自我

大人が家族を大切にする理由

家族のために

人間は大人になるにつれて責任感という言葉を口にするようになります。子供の行動は「ただ楽しいから」ですが大人は「責任感」という言葉で動きます。大人はもう「楽しいから」では動けないんです。大人はなぜそれをやったの????と問われれば、、しないといけないから、、それが責任だから、、、となります。家族をなぜ養うのか?????その責任があるから、、、となるのです。ここで「ただ楽しいから」にはならないんです。

分離感

大人になりますと自我が形成されることで分離感が強烈に芽生えるので「苦しい」「憤り」が基本感情になりなす。常に「苦しい」なのです、すると、、何かを楽しいという理由では動けないんですね、、、もう既に。だから子供を育てるのは仕事だ、責任だ、、と義務化していくわけです。そして子供は育てあげれば今度は自身の保護者になる可能性もありますからそれに期待をしているのです。そのためなら頑張れるのです。

いいとか悪とかじゃない

自我が形成されるとそうなりますよ、、、という話であって、、こうした方が良いという話ではありません。そもそも自我を形成したのは自分ではないのです、自我は勝手に形成されたのです。だからこそ今後も自我は勝手に解体されるのです。形成も解体もする自我が本当は存在しないからです。この事実を俯瞰しますと、自我の解体が進む可能性があります。なぜならば自我を俯瞰している存在とは、、自我ではなく「本当の私」だからです。本当の自分が「自我」を観察し始め、、自我に意識が向かなくなった時に自我が解体し始めます。

欲望とは分離感覚で起きる

楽しみは「在る」から起きる

子供時代、何かをして遊ぶ時に欲望を発散しているという感覚はありませんでした。ただ面白いから遊ぶ、、それだけです。ところが大人になってくると、、、「欲望の発散」動機の大元になります。ただ集まって食事しよう!では人は集まらず、、、出会いを求めて、、仕事を求めて、、人脈を求めて、、と何か欲を満たす要因がないと集まらないのです。子供時代の楽しいから、、、じゃない、、もっと重い感情に支配されているのです。

大人になるにつれて

大人になるにつれて、、、体の中に自我が形成され、、そのれによって分離意識が形成されます。これはそのまま孤独、分離感を生み出し、、苦しいがわき起こるのです。「苦しい「」がデフォルトになるのですから、、楽しいからおいでよ!!!では集まらないわけです、、苦しいを取らないと楽しくないことは分かっていますから。ということで何のために???という欲望を満たす要因でなければ楽しくないのです。

欲望を満たせば

結局のところ欲望を満たすのは「分離感」の一時の解消なのです。自分は分離しているという錯覚を、、、何かを手に入れることで一時的に解消しているのです。ですからこれは楽しいではなく「一瞬の楽」になることです。楽しむとは、その行為自体が面白いということであり、これには目的がないのです。

子供はなぜ欲望ではないのか???

子供はなぜ欲望ではなく純粋楽しいをできるのか???それは分離感覚がまだ薄いからです。この体の中に自分という存在が育っていないからです。だから行為そのものを楽しめるのです。では大人はどうしたらいいのか???育て上げた自我、自己意識を再び解体するのです。自我自己意識を俯瞰してそこにエネルギーを注がない、、自我、自己を観察し、、現象の一部に戻するのです。すると観察する存在、、大いなる存在、気づきの意識に戻ります。まだ自我が形成されていなかった子供のようにただ楽しい、、が起き始めます。

充実

面白い漢字

充実って面白い漢字です。実が充ちるって書いて充実。。。。。充実した毎日って、、、どういう時に使います????何か新しい体験とかやりがいを感じる日々だったり、、とにかく今している活動に対して満足度が高い時を言いますよね????その時に実が充ちると表現する。この世界は実ではなくて虚なんです、、この現れては消えていく現象は虚です。消えちゃうんですから。その虚をただ眺める、、、例えば公園で空をずっと眺めてたんですよ。。。。。と友人に話して「充実してるじゃん!!」とはならないんですね、、なぜかと言えば、、、実がないんです。。。虚を眺めるだけって、、、、この虚の世界では、、、経験だけが実なんです。だけど逆に言えば毎日全員経験しかしてないから、、実しかないとも言えます。

結論

この体の中に自分という感覚があって、、その自分があらゆる経験をするって、、、、実は妄想、空想です。全くもって虚の世界です。ただ暇つぶしに何かするって、、、ずっとずっとこの自分って感覚(虚)が抜けないんです。ずっと虚の世界なんです。。自我の世界ってひたすらに幻想なんです。ところが無我夢中って言って、、、自分がないほどに何かに夢中になると、、、、自分を忘れます、自我を忘れます、自分って感覚が消えるんです。その時経験だけがあるんです、、経験は実なんです。自分が歩むストーリーという幻想が抜け落ちて、、経験という実しかなくなります。

無我夢中になって

無我夢中になって充実した毎日を送っていますと、、、実は自我ではなく大我、、、大いなる存在、、そのもので生きているんです。自分を忘れてますから。。。そしてその感覚、、本当のゆらぎ本当の安心本当の癒しが、、、自己意識を薄めていきます、、自己という感覚にエネルギーを注がなくなります。そうするともっともっと無我、大我、大いなる存在の状態に入りやすくなります。

我に返る???

一喝されて我に返る???

調子が悪い時期に先輩から一括されて我に返りました。。。ほわっとしていたら電信柱に当たりそうになり割れに返ったんですよ、、、、我に返るって、、、自我意織、自己意識を取り戻す時に使う言葉ですよね。この自己意識ってやつが実は大きな曲者でして、、、自己があると意識することです。その自己はどこに在るかって言われてはっきりとココだって言える人は存在しないんです。つまり本当はないんです、ないんですがあると想定し感覚を作り上げていくわけです。だから自己意識ってどこにあるか???と問われれば分かりません!!!となるんです。

無いものをあると思い作り込む

この練習を散々散々やらされて、、、徹底的に作り込むわけです。そして目の奥あたりに自分って感覚を徐々に徐々に作りあげていくのです。そうするととにかく居心地が悪いんです、憤りを感じるんです、本当の私って誰だ???という疑問が常に湧くんです、実は。それを解消するために意識を目標ってやつに委託します。目標があれば「本当は誰だ???」を感じずに済みますから。だから自我が完成してくるとみんな受験や部活動、色々チャレンジし始めるんです。

受験があって就職があって出世競争があって、、、イベント尽くし

だから人生は常に何かチャレンジが必要なんです、受験、就職、出世、子育て、子供の受験、、なんか変ですよね、、、常に自分からチャレンジを作ってる気しませんか?????何かにチャレンジしてないと何か苦しいような。。。。です。それって全部これなんです、無いものを在ると信じ込んで生きている、、その憤り、その憤りを感じないで済むように前に前にチャレンジして、、何かを得ることに向けて意識を集中してるんです。何にもしなくていいですよ!!!なんて言われちゃったら困っちゃうんです。

暇が一番辛い

暇って辛いんです、暇って苦しいんです。。。。それって変じゃないですか???????動物が何もせずに一日中日向ぼっこしてますよね!!!辛そうですか??????辛いわけないんです、、、自己意識がないですから。何もしていないと辛い、、、、みんな知っていますよね。なぜ辛いんでしょうか????本当の私って誰???これを無視しているから辛いんです。

苦しみを直視すると苦しみが消える

この苦しみは自分という感覚が作っている

最も分かりやすい感覚、、孤独感、、、この感覚はいったいどっから来ているのでしょうか????この感覚はこの世界でたった一人である、、という状況が起こす感情ではないんです。この感情はこの世界にたった一人だという感覚が起こす感情です。感覚は真実ではありません、、感覚とはそう思い込むことで生まれるものです。つまりこの体の中には自分という存在が居るとそう何度も思い込むことでその感覚が生じてくるのです。その感覚こそが、、、苦しみとなり、、孤独感という苦しみが変容した感情になります。この事実を無視して、、いつも誰かと一緒に居よう!を継続しても、、この苦しみが消えたのではなく、、、蓋をしただけですから決して孤独感が消えることはないのです。その証拠にこれは毎日のように襲ってくるでしょう。

全感情は「自分」という感覚が作る

全感情は自分という感覚こそが作っているという事実に向き合いますと、、憤りが大きくなることなくむしろ小さくなっていきます。なぜならば感情を生み出す根本原因を直視するということは、、、問題が作り出される状況を俯瞰することであり、、俯瞰とはまさに本当の自分に戻ることだからです。俯瞰するとは高い位置から「何か」がこの現象を見ることであり、、その何かとはまさに本質の自分のことなのです。

苦しみの出所を直視する

多くの方は今「孤独だ」今「怒っている」今「ムカついている」だから、、、こうこうしようと、、、、インスタントにこれを片付けます。。。ですが本当の本当の苦しみの根源はどこから出ているのか????に関心を持てません。これには自我の巧妙なトリックが働き外に外に関心が行くようになっています。そして外ではなく中では???と気づいた者には、、、人格向上、霊格向上、霊的進化、、、と自我以外に原因があることに誘うのです。ですが本当の本当は「私が居る」というこの感覚です。これが全苦しみの原料になっているのです。

必要とされることは自我にとって重要

なぜ必要とされたいのか???

自我は感覚です、私が居るという思考が感覚化したものです。もしも私が居ると言う言葉が世界に存在しなければ自我という感覚は芽生えていないでしょう。つまり言葉が作り出した感覚、それが自我、エゴです。この感覚は感覚以上のものではない、つまり実在はしないのです。実在しないにも関わらず実在していると信じて生きているので「誰かに必要とされる」と大変有難いのです。必要とされているなーという実感は自我という感覚を強固にしてくれるので安心します。

親として上司として社長として

必要とされたい、、誰かに必要とされない「私」は存在意義がない、、、となります。だからとにかく私を必要としてくれる誰かを探すのです。誰かに必要とされたい人は親になれば、、徹底的に自分の存在を必要とするような教育をします。あなたにはこんなにこれから問題が山積みだから「私」が絶対についているよ、、です。このやり方は上司、社長、友人、親、、あらゆる役割で行われるのです。

必要とされなくなるように

本当の教師とは必要とされなくなるように導く人のことです。ところが自我、エゴは、、必要とされなくなってしまうと本当は実在していないことが明白になってしまい、、そのためそれを強く嫌がるのです。本当は存在しない、、これほどの真実はエゴには耐えられないのです。なぜならばそれは自我、エゴの殺傷事件であり殺人です。

私の人生

絶対ありますよね?????

人が亡くなった時、、、亡き父の人生は〇〇〇〇で、、非常に有意義なものだったと思います。。。。のような喪主の挨拶が行われます。この時、、、誰一人、、、「その人の人生なんてないんですよ!!!」なんて言葉を発する人はいないし何を言っているんだ???という話です。ですが実は「私の人生」というのは妄想として100%存在するのです。全部妄想です、、ですが妄想としては100%存在します。

妄想ではあるが実在ではない

私の人生がなぜ妄想で実在ではないと100%言えるのか????それはもしも「私の人生」というものが存在したら私ではない人生も確実に存在することになります。すると、、、この全く分離できない世界に分離が起こってしまうのです。本質には分離はないのです、、にも関わらず分離が起きてしまう、、これはありえないのです。だから私も100%妄想であり、私の人生も100%妄想なのです。この体も100%妄想であり、私の思考も100%妄想なのです。

妄想を実在と信じているから苦しいのだ

父の人生は有意義でした、、に対してそれは妄想ですよ!!!と言えば喪主は怒り出すでしょう。つまり誰もこれを妄想だと思って生きていないのです。父という存在は100%存在し父の自我も100%存在した、、こうなります。ですがその信念が間違っているから、、違和感、不足感、分離感という不快な感情が起こるのです。

行動から観察へ

何かをしなければの終焉

私たちは、、幸福になるためにやるべきことをやってきました。そしてやるべきことをしっかりとやる人が評価称賛を受けやるべきことをやらない人は評価称賛を受けないという社会を作り出したのです、見かけ上。つまり言葉だけでなくしっかりと行動する人が評価を受けるということです。ですから我々は苦しい時、、、やるべきことを一からやっていこうと、、こうなります。ですが残念ながらやるべきことを一生やっていっても本当の苦しみは消えないのです。

本当にやるべきこと

我々がこれから本当にやるべきことは「観察です」ただこれだけ、、これだけ????そうです。何を観察するのか????ただエゴの活動、自我の動き、、を観察するだけです。なぜそんなことでいいのか????それはこの苦しみを生み出している、、大元は、、、、世間でも社会でも友人でも知人でも配偶者でもなく、、、エゴなのです。えええ????そうです、、どんなに社会を政治を会社を毒しても一生この苦しみは癒えないのです。なぜか????それはこの苦しみとは、、私という感覚こそが作り出しているからです。

エゴは観察されるのを一番嫌う

エゴは実は観察されるのを一番嫌うのです、なぜか????観察するのは誰ですか?????エゴをエゴが観察するのは不可能ですよね????そうです、、エゴを観察するのは間違いなく自分じゃない「何か」なんです。何かにしか「自分」を観察できないんです、構造上。だから観察なんです。自分が自分として何かやるべきことをやる!!!その時代は終わりです。何かとして「自分」を観察する、、、これによって何かは「自分」という感覚を徐々に手放していきます。

何もないところから生まれたこの現象が「実物」であるはずがない

空即是色

この世界は何もないところから生み出された世界です、、空、絶対、THE ONEなど言葉はあらゆる表現をしますが言葉では表現できない「何か」からこの現象界(色の世界)は生み出されています。何でもない世界から生み出されたこの見える世界(色)に現れるあらゆる物が実在であるはずがなく、、よってこの世界は「何か」の幻想、アート、投影です。

観察してください

雲を観察してみてください、、上空にあったはずの雲が10分もすれば無くなっていたりしますよね、、あの雲はどこから現れどこに消えたんでしょうか、、、この世界は常にどこかから何かが現れそして消えていきます。全く何もなかったところから何かが現れそして何かに吸い込まれるように消えていくのです。この体の「影」と同じで最初からそれはありますが、、常に変化し留まることを知りません。時に影は消え去ったと思ったら次の瞬間には現れます。

「儚い」ではない

この事実を自我目線では儚いと感じます、ですが逆に言えば、、この現象の全ては「分離」など出来るわけがないので(影を分離できない)現象全部、影全部は私なのです。私の影に間違いないのです。この現象の全て、影の全てを見て、、、ああ、、、私の本質は「空、絶対、THE ONE」なんだなーという気づきが起きます。その時真の平安、静寂、癒しが起きるのです。(色即是空)

収縮したエネルギー「私」

ゲームに熱中する時

スーパーマリオを初めてやる時って、、ゲームに集中できないんです。右ボタンを押しても、、マリオが動いているって実感が湧かないんです。実際は動いているんですがそれが何かに気づけないんです。次にジャンプボタンを押します、マリオがジャンプしてますがそれに気づけないんです。だからマリオをやっている実感が湧かないんです。全体がマリオをやっている感が湧かないんです、、しばらくは、、だから集中できない。そして5分もすれば一旦休憩に。しかしながら二回目三回目となるとゲームを立ち上げた瞬間にマリオになり切れるんです、マリオに意識が意識し始めるんです。

私に熱中する

この体に意識が意識するころに慣れてきますと「集中」できるんです、、この体に、、そして「自分」がやってる感が出るんです。これが自我の完成です。マリオに集中できる、この体に集中できる、全く同じです。そしてその時は全部のトラブルを全部の功績を味わえるんです、マリオとして、この体の中の自分として。マリオ最高、自分最高です。だけどどうじにいっつも「苦しい」ことに気づきます。マリオは二時間もすれば休めますが、、この自分は休ませてくれません、、寝てる時以外。

ゲームをしながら自分を辞める

だからこの人生は苦しみが常に伴います、、マリオは二時間、この自分は24時間営業です。結果この苦しみを解消しよう解消しようという動きが起こり、、自分はあらゆる娯楽、何かにしがみ付いていきます。でも本当はわかっているんですマリオを辞めないと、自分を辞めないと、、、この苦しみは終わらないことを。そのことに気づき始めると悟りの本とかを読めるようになります、、自分をやったままではこの苦しみが終わらないことが分かっているからです。

集中するの辞めちゃえば

本当は本当はこの体の中の自分に集中しなくたって実はこのゲームは大丈夫なんです、、なぜか???全自動で動きからです。いままでも全自動で動いていたんです、、本当は。自分という感覚を持ちながら実は自動運転だったんです。そのことが徐々に分かってきます。そうするとどこかで全体が手を離す、コントローラーから手を離す瞬間が起こります。これが解放です。