偏見の塊=観念

夢を夢たらしめるもの

これは夢です、完全に夢です。我々が幼かった頃、、一日という概念すらありませんでした、、起きて目に映る何かと戯れ、気づけば寝ていて気づけば起きていて、、寝ようという動機もなく、、自分という存在すら居ない、、、時間という概念もない、、、ただ「在る」をやっていたわけです。ところが言葉を覚え始めた頃から全ての目に映る何かに「これは何???」を連発するようになるのです。そして目に映るすべてに名前を付けていき、、徐々に徐々にただ「在る」の世界から夢の世界、ドラマの世界が浮かび上がっていくのです。

自我は比べるのが大好き

あらゆる何かに名前を付け終わると、、、今度はどっちが強い、どっちが好きか???とそれらを比べることを覚えていきます。「私」と「妹」どっちが好き????「アンパンマン」と「バイキンマン」どっちが強い???と分離した確固を比べるということを始めていきます。こうやって強弱、優劣、短長をそれぞれに付けながら関係性を築いていくわけです。この延長線上で我々は人間に対しても優劣、強弱、老若と比較していきます。本当はたった一つのエネルギーに無理くり名前を付けさらに比較するということをやります。

この偏見がそのまま観念になる

この偏見の寄せ集めが観念になり、、その観念を通して我々はこのたった一つのエネルギーを完全に分離比較して見るというドラマを生きることになるのです。その結果あらゆる思考、感情が湧き上がりそれを「私」が回収していきます、見かけ上。幼児を除けば人類全員が偏見を寄せ集めた観念を所有しそれを通じてたった一つのエネルギーである世界を独自の世界(夢)に置き換えて見ているのです。

そう見えているだけだ

この事実が理解できてきますと、、見えている物に対し、、、それをそのまま信じるのではなく、、、今はそう見えているんだな、、、という俯瞰した感覚が芽生えてきます。例えばある人に対し嫌悪感を抱いても、、今はそう見えているんだな、、、と一呼吸置けるのです。そう見えているのは私の観念がそうさせているという感覚を持てるのです。私を取り巻く環境がこう見えているということは私がそういう観念を持っているからだ、、、という真実に照らした生き方ができるようになるのです。そして我々は真実そのものですから真実にやがて吸収されていくのです。

(Visited 1 times, 1 visits today)