言葉

非二元を二元の言葉で説明する矛盾

言葉とは二元の世界

言葉は二元の世界を表すツールです、この言葉で非二元を表現するのは実は矛盾があります。二元の世界とはつまり分離の世界です。非二元とはその分離が嘘、間違い、勘違いであるという世界です。全くもって真逆の世界なのです。ですが言葉は分離世界のツールですからこのツールで非二元(非分離)を証明するという矛盾にぶち当たるのです。

言葉こそが二元を作り出した

二元性の世界にあるのが言葉ではなく言葉こそが二元の世界を作り出しました。もしも人類が言葉を使っていなければ今現在も非二元の世界に人類は住んでいます。つまり人類は言葉を覚え活用することで二元の世界(幻想)を作り出し、、その幻想に住うという荒技を生み出したのです。ところがこの二元の世界は分離緊張の世界でもあり、、、これが苦しいので、、、本当は非二元(非分離)だ!!!と言い出したのです。そしてそれは真実です。

一生懸命言葉(分離ツール)で非二元を説明する滑稽さ

わざわざ言葉で二元(分離)の世界を作り出し、、文明を進化させてきた人類が、、この世界に住っていれば真の幸福には至れないと気づき、、今言葉(分離ツール)を用いて本当はこの世界は非二元なんだ、分離していないんだと説いています。皮肉にも分離を作り出した道具を用いて今度は分離は錯覚だと説いているのです。ですがこれは退化ではなく進化です。人類は分離世界を一旦作り出し、、次はそれを超越しようとしているのです。分離が悪いということではなく、、分離を作り出した故の苦しみを、、、今終わらせようとする次のステージに人類が進もうとしてるわけです。

本当は何も起きていない

解釈の世界の住民たち

悟りが起きるとビックリします「本当は何も起きていない」のです。朝起きて目を覚ました。景色が視界に入ってきます、、、ただあるだけがあります。外で鳥の声が聞こえます、、、本当は、、ただ何かが起きただけです。お腹が空いてパンを食べます、、、本当はただ何かが起きただけです。我々は直ぐに主語述語の世界に入りますが、、本当は何も起きていないのです。主語述語の世界を勝手に意味づけして作っているのです。

朝コーヒ豆を擦って火を入れコーヒーを出す

これは大人にとってはこの事実は起きています。ですが犬がこれを見た時には、、何かが起きただけ、、起きたすらも言葉ですから、、犬にはそうも映っていない。人間は真実としてそれが起きたと本気で信じている。ですが本当は何も起きていないのです。

何を言いたいのか????

我々があらゆる物に名前を付けて名前を呼び合って生活するようになったのは何のためですか????それはその方が便利だったからです、、それだけですよね!!!!幸せになるためにじゃないですか????違うんです!!!!最初は至福しかなかったんです、人間には。だから幸福になるために名前なんて付けてないんです。たまたま便利だったからなんです。つまり言葉は便利になるためのもの、終わりです。

不幸は言葉が作り出した

私って全然最近ツイテなくて、、不幸な感じ。。。違うんです、、これは言葉で持ってドラマを作り出し不幸を感じているんです。言葉を真に取りすぎています。本当は何も起きていないんですから至福でしかないんです、本質は至福ですから、、そこに言葉で毎日毎日ドラマを作り出し、、みんなで不幸病になっているんです。最近の政治はこうでああで今後相当景気が冷え込むみたい、、、、、というドラマを言葉で作り出す心配を味わうというドラマです。

見なければいい

そういう不安ドラマ、不幸ドラマ、孤独ドラマに飽きたならば見なくていいんです。周囲であらゆる言葉が飛び交いますが、、無視してください。ドラマの話ですよね????で終わりです。そのドラマが好きならば聞いてください。好きなドラマじゃないのならば聞かなくていいんです。本当は至福しかなくて、たまたま便利だからと言葉が発達し、、その言葉が一人歩きをして、、本当にドラマ(主語述語の世界)が実在するかのうように思い込み始め、、、不安症、孤独症に陥らないでください。

イメージが起きなければ

そのまま至福に入る

「この体、この思考が自分だ」この思考が湧き上がりますと、、それは全体に回収され即イメージ化されます。そして「この体、この思考は自分である」というイメージ、幻想、イリュージョンがこの世界に起き上がるのです。自分という言葉は、、世界に完全独立した、完全分離した別個の存在という意味ですから、、それがそのままイメージ化されるのです。この言葉は大変力強い影響を与えます。そしてこれが同時に孤独感を起こすのです。ですが本当はあるがままの世界、たった一つのエネルギーだけの世界が真実です、真実は至福、無分離、非孤独です。言葉が湧き上がる前、、至福でしかなかったのです。

言葉以前の世界

我々は生まれた時、、たった一つの世界に居ました、、、たった一つの世界の住人ではなく、、、たった一つそのものだった、、つまり至福そのものだったのです。。。それが言葉を覚え始め、、、分離したイメージを勝手に築きあげることで、、この至福の世界に、、、孤独という「感情」を作り上げたのです。「今この瞬間に悟れます」というのは真実でそれは至福の上に孤独、虚しさ、悲しさを作り上げているだけだからです。イメージが崩れればそのまま悟り(至福)に入るのです。

「この体この思考が自分」の崩壊

突然自分がなくなり至福に襲われた、、、エックハルトトールはこのような表現で自身の悟りを表現していますがまさにその通りです。「この体この思考こそが自分である」という強いと強い思い込みが、崩壊し、、、このイメージがこの世界に起こらなくなった時、、、そこには至福だけが広がっているのです、いつでも。彼は絵rーとで多くの多くの知識を所有する私というイメージを持っていたに違いなく、、、そのイメージが大きくなり過ぎて、、その重さに耐えられなくなった時、、そのイメージが崩壊しました。。。結果奈落の底に落ちたつもりが至福というセーフティーマットが敷かれていたということでしょう。

「この体この思考は自分」というのは真実ではない

この認識、気づきが、、、本当の私、全体から起こることで、、、強烈なイメージが緩和されます。世界にたった一人、、この体、この思考を所有し立っているというイメージが起きなくなります。これだけで「苦しい」が湧いてこなくなるのです。思考は即座にイメージ化されますからその内容が真実と乖離すればするほどに苦しいのです。本質を学ぶとはまさに強烈な分離からの統合へのプロセスです。

 思考と全体

思考の力

多くの方は思考の力を侮っています。思考とは何でしょうか???例えば「私は世界にたった一人だ」という思考が起こった時には何が起きるか????同時に寂しいという感情が起こります。なぜ起きたのか????「私は世界にたった一人だ」という思考に全体、スクリーン、スペースが気づき、、この言葉を読み込み、、読み込むことでドラマ、イリュージョン、蜃気楼がこの世界に浮かび上がったのです。たった一つのこの世界に「私は世界にたった一人」というイメージが湧きがりました。これによって寂しいという感情も浮かび上がったのです。すると「友人に電話しよう!」という思考が湧き上がり、、それを全体、スクリーンが読み込むことでそのイメージが湧き上がります、、するとまたワクワク!という感情が湧くのです。

ドラマが始まる

思考がこの世界にドラマ、イリュージョン、映画を作り出しているのが分かりますね。文字の連続を読み込んだ全体は、、その文字が指し示すことをイメージ化していきます、、そのイメージは確実に浮かび上がり、、あるがままの世界に誕生するんです、確実に。それに伴い感情も湧き上がりドラマはより重層構造になっていくのです。ですがこのドラマは真実ではありません、真実はたった一つのエネルギーですから。ゆえにこのドラマの世界は居心地が悪く疲れるのです。

人間関係が疲れるのは????

「Aさんは日曜日何やってる????もし良ければカフェに行かない???」という誘いがBさんから起きました????この言葉はそのまま全体に読み込まれAさんという自分がイメージ化されBさんとカフェをするイメージも同時に起こるのです。これによって嬉しい!面倒!などの感情が浮かぶ上がります。Aさんは湧いてくる感情が楽しい!!!ならばOKと答え、湧いてくる感情が面倒!!!ならばNOと答えるのです。どちらにしてもあるがままの世界に「Aさん」「Bさん」というイメージが湧き上がることでその時点で「孤独」という感情も湧きます、、なぜならばAさんもBさんという分離した存在は錯覚でありそのイメージが孤独を起こすのです。

夢の中に居る

私は確実に夢の住人です、なぜならば私という存在はイメージでしかなく真実ではないからです。私がカフェに行く、、、は言葉が作り出したイメージです。私は生きるために働かなくてはいけない、、この思考はそのイメージをこの世界に浮かび上がらせます。夢をその瞬間に作り出しているのです。これらは全部嘘です。本当の私とはこの空間、スクリーン、スペース、、、言葉を読み込みイメージを瞬時に作り出す存在です。この体、この思考が自分というのはイメージに過ぎません。勝手に自分自身を「ちっぽけなイメージ」に押し込みその時点で苦しみを与えているのです。

偏見の塊=観念

夢を夢たらしめるもの

これは夢です、完全に夢です。我々が幼かった頃、、一日という概念すらありませんでした、、起きて目に映る何かと戯れ、気づけば寝ていて気づけば起きていて、、寝ようという動機もなく、、自分という存在すら居ない、、、時間という概念もない、、、ただ「在る」をやっていたわけです。ところが言葉を覚え始めた頃から全ての目に映る何かに「これは何???」を連発するようになるのです。そして目に映るすべてに名前を付けていき、、徐々に徐々にただ「在る」の世界から夢の世界、ドラマの世界が浮かび上がっていくのです。

自我は比べるのが大好き

あらゆる何かに名前を付け終わると、、、今度はどっちが強い、どっちが好きか???とそれらを比べることを覚えていきます。「私」と「妹」どっちが好き????「アンパンマン」と「バイキンマン」どっちが強い???と分離した確固を比べるということを始めていきます。こうやって強弱、優劣、短長をそれぞれに付けながら関係性を築いていくわけです。この延長線上で我々は人間に対しても優劣、強弱、老若と比較していきます。本当はたった一つのエネルギーに無理くり名前を付けさらに比較するということをやります。

この偏見がそのまま観念になる

この偏見の寄せ集めが観念になり、、その観念を通して我々はこのたった一つのエネルギーを完全に分離比較して見るというドラマを生きることになるのです。その結果あらゆる思考、感情が湧き上がりそれを「私」が回収していきます、見かけ上。幼児を除けば人類全員が偏見を寄せ集めた観念を所有しそれを通じてたった一つのエネルギーである世界を独自の世界(夢)に置き換えて見ているのです。

そう見えているだけだ

この事実が理解できてきますと、、見えている物に対し、、、それをそのまま信じるのではなく、、、今はそう見えているんだな、、、という俯瞰した感覚が芽生えてきます。例えばある人に対し嫌悪感を抱いても、、今はそう見えているんだな、、、と一呼吸置けるのです。そう見えているのは私の観念がそうさせているという感覚を持てるのです。私を取り巻く環境がこう見えているということは私がそういう観念を持っているからだ、、、という真実に照らした生き方ができるようになるのです。そして我々は真実そのものですから真実にやがて吸収されていくのです。

この体の奇跡

夢の中で消えないこの存在

この体だけがこの夢の中で一切消えない存在です、この体だけです。それ以外は常に入れ替わり立ち代わりしていきます。何かに没頭している時この体はこの世界から一時的には消えるんですが気づけばこの体は元の場所に収まっています。この体は常にこの夢の中心に居座り続けています。

ただしこの体も夢の一部

ただしこの体もこの夢の一部です、、この体があるように見えているだけです、、画像です。勿論触ればこの体は反応しますし、食べれば味覚を感じます、、ですがこの体が実在するという証拠はありません。どこまでいってもこの体は夢の一部でしかないのです。移りゆく夢の一部としてこの夢に鎮座し続けています。

その中の私

一方この体の中に居ることになっている私は、、忘れてしまえばずっと出てきません。例えば忙しさで忙殺されているときなどしばらくは出てきません。一旦落ち着き我に返った時に「あー今日は私は忙しかったなー」と我に帰るのです。この体がこの夢から消えないから、、この私も存続できているのです。そこら辺が分かってきますと、、覚者がいう「私って本当は居ないんです」という言葉が入ってきます。

私が居るという前提の観念

この体が存続されているから「私が居る」は成り立つのであってこの体がこの夢から消えれば「私は居る」は成り立たないわけです。この私が居るという思考、この思考を前提にした観念は、、そこが崩れますと変わって行きます。常に私は居る、あなたの体にも「あなたが居る」という前提の観念が構築されており、、ここが崩れていきます。するとこの夢は観念が投影された世界ですから見える世界が変わっていくのです。

毎晩見る夢は誰が見ている????

自分ですか???

毎晩夢って見ますよね!!!あの夢っていった誰が見ているんでしょうか?????自分ですか???もしも自分ならば、、夢の展開って決めれるはずですよね????全くもって決めれないんです、夢の内容って。そうなると、、、これは自分ではないんです。すると誰だ?????あえて言葉にすれば全体、神、真我ということになります。では全体、神、真我には自由意志はあるのか???ということになりますが、、そんなものはありません。神が全人類80億人の見る夢を一人一人創作している????いやいやしんどいでしょ。

自分って思考なんです。

自分って何ですか????っていったら思考なんです、、これはペンです、これはりんごです、これは私です、、、、という言葉です。。。この言葉が、、、、何かを決めるって不可能なんです。りんごという言葉が、、、りんごを動かすってどう考えても不可能なんです。自分っていう言葉がこの体を動かすって不可能なんです。この体の中には自分が居るよね!!!この予想がこの体を動かすって不可能なんです。

夢の中には一つも絶対の存在って存在しないんです

夢って実在しないから夢なんです、、、昨夜見た夢に出てきた、、あのイケメンは今何をしているだろうか?????居ないんです、、、それを夢っていうんです。するとこの現実って呼ばれる夢の中の登場人物の全ては実在しないんです。つまりこの私、自分も実在しないんです。居るって信じることはできます。居るって思考することはできます。しかもその思考は今しかできないんです、未来永劫それを維持するのも無理なんです。

この話って嫌われるんです

テロリストがなぜ嫌われるのか????それは世界を混乱させるからです。それはこの悟り系の話も同じなんです、混乱させるんです、、、だから徹底的に嫌われます。だからこんな話は積極的にしない方が良い。こうやってブログに書いたり、YOUTUBEで見たり、こっそりやればいいんです。でも本当は全員が心の奥深くでは分かっているんです。

ツイテル、ツイテル

これはハッピードリームのテクニック

ツイテル、ツイテル、感謝します、、こういった言葉を唱えるだけで人生は好転するんです!!!これを本当に信じればこの夢はそのような現象化します。この世界、この夢は言葉が作り出す世界ですから、、この理論は大正解です。ですが、、、、残念ながら、、、これでは不足感、違和感は解消されないんです、、このメソッドで良いことが現象化しても、、、不足感、違和感が消えないんです。だからもっともっとになります。コレは夢です、完全に夢なんです、、だからこの夢から目覚めないと本当の苦しさからは抜けれないんです。

ハッピードリームの実現は悟りへの入り口

アンハッピードリームよりもハッピードリームの方が良い。それは本当でしょう、その方が居心地が良いですからね。ですが本質的なストレス、本質的な違和感はこれでは解消されないんです。釈迦は国王という地位を捨てて悟りを開きました。多くの方から羨ましがられる生活をしていても苦しいが消えないのです。ハッピードリームを手に入れることは、、それでも苦しみは消えない、、という気づきを得るには素晴らしいことです。

所有できない苦しみ、所有する苦しみ

世の中には二つの苦しみがあります、一つは所有できない苦しみ、二つ目は所有する苦しみです。所有できない時はそのことで苦しみ、所有すれば手放す恐怖に苦しむのです。アンハッピードリームに苦しみ、ハッピードリームに苦しみ、、二つの苦しみから解放されたいと願う時悟り、目覚め、解放があります。その時関心がそこに行くことからそれらの情報が集まり準備が始まるのです。

「全ては一つだ」は概念

分離ではなく統合、、という概念

この世界を言葉で表現するのは簡単なことです、全ては一つ、全ては夢、本当は何もない、、、これらの言葉を覚えても暗記しても難しいのは、、、これらが言葉だからです。言葉というもの自体が本質を切り刻む役割で誕生したものでありその言葉で真実を表現するのは矛盾があるのです。我々は「全体」という言葉を聞くと全体というイメージをしますが、、これこそが夢なのです。夢から覚めるために言葉を使うとさらに夢が広がるというオチです。

言葉は分離を作り出すもの

言葉とはイメージ、分離を作り出す道具ですから、、、この言葉で真実を表現するのは矛盾を含んでいます。ですからこの言葉で言葉のマジックを解き明かす、言葉のメカニズムに気づく他ありません。言葉で全体を理解するのではなく分離が作りだされるメカニズムを理解することで真実に気づいていくのです。

りんごという言葉

りんごという言葉は我々にあの形状のイメージを湧かせます、これがりんごという言葉の力です。この夢は言葉を作り出すことで夢を作り出しているのです。言葉はイメージを次から次へと湧き出させ、、、この夢を無限の可能性の表現の場所にするのです。

では本質とは

本質とは言葉によってドラマを作り出すこのスクリーン、そしてこのドラマそのものです。このドラマの原動力、素材、ドラマをドラマたらしめている全てが本質なのです。本質が形をかえて言葉を使いこのドラマを上映させているのですがこの全てこそが本質です。このドラマの中の自分という存在を作り出している力も本質です。本当は何もないんです!という表現は、、そういう意味です。何も無いとも言えますし経験の全てとも言えます。

夢の中でなぜ悟り本があるのか???

悟り本の意味

コレは夢です、完全な夢です、、、、小学校時代に帰りに悟り本を立ち読みして帰った、、そんな経験はないはずです。友人の家にゲームしに行ったら悟り本があった、、これもない。。。なぜ???なぜ無かったのか????簡単です、、関心が無かったからです。関心が無ければこの夢ではそれにまつわる情報は出てこないのです。つまり悟り本があなたの世界に現れたのは、、あなたがそっちに興味が湧いたからです。

漠然とこの世界って????

私は覚えています、、高校生時代に宇宙の果てってどうなっっているんだ????と考え続けたことを。。物理学なんかを高校で学びますと、、、全くもって理屈が合わないわけです。数学上、、宇宙という存在自体が絶対に無理があるんです。だから、、、悟りという言葉が現れ、それにまつわる情報が入り始めたのです。コレは夢ですから。

関心があるんだから読めばいい

本なんて読まない方が良いですよ!!!そんなことを言うスピーカーも居ますが、、そのスピーカーも夢の登場人物に過ぎないのです、、その言葉を過信してはいけません。悟りに関心が湧くのであれば読めばいい、、ですがそれで気分が悪くなるならば辞めた方が良い、、、受験勉強みたいに何冊読んだら悟れますか????の世界ではないですが。コレは夢です、、、何冊読んだから結果が約束される世界ではないんです。

軸が通る

私の場合は、、夢という発想、概念を真実の解明に用い始めたら、軸が通りました、入ってくるようになりました。瞑想???マントラ???サットサン????あんまりピンとこないんですね、、ですが夢だ、、という言葉は何かを壊すんです、私の中の観念を。私の観念が崩壊していくんです、夢という発想に。

観念、投影、時間、空間

コレが夢だって気づいた瞬間に、、この夢は観念の鏡である、そして時間も空間もない、、がガツンと入ったんです。頭に入ったというか、、、真我からの思考が変わるんです、、流れが壊されるんです、、自我形成の思考が。急に楽になるんです、、自我を構築する思考の流れが壊れていく感じ。

悟り本も勿論存在していない

これは夢です、完全に夢です、、ですから悟り本も実在はしないんです。あくまで夢の中のアイテムに過ぎない、、でもそのアイコンによって観念が変わると、、この夢の中が変わってしまいます。夢ですから常に変わるんですが大きく変わるんです、人間関係、仕事関係、体調、などなど。悟り本とはこの夢の解体説明書。ただしあくまで夢のアイテムですから偽物も多い、混ぜ物も多い、なんちゃっても多いんです。ですがそれも夢の遊びです。