大いなる一つ

人間が悟りを渇望する理由

常に穏やかな人に対し人は無意識に悟りという言葉を使う

実は悟りとはその人の人格とは全く関係がない、極悪人だろうと、犯罪者だろううと、詐欺師だろうとこれが夢だと腹落ちすればそれは悟りです。悟りとは人間が悟るのではなく人間扮する神が自身の存在を思い出すことですから人間役の役柄が王様だろうと一般人だろうと、詐欺師だろうと何も関係がありません。結局は神が何に扮していたかということであり本当の私は神、大いなる一つ、ワンネスであることに何も変わりはありません。そのような中で間違いなくこれは夢だという気づきが訪れます、どう考えても夢だと。現実思っていた目の前の現象が夢だという気づきが起こります。その時人は力が抜けます。

人間でいるのは苦しい

人間とは苦しい状態です、自身を人間であると盲信しこの現実社会にどっぷり浸かっているのは苦しいものです。それは人間扮する神の嘆き、飢え、叫びです。早く神に戻りたい、、ではないですが神はこの人間活動を楽しんでいるという同時に苦しんでいるのです。苦しむのは当たり前ですしそれは承知のこと、なぜならばこの広大無辺、深淵で、偉大な存在がちっぽけな人間の体を自分と錯覚する活動ですから想像するだけで絶句します。この絶句がアーティスト、クリエイターの怒りの元になります。岡本太郎の怒りは神の怒りです。尾崎豊の怒りは神の怒りです。

神でいるのは退屈

神がなぜこの夢物語を作り遊ぶのか、こればかりは神に聞いてみないと分かりません。恐らくこのなぜ?というのは人間の視点であり神に動機は必要ないでしょう。ただそれが起こったということになります。人間が悟りに渇望し、神に渇望するのは、、自身が神であることを本質では分かっています。だからこそ窮地に立たされた時に人は本能的に神に拝みます、仏の拝みます。悟りに興味を持ちます。人間扮する神は窮地に立たされることで八方塞がりになった時に最終手段本当の自分(神)に戻ろうとします。

マリオは敵キャラの存在でキャラ立ちする

敵キャラの存在はこのゲームにのめり込むための道具

敵キャラがいなければマリオはスーパーマリオというゲームにのめり込めません。マリオは本当はゲーム上のキャラでありこのマリオに成り切るためにはどうしても敵キャラが必要になるのです。敵キャラが継続的に現れてくれるおかげでさもマリオが実在しているように感じるのです。まるでマリオが実際に生きているかのような錯覚を持つことができるのです。この地球ゲーム、人間ゲームも全く同じです、あらゆる敵が現れてくれるおかげでさも人間という個人が実在しているかのような錯覚を持てるのです。

あらゆるアイテムもゲームにリアリティーを持たせる道具

スターもキノコ、これらアイテムもスーパーマリオにリアリティーを持たせる道具です。これらのアイテムを手に入れることでゲームに多様性を持たせよりリアルにこのゲームを体感できるように設定されています。本当はマリオは実在しません、スーパーマリオゲームという夢の中にだけ存在します。だからこそあらゆるアイテムを用意することで夢に没入できるのです。さもマリオが実在するかのような錯覚を起こすことができます。

地球ゲーム、スーパー人間はリアリティーの塊

人間が主人公ですからゲーム名はスーパー人間です。このゲームの中で人間は多種多様な敵、多種多様な仲間、多種多様なアイテムと出会うことで圧倒的にリアルな経験を積んでいきます。スーパーマリオの10000倍リアリティーのあるゲームです。GOOGLEグラスというアイテムが出ましたがこの100000倍リアルにゲーム展開します。今後任天堂グラス、PLAYSTATIONグラス、アップルグラス、と様々なゲーム用グラスが売られるでしょうが神グラス、ワンネスグラス、大いなる一つグラスに勝てるものが出ることはありません。

これが夢なのは分かった、だからどうすればいい?

夢だろうと事実だろうと生きていかなくてはならない、、

これが夢なのはわかりました、ですがだからといって今後どうすればいいのか?夢の中かもしれないが、、生きていかなくてはならないという事実は何も変わらない。ということになります。不足感、欠乏感が続くのも同じではないか、ということです。人間の悩みの9割は人間関係だと言われています、そこにはしっかりとした独立した人間が居るという大前提で人間関係が行われるわけですが実はその人間は夢の登場人物に過ぎません。ということは主人公である私がいかに相手との関係に努力をしたとしてもその努力がどのぐらい報われるかは全部夢を見ている張本人(大いなる一つ)が決めています。そこの人間としての努力が及ぶわけがありません。つまり人間関係が上手く行くかいかないかは全部神が決めているということです。この事実だけでも人間関係を上手くいかせようとする気持ちは半減するはずです。

生きて行くのは事実だが悩みは確実に減る

なぜ自分のことを分かってもらえないのか?なぜ自分の努力を見てくれないのか?なぜ自分の配慮を感じてもらえないのだろうか?これらの悩みは「これが夢だ」という確信で全部ぶっ飛びます。夢の中での相手の行動は夢を見ている存在が全て決めているからです。その存在は本当の方の自分です。本当の方の自分が決めた決断を、とりあえずの自分(人間)が攻めても仕方がないのです。悩みっていうのはどこまでいっても自分(人間)の思い通りにならない、、ということですから、、、実は本当の自分が全部思い通りの決めているのならばこの悩みはぶっ飛ぶのです。

それでも残った目標、悩み解決には無心になって取り組む

これが実は夢だったという事実を目の前にすると、多くの悩みはぶっ飛びます。ですがそれでも不足感、欠乏感、孤独感は湧き続けるでしょう。この感情に対しどうするか、、、その目標達成、悩み解決になって無心になって取り組むのです。花道のように、茶道のように、武道のように全部をルーティンの所作、練習によってそこから無心、無思考、無我に入って行くのです。その目標達成のために歓喜、平和、安堵に入って行くのです。

知の権威の自殺は夢から覚めるポイントになる

大学教授の自殺は人間の知がいかに浅いかを証明する

大学は教育機関の最高権威、東大教授となったら最高知能の持ち主ということになります。IQなどで言ったらそれは本当でしょう。ですがなぜ彼らの中に自殺者が出るのか??最高の知性を持ち合わせる人間がなぜこの人生に絶望し死を選ぶのか?人間とは手に入れた知識を自分のものと所有していきます。この所有物が最も多いのが大学教授など知識で食べている人間です。この所有物の量はそのままそれを所有する自分を強化します。自分の存在を確固たるものにするのです。本当はいないのに。これだけの知識を所有する特別な人間様になるのです。この人間ドラマ、夢の中にどっぷりと浸かることができるのです。そしてこの夢にどっぷりと浸かると不足感が湧き出てきて無限地獄に入っていきます。最高権威、最高知識を所有しているにも関わらず無限地獄に突入していくわけです。

そうはいっても大学教授は穏やかな人が多い

実際には大学教授は穏やかです。彼らは勉強、研究を通じて無心、無思考、無我に入れる人が多いです。学ぶことを愛し、学ぶことに無心になって取り組むことでその場でワンネス、大いなる一つになれている人が多い印象があります。知識を得ることを通じて無心、無我を到達している人が多いのです。ですがこの事実を認識できず知識取得、研究結果の優劣に執着し始めますと思考ループに突入し無限地獄に入っていきます。

何かに無心になって取り組める人は気づく

何かに無心になって取り組むことができる方はこのメカニズムを本能的に知っています。取り組むことで得る収穫物よりも無心になって取り組む行為そのものに価値があることを。無心になって人が何かにとり組む時、その瞬間神になっています。無心無我とは人間の形をした神のことです。そもそも人間という独立した存在はこの世に存在せずそれを自分自身と勘違いする神がいるだけです。神が行為に没入することでその錯覚を忘れ神に戻ります。

体の美醜にこだわる理由

体の美醜に執着するのはなぜ?

これは夢です。ワンネスが見る夢です。この夢の中で人間は体の美醜にこだわったりします。ごく一部の女性はそのことで自殺を図るほど悩みます。これについて悟りから説明したいと思います。これは夢ですから本当は独立した体は存在しません。体という独立した存在はないにも関わらず全存在はこの体こそを自分と同一視します。無いにも関わらず体が在ることとしていきます。するとこの体が美しい、醜いと執着することでよりこの体への同一化が強化されていくのです。どっぷりとこの体を自分自身と錯覚することができます。この夢物語に没入できるのです。これは夢ですが全存在、ワンネスがこの体こそ自分(主人公)と勘違いすることからこの夢はスタートします。故に不足感が延々と湧き続けます、この不足感の対象が体の美醜に行き着くケースもあります。もっと美しい体であれば、もっと鼻が高かったら、この不足感を満たすことができるのでは、、、

美しさの先にあるもの、、

女性が美しさに執着するのは男性との関係もあります、美しい女性は好条件の男性をゲットできる。そう思い込む女性は多いでしょう。この夢の中では不足感が常に湧いてきます、そしてその不足感を埋めるのに異性は最高のアイテムです。より魅力的な異性をゲットすることでこの不足感は埋まるのではと妄想します。そのために先ずは自身がより美しくならなくては、、、ですが実際はどれほどハイスペックな異性と成就してもこの不足感が埋まることはありません。成就した瞬間は思考が止まり自我が緩みますから感動があります、ですがそれは瞬間的なもの、次第にまた不足感が湧き出してきます。その不足感は相手への不満に変幻し相手への攻撃に変わります。

美しくなることを目標にして無心に入る

美しくなることが悪いことはありません、美しくなるという目標が悪ではありません。そこを目標にすることでそこから無心に入ることができます。そこに一緒懸命になることで無心、無思考、無我に入り込めればそこに歓喜、美があります。手に入れる美以上の美がそこにはあります。美を目指すことで美そのものになることができます。全ての美は思考が抜け落ちた時に湧き出てきます。その美とはワンネス、大いなる一つそのものです。

世界的遺品などは無我になって制作されたもの

人間が人間のままで作ったものではない

世界的有名作品、ゴッホやピカソ、モーツァルトやベートーベン、彼らの作品が100年以上経っても評価が下がらない理由、それは人間が人間のままで作った作品ではないからです。ここは夢です。この夢の中で人間という形で作られた人間作品は思考、自我が作ったものです。私は人間であるという思考に支えられた作品は人間の制作物です。ですが多くの人に感動を起こす作品とは人間が作ったものではない、つまり自我ではなく無我が作ったもの。思考が抜け落ち自我も抜け落ち無思考の状態、無我の状態で作られたものはそのまま神の表現です。リアルな神、ワンネスの表現になります。そこに人間が介在していません。

人間とはこの心身こそが自分と思い込む思考のこと

これは夢です。ワンネスが見る夢です、この夢の中に独立した人間は存在しません。あんたが見る夢の中に独立した存在がいないように全てはそう見えるだけの表現です。この夢の中でもこれは同じで人間という独立した存在はいないのです、ですがこの心身こそは私という人間だという思考は存在します。つまり人間とは思考のことなのです。この思考がフルマックス、前回の時、この夢の中では人間が活動をしています。ですが火事場の糞力ではないですが思考が抜け落ちた時などは人間はそこには存在せず神、ワンネスの表現だけになります。

人間がいなくなるのではない、元々いなかった

夢の中に人間という特別な存在などいるはずがありません。元々いなかったのです、そこにこの心身こそが自分だ(自我)という思考が出現しました。この出現により初めて独立した人間(私)が誕生したのです。元々居ないのですからこれを無くすのは簡単、思考(自我)が抜け落ちる状況を作ればいいのです。例えば火事場、例えば事故現場、ポジティブには作業への集中、所作の集中、仕事への集中、などです。ピカソ、ゴッホ、モーツァルトなど偉人と呼ばれる人々はこれに気づき実践した者達です。ですから彼らは実際には人間ではありません。人間という後付けを削ぎ落としたワンネス、大いなる一つです。

ここは儚い(はかない)世界

人が夢の中にいると書いて「儚い」

これは夢です。これはワンネス、大いなる一つ、認識する私が見る夢です。その中で主人公としてこの人間(私)が存在します。人間とは独立した体、思考を所有すると錯覚する存在です。夢の中にこの主人公が居ることを人偏に夢と書いてはかない(儚い)と読みます。この感じを誰が考えたか分かりませんがこの感じは真実を照らしています。人間が夢の中にいる状態を儚いと表現するのは大変面白いことです。人間としてこの夢に存在すると常に不足感、欠乏感が湧き出てきます、あらゆる欲の形をとって常に常に不足感を欲が代替されて現れます。そしてこの欲はどんなに満たして直ぐにまたお腹が空く、食事のように満腹に至っても6時間後には腹が空くのです。どこまで行っても満たされないこの夢(人間の現実)はまさに儚いものです。

旅行しても儚い感覚を覚えたらもうけもの

旅行とは非日常に行くことで楽しむものです。非日常に行くと思考がストップします、お店、空気、気温、花々、どれもが新鮮でその瞬間に思考がストップするのです。だからこそ人は旅行にたまに行きたくなるのです。ですがこの儚さを知っている人はもう旅行にそれほど魅力を感じなくなります。なぜならば家に帰ればまた元の日常が待っているのを知っているからです。この瞬間だけの歓喜、無思考に興味を抱けなくなるのです。一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵に興味を持てなくなってきたらもう儚さの意味を知るマスターです。

儚さからの脱却

長生きなんてしたくない、、生きていても楽しいことは一瞬であとは退屈な日々、このような境地に至ったらこの夢物語は大成功。夢の中の人間活動をしっかりと全うしている証拠です。人間活動とはそのようなものなのです、ほとんどの時間は退屈、苦痛で、たまに一瞬だけ歓喜らしきものがある。思考が止まったその瞬間だけが幸福、歓喜、安堵が押し寄せてきてそに波は直ぐに引いてしまうのです。ではどうしたらこの儚い夢の中で歓喜、幸福、安堵を積極的に得ることができるのか?それが無我に入る、無心に入る、無思考に入ることです。このブログでも再三お伝えしていますが反復、ルーティンで物事を達成していくということです。茶道、花道、書道的に人生を歩んでいきます。

スーパースターになれない、、夢の中での挫折

子供の頃は全員がスーパースターになれると思っていた

子供の頃は全員が何かしらのスターになれると信じています。男の子ならばスポーツ選手、歌手、アーティスト、、女の子ならばアイドルや、お姫様、、などですが小学校5・6年生ぐらいになると徐々にわかってきます。どうやらそれは難しいと。言語が理解できてきて世の中のことを認識できるようになるともうそのような夢を語る子供がいなくなってきます。現実?的になってくるのです。

実はこの夢そのものだった

子供の頃は大きな目標も持つと、「そんな夢みたいなこと言って」周りから揶揄されるようになるのですが実はこの現実そのものが夢です。この現実こそがワンネスが見る夢です。夢の中で少年は自身(ワンネス)を思い出しそこに戻りたいと語っていただけなのです。何という逆転現象、子供は自分がワンネス(全て、完璧)だったことを覚えていてこの夢の中で事実(ワンネス)を語っていたのです。夢を見ているのは分別があるとされる大人(ワンネスを忘れ去った)の方です。

夢の中での挫折は違う形になっていつか叶う

大人になってからスーパースターになりたいと思う人は稀でしょう。もうそんな欲求はとうに打ちのめされて忘れているはずです。ですが大人になってからの夢はもっと壮大で現実的です。それはこれが夢だと分かることだからです。これが夢だとしたらそれを見ている張本人こそが自分だという気づき、スターではなく創造主だったということ、スターでははなく神だったという気づきです。錦野旦にはなれなくてもワンネス、大いなる一つに戻れます。

この苦しみを終わらせることができるのは思考だと言い張る思考

今のこの苦しみ解決は思考に任せろと主張する

これは夢です、ワンネス、大いなる一つが見ている夢です。この夢の中に自身がいるという錯覚からこの夢物語はスタートしますがこの夢物語、ここに居るだけで基本苦しみが湧いてきます。湧くように設定されているのです。そしてこの苦しみをいかに解消するか?そこで出しゃばるのが思考です。我こそがこの問題を解決できるぜよ!と主張し問題解決に手を挙げて立候補します。結果思考が主導権を握り表面上は問題が解決されていきます。ところがです、また不足感、欠乏感、孤独感が湧いてきて次なる問題が発生するのです。そこでまた手をあげるのが思考です。前回は我こそが問題を解決した、今回も我に任せよ、そう主張して前回の実績を掲げながらさらに前倒しで主張してきます。結果この思考が大活躍してまたしても問題解決を図るのです。ところがです、またしても欠乏感、欠落感、孤独感が湧いてきて次なる問題が、、、、こうして人間の苦悩は延々と続くのです。

思考に問題解決を委ね続ける限り苦しみのループからは抜けれない

思考に問題解決を委ね続ける限りなぜ苦しみが解決しないかと言えば問題の本質を完全に見失っているからです。不足感、欠乏感が湧き出るメカニズムこそに思考がガッツリ絡んでいるのです。我こそがこの心身なりという思考、この思考こそが苦しみを沸き続けさせる根源です。この根源である思考が問題解決のためにフル回転する限り根元のメカニズムが解体するわけがないのです。問題が起きた時に思考に頼らない、むしろ一切の思考を使用しないで解決する方法を考えます。それが同じ動作のルーティンです。同じ動作、作業を繰り返すことで問題を解決させていきます。思考の出る幕を最初から遮ってしまうのです。

例えばダイエットであれば、、、

例えば体型にコンプレックスを抱く方は、、一日中ネットサーフィンをして自分を解決してくれる情報を漁ります。来る日も来る日も自分の問題を完璧に解決してくれるだろう情報を探し回るのです。思考フルスロットル、思考全開でこれらの情報に触れ続けていきます。結果そのような問題解決に至ってもまた新しい問題が湧き出てくるわけです。そうではなく1日30回ストレッチをすると決めて思いついたらやるを繰り返していきます。気づいたらストレッチ、気づいたらストレッチです。こうすることで一切の思考に頼らずに無心に入っていけます。どんなルーティンで今回の問題を解決するか?これを基本に問題解決を図るのです。思考を問題解決に最初から参加させない、これがポイントです。無思考な状態(至幸)で問題解決を図れば途中段階も至幸になれるということです。

夢の中で本当に目指しているのは戻ること

あらゆる欲望、目標は全てこの代替品に過ぎない

双対の世界に「私」は誕生しそこからこの私は色々と動き回っています。なぜかじっとしていられない、、、中から衝動が溢れてくるのです。退屈、暇、刺激が欲しい、安定が欲しい、認められたい、、何処かに属したい、、好きなことをしたい、、目立ちたい、認められたい、、、このような欲、目標が泉のように湧いてくるのです。どこまで行ってもこの欲がなくなることがなくこれを釈迦は「苦」と表現しました。この表現は人類で初めて真実を突き止めた人と称されるのは理解できます。ただし釈迦、ゴーダマシッダルータも夢の登場人物に過ぎないので人間ではありません。大いなる一つが人間錯覚ゲームをしているのですから不足感が湧くのは当然のことです。

自分がなぜここまで欲望につき動かされ続けるか分からない

希望の大学にさえ受かれば楽しくなるはず、希望の会社に就職が決まれば楽にらるはず、結婚相手が見つかればこの孤独感はなくなるはず、、人間はあらゆる目標を設定しそれが成し遂げられた暁には今の問題は消えてなくなると信じます。ところがそれが成し遂げられても一瞬で次の苦しみが襲ってくるから面白いものです。人間とはこのようにラットレースに乗せられ続ける存在なのです。それは私をこの体(人間)思考であると錯覚することからスタートします。

先ずは欲望に騙されない、、ここから深刻人生から脱却する

これは夢です、そしてその夢の中にいる時苦しみが湧いてきます。夢の中に自身はいるんだと勘違いし続けている間だけこの苦しみが湧いてきます。そしてその苦しみを解消するためにあらゆる欲望が湧いてくるのです。大いなる一つに戻る代わりにあらゆる欲望が湧いているのです。この事実から逃げなければもう欲望がそれを叶えてくれるとは信じないはずです。湧いてくる欲望に振り回されるのではなく欲望を通じて無心に入る、無思考に入る、もしくはこの事実を直視するという次元に入ります。