大いなる一つ

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。

観察することを「考え」ても無駄

今にあることは思考ではない

負の感情が湧いてきた時にそれを観察する、ただ集中してその感情を見つめる、、、これは思考して理解できるものではありません。むしろ思考こそが観察の邪魔になります、思考を削ぎ落とすために観察に集中するのであってそれを思考すれば本末転倒です。今にある、大いなる一つになる、真我になる、無心になるとはどういうことか?ここに思考で行き着こうとすれば矛盾が発生するのです、ここは絶対に思考では入れない世界だからです。じっくりと負の感情、ペインボディーを観察することで思考を削ぎ落としそこから無心、無我、大いなる一つに入っていくのです。そこには歓喜、平和、安堵があります。

周囲の人間に振り回されている、、、

自分自身は今にあることができても周囲の人間がそれができていない、、だから難しい、、、これも頻繁に聞く話ですがこれは論点がズレています。自分自身が感情を観察できていて周囲の人間の感情を観察できない方が不思議なのです。自分の感情こそ自分ごとでありこれには過剰に反応するのが人間です、逆に周囲の人間の感情など容易に観察できるはずです。観察することに集中するのです、そしてそこから悟りに入ります。そこから無心、無我に入り込みます。自分の体から湧いてくる負の感情観察が一番難しくだからこそそこからの悟りは強いのです。

自分関係に比べたら人間関係など楽勝

自分自身の感情、不足感、孤独感、欠乏感、退屈感、、、、この感情の対処には非常に敏感になります。真面目な方はこの感情を無視することができずこの根絶に命を燃やします。ですが解決をすればするほどに負の感情はより勢いを強めて攻め込んできます。真面目な人がうつ病になるのはこのためです。ネガティブな感情、ペインボディーの解消は真面目に思考を働かせれば地獄を見ます。そうではなくただ見つめます、ただ観察します、観察に集中します。これによってそこから無心、無我、真我に入っていくのです。

負の感情に思考を使わず観察すると意識のエネルギーに変換される

負の感情はパワー

負の感情が湧き上がった際にここで思考が通常はフル回転します。この負の感情を解消すべくです、ですがこれをしない、、ここから感情の観察に入るとどうなるか、、、負の感情は暴れずに消え去ります、そして意識は大いなる意識、真我へと変化します。意識が負の感情エネルギーを利用して活動を行うようになるのです。負の感情は思考と密接に繋がっていて自我のメカニズムを通常は強化します。ですがこれをしないで観察に徹すると観察者が生み出されます、それが大いなる存在です。負の感情はエネルギー化し意識の僕になります。

不良が大成するメカニズム

少年時代の不良が改心してそのまま大成する、、、大人になる、これは決して珍しい話ではありません。それどころか少年時代にグレてしまうような人間は大きなパワーを秘めています。それが負の感情とし思考のメカニズムに埋没すると非行という形になります。自身の行動を改め、負の感情に対し意識的に付き合う、観察をしていくとこの感情エネルギーは陽転し大いなる一つの僕として活動します。大いなる一つの活動エネルギーに昇華されます。多くの場合負の感情が湧き出すと思考が直ぐにこの感情を解消しようとするためお酒、ドラッグ、タバコ、ギャンブル、異性と気晴らし行動に転じます、これぞ思考の真骨頂です。そしてこれによって益々自我が強化されることにより不良行動に拍車がかかるのです。

負の感情と反社会勢力

負の感情を思考が解消しようとすれば必ず即座的な行動、短絡的な行動になるのです。例えば違法賭博や、違法ギャンブル、違法〇〇といかに短絡的にこれを解消するかを思考は考えだすのです。これを支えるのが反社会勢力になります。思考が考えだす負の感情の解消方法は常に短絡的、その場しのぎなのです。本人が少年時代にこのような生活を送った場合、そのままその先に進んでいくとこのような社会に生きる道を求めていきます。負の感情が湧いた時に即座に思考によって解消しようとしない、、負の感情を観察し、、しっかりと観察し集中しそこから無我無心に入っていきます。負の感情が湧く度に観察者になることに徹すれば負の感情はやがて観察者(大いなる一つ)の僕になります。

「最強のメンタル」は存在するか?

存在しない

本屋さんに行けばこのようなタイトルの書籍が数多く並んでいます。最強メンタル、メンタリスト、土壇場メンタル力、朝からフルコミッションメンタル、タスク処理メンタル術、、、これが人間がまだまだ思考というものの本質を理解できていない証拠です。思考というものは使えば使うほどに自我(これが自分であるという思考)が強化されていき負の感情を湧き出させます。思考をフルスロットルで使い倒せばそのまま負の感情が湧き出てくるのです。思考というのはナイフのようなもので確かに効果があり目の前の問題、負の感情を一刀両断できる力を持っています。ですがその思考こそが自我を形成し得体の知れない違和感を湧かすのです。人間として生きていて感じる孤独感、喪失感、不足感、欠乏感を生み出す真犯人こそが思考に基づく自我です。

目の前の負の感情を蹴散らすからこそ人は思考中毒になる

目の前に起こる負の感情、負の問題点を思考はバッサバッサと切り倒し蹴散らす力を持っています。そのため人は思考を一番の友とします。特に思考が回る人ほどに思考を使い倒すことになる、思考と一心同体、思考と心中するかのようです。ですがこの思考を心の友、中毒化した関係を継続しますとまさかの負の感情が増え続ける結果になっていくのです。思考とは自我を作り出すエネルギーでありそれはそのまま自我の肥大化を起こすわけです。

思考中毒から抜け出すには

思考中毒から抜け出す方法は何か?思考を野放しにしないことです、思考の活躍を応援しないことです。朝から晩まで思考をフル回転させないことです。これらを行えば行うほどに負の感情が湧き出してきて負のスパイラルに突入します。そうではなく負の感情が湧き上がったらそのままそれを観察します、感情が起き上がった状態をしっかりと観察し集中し無心になります。今無心という言葉を書きましたがそこに集中すると感情が消え去って無心状態、無我状態に入るのです。負の感情から逃げるのでもなくそれを臨機応変に処理する必要もない、ただそれを見つめます。ここが神、真我、大いなる一つの入り口です。

気晴らしのレジャーは必要ない?

人間が行うレジャーとは退屈、不幸を感じさせないための予定の詰め込みがほとんどです。何かしらの用事を詰め込んでしまえば退屈、不幸、孤独、寂しさを感じないで済みます。だからこそ皆必死になって予定を詰め込むのです。何も予定を入れなければ死んでしまう、、それほどまでに人は負の感情の扱いに困っているのです。負の感情は逃げても常に追いかけてきます、負の感情は逃げてもまた次の日には起き上がってきます。ですからこれと戦うのはもうやめましょう、これから逃げるのではなくそこを観察し集中し、無心になって無我に入ります、悟りに入ります。

負の感情が湧いてきたらチャンス

負の感情が湧いてきた時こそ

負の感情が湧いてきたら多くの人はテンションが下がります、緊張します、苦しくなります、、、、そしてその解消に思考を使います。これが人間の当たり前の行動です、ですがこれをしない、これをすると一時的にはこの負の感情は解消されても直ぐにまた負の感情が量産されてしまう。ここでグッと耐えてこの感情を同一視しない、これを自分のモノにしないこう決めます。そしてこの感情をまるで他人事のようにしっかりと観察します。今この体の中に「負の感情が湧いている」ただこれだけです。これをなんとかして解消しよう、、、これが自我、思考の罠です。

負の感情が湧くことで悟りが開く、、、、

負の感情が湧いてきた今瞬間こそが悟りを開くチャンスです。負の感情が湧いてきたら多くの方がテンションを落とし、腐り、気分を落としますがここを悟りのチャンスに使います。感情の観察者になってしまうのです、感情の観察者になることに無心になります。感情の観察者になることで無我になります。自我としてこの感情を解決するのではなく無我になるのです。これは大反対の解決方法です。自我が解決するのではなく真我になるのです、この瞬間に。これが感情観察により悟りの開き方です。

人は今悟りを開く

感情が豊かに湧いている状態とは人間が最も人間らしい状態です。この瞬間は普通は自我全開の状態、実は苦しい状態なのです。この状態において無我になる、気づきの意識になる、真我になる、、、悟りを開く。。これが人生を苦しみの中で生きていくか、至福の中で生きていくかの転換点になります。「今日はなんて退屈なんだ」この感情をしっかりと観察することでそのまま真我、無我、大いなる一つになるのです。こんなことを人間が果たしてできるのか?人間にはこれはできません、それをするのは真我、無我です。歓喜、平和、愛がこれをします。

感情の真相を知ると感情が湧かなくなる

不思議な現象が生まれる

感情とは本当に不思議なモノでこれは自我の餌です。自我を食いつなぐために感情は生み出されそれを自我が食べて生き残っていきます。そして自我が肥太れば太るほどに空腹感も上がっていくのでより感情が生み出されるというメカニズムに突入します。そしてその感情の基本はネガティブです。違和感、孤独感、不足感、倦怠感、喪失感、、、これらの感情が湧き続けることで自我は生き延びていきます。このメカニズムを理解しますと不思議なことに感情の湧き出しが静かになります。感情に対する自我の反応、思考の反応が自動反応で起きなくなることで感情が湧かなくなるのか、もしくは感情が静かになることで生き延びてきた自我が縮小化し結果感情の湧き出しが抑えられていきます。

感情的は全く優れていない、、

あの人は感情的だ、あの人は感情が豊だ、、、これは決して悪口ではありません、その人の個性を表現しただけのことです。ですが残念ながら感情の湧き出しメカニズムを理解しますと感情が湧き続ける方は自我が強烈に強いことが分かります。そしてその感情の多くはネガティブですから苦しい人ということになるのです。常にネガティブな感情が湧き続け、それを思考が解決することでさらに自我が肥大化していくという恐怖のメカニズムが進行している人ということになるのです。自我という思考に裏打ちされたメカニズムが居心地の悪さを生み出し、そこから得体の知れない感情が湯水のように湧くのがこの感情の正体です。

自分の思考に絶対的な自信を持つ人

自分自身の思考に絶対的な自信を持つ人はそのまま自分に自信を持つ人とも言えます。これは大変危険な状態でもありネガティブな感情が大爆発するケースでもあります。そしてその感情を常に思考で解決していくことで自我はさらに肥大化の一歩を歩んでいきます。苦しいという感情が湧いてきてもそれを直ぐに解決しなければ不安でたまらない、、なぜならば自分は優れた人間だから。これすらも自身を脅かす脅迫感になって自身を追い詰めていくのです。結果他人を寄せ付けない孤高な人間が誕生します。

成功を自我は自分のものにする

成功とは自我にはとっては最高の餌です。この成功は私(思考)が成し遂げたのだと自我の存続を絶対的なものにします。本当はこの成功こそ集中力に頼った無我の功績である可能性が高い、、、例えばイチロー選手などスポーツ選手を成功に至らせるのは過度な集中力、無心、無我状態でしょう。つまりこの成功には積極的に大いなる一つが絡んでいます。ところがこれを自我は独り占めにする、この思考(頭脳)、人格(自我)こそがこれを成し遂げたのだと威張り散らすでしょう。こうして自我は絶対的な存在に君臨しそこから負の感情が量産されます。自我とは負の感情生産機だからです。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

女性は受容から悟りに入り、男性は集中から悟りに入る

女性と男性では悟り方が異なっていい

女性は男性に比べて受容的です、子育てという弱い人間を育てる立場からか受容力が男性よりも高いです。言葉が喋れず、思考が未熟で、判断能力がない子供を受容する包容力が男性よりも高く作られています。子供のワガママ、子供の喜怒哀楽、子供の癇癪に対して女性は忍耐強くそれを受け入れます。女性が子供を産むと波動が変わるというのはこのためかもしれません。女性は自身から湧いてくる感情を見つめ観察しそこから悟りに入れる可能性があります。男性は女性に比べ攻撃本能が高いので自身から湧いてくる攻撃的な感情に振り回されてしまう可能性が高い、ですが女性は受け入れるという受容性が高い分、他人からの攻撃から湧いてくるネガティブな感情を観察しそこから悟りに入るということができます。子供の暴言、子供の泣き言、友人の悪口、友人のヒステリー、、、あらゆる感情の揺さぶりを観察することでそこから悟りに入っていきます。

男性は集中から悟りに入る

男性は本来狩に出る役割がありましたから、ジャングルに入っていき集中力を駆使して獲物を捕獲します。敵を攻撃するために集中力を極限まで高めていき獲物を確保します。この集中力とは同時に無我の境地でありそこから悟りに入ることができます。集中して集中して集中し尽くしていくことで自分という偽りの自我を完全に排除していきます、その状態は大いなる一つ、無我、無心、悟りです。獲物を捕獲するためにそのまま歓喜、平和、安堵になっていきます。男性の職人さんが多いのはこのためです。男性は何かに集中し尽くすことでそこから悟りに入れます。

悟という状態を知ることでどこからでも悟りに入る

女性は子育てを通じて受容から悟りに入り、男性は仕事などで集中し尽くすことでそこから悟りにはいります。そして一度この悟った状態を経験すると人はどこからでも悟りに入ることができます。悟りとは遠いどこかにあるのではなく常にここに悟りがあるわけでそれを邪魔しているのは常に自我です。思考によって構築されたこの自我こそが悟りを見えないようにしている張本人であり自我のシステムエラーが負の感情です。この負の感情を受容し観察することで悟りを開くこともできれば、その感情から何かに集中することで悟りを開くこともできます。

人間の自我が負の感情を生み出すことを理解すれば、、

人間の自我こそが負の感情を生み出していることが理解できれば人はどこからでも悟りを開くことができます。その負の感情をじっくりと観察することで無我に入ることもできれば、その負の感情から何かに没頭して集中し尽くして悟りを開くこともできます。どちらにしても人はこの負の感情から思考を使って逃れ続けることは困難でありいかにこの負の感情と向き合う癖をつけていくかが重要になります。思考は常に思考を使ってこの負の感情を解消しようと企てますがこの作戦は常にその場しのぎです。そうではなくこの負の感情こそが悟りに入る入り口であるという俯瞰した視点が重要です。

お酒、タバコ、ギャンブル、異性は負の感情を解消する思考の罠

思考が勧める負の感情解消は罠

何かつまらない、何かストレスが溜まっている、何か虚しい、、、、これら負の感情に対する思考が提案することは何か?お酒、タバコ、ギャンブル、異性など安易にこれを解消することを思考は即座に提案しそれに乗ります。そうすると負の感情は即座に解消されてしまうことでまた負の感情が湧いた時には思考は大活躍します。ですがこれは思考の罠です。負の感情が湧いてきた時こそが思考が大活躍できる機会ですがこの思考に委ねた負の感情解消は対処療法の域を出ません、結果即座にすぐ負の感情が湧いてきます。これは負の感情が湧くメカニズムを知らない無知な人間への思考の罠です。

思考こそが負の感情をこしらえる

思考こそが実は負の感情制作の張本人です。思考こそが負の感情をこしらえています。思考という偽りの自分制作ツールこそがこの偽りの自分を維持し続け結果負の感情を湧かし続けているのです。逆に言えば負の感情が湧いている限り偽りの自分が居続けている証拠になります。負の感情とは偽りの自分、自我、エゴが今現在どれほど幅を利かせているかのバロメーターなのです。ですから負の感情から逃げるのではなく負の感情を徹底的に観察することで逆にそこから大いなる一つ、気づきの意識、ワンネスになってしまうことをお勧めします。

思考はこの物理次元の王

思考というものを疑う人間はそうは居ません、なぜならば思考こそがこの文明を発展させ続けてきた張本人であり今でも思考の優劣が人間の優劣を決める大きな要因になっています。あの人は頭がいいというのは勿論敬意を込めて使います。まさか思考が人間を苦しませ続けているなど思うはずがありません。ですが東大卒などの知の権威大学卒業生が皆幸福かと言えばそうではなく、、これこそが思考の限界、むしろ思考の真の姿でもあります。まさか思考がこの自我、エゴを作り出し負の感情をひたすらに湧かせ続けているとは、そして日々人間はこの負の感情と戦いそして思考に救いを求めているか、、ということです。