルギーの中に自分と自分以外という分離した世界が出現したのです。たった一つの宇宙現象が分離世界というイリュージョンに変化していきます。これを脳が意識的に行います。宇宙全体、大いなる存在による幻想の出現です。

あらゆる生命現象に名前を付けていく

言葉を覚えた人間はあらゆる生命現象に名前を付けていきその度にその物と物以外という分離を起こしていきます。世界がバンバン分離していきます。意識した物が宇宙現象の中から切り抜かれていくのです。それによって確実にこの「自分」は生存しやすくなっていくのですが、と同時にこの宇宙アートがアートではなく殺風景な風景に切り替わっていきます。現実という錆びた世界に切り替わっていくのです。世知辛い世界に宇宙のアート、神の顕現が格下げされていきます。

悟りとは二元世界究極の遊び

悟りとは二元世界のカラクリを見抜く究極の遊び

悟りは遊びです、そもそも非二元でしかないこの世界に二元の世界を作り出し人間はこの二元世界の中で生きてきました。人間というこの独自の存在も幻想、そして人間がみるこの分離世界もまた幻想です。幻想が幻想を体験するという完全なファンタジーこれがこの二元世界の特徴です。この究極の遊びの終わりが悟りになります。悟りとはこの二元世界の謎解き、ネタバラシ、解明になります。名探偵コナンもそうですがこの最後の謎解きこそがクライマックス、最も盛り上がるエンタメになります。

この二元世界にはヒントがたくさん

なぜか我々はこの二元世界にどっぷりと浸かりながらも悟りという言葉を昔から知っています。悟りとは何かは何も分かっていませんが「悟り」という言葉自体は知っている、、、意味不明です。人間の本質のどこかが悟りがゴールであることを知っているからです。悟りなど自分の人生とは何も関係がないと思いつつもこの言葉が周知の事実になっていることこそが人間の面白いところです。

自我は悟りへの興味を拒絶する

私もそうでしたがこの「悟り」というジャンルだけは自我がなかなか興味を示してくれませんでした。それもそのはず悟りとは自我の終焉だからです。他のことならなんでも興味を持つ自我が悟りだけは御免蒙るとなるわけです。無我の状態になると悟りの本質を垣間見れるので私はこの悟りへの興味を絶やすことなく続けることができました。

覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。