自我

相手と喧嘩をする時、、、

喧嘩をしている時はこの体の中に自分が居ると思える

マリオがクッパと戦っている時、マリオの中に自分が居ると最大限に錯覚を起こすことができます。攻撃されれば悔しいという感覚、攻撃が上手く行けば嬉しいという感覚を持てるのはマリオが自分と同一視できているからです。所詮ゲームだからと思いながらあんなに面倒な操作など集中してできるわけがないのです。あそこまでなぜ子供はゲームに集中できるのか?それはゲームの主人公になり切っているからに決まっています。

友人と喧嘩をしているとき

この体が友人と喧嘩をしている時、友人はさもこの体の中に独立した自分が居るかのように人格否定をしてきます。あなたが悪い、、、そのあなたとはこの体の中に居る「自分」のことです。相手が強く、強くこの体に対し人格否定をすればするほどに私はこの体の中に自分が居ると錯覚を強化することができます。絶対に居るだろうこの体の中の私に向かって相手は攻撃の手を緩めません。そして私が相手に何かをいう時も確実に相手の体の中に確固たる「自分」が居ると思って攻撃を加えます。この攻防は体対体ではありません。体の中に居る自分対体の中に居る「相手」です。体の中に自分が居るという感覚を強烈に強化できます。

本当は体に向かってただ攻撃をされただけ

友人との喧嘩は自我、自分を強化します、ですが本当はこの体に向かって相手がただ攻撃してきただけです。その事実とこの体に自分が居るという錯覚は何も関係がありません。つまり何を言われようと、何を攻撃されようと、、ただそれを気づきの意識が認識、経験するだけです。相手がこの体の人格とやらを否定しようとも本当はこの体の中には自分は存在せず、、、ただ内容を聞くだけになります。もしくはとりあえずこの体の中に自分が居るという体で話を聞くことはできます。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。

文春砲よりも強烈な自分砲

まさかの自分で自分の幸福を壊す

女優の杏さんと旦那の東出君、東出君の度重なる不倫で結果離婚に至りました。このエピソードは自我のメカニズムを顕著に現しています。東出君は杏さんと結婚する時、まさか自身が不倫をするとは思っていなかったはずです、なぜならばそのようなレベルの人と思ったから結婚したわけです。他によそ見をしたくないほどに魅力があると感じたから結婚したはず。杏さんをもしも他に目を向けてしまうようなレベルであると判断したら危なくて本人も結婚しなかったはずです。ですが現実は違った。東出君を不誠実であるとるメディアの対応は稚拙です。自我とは自分とは不足感発生器であり誰と結婚しようとその事実は絶対に変わりません。

東出君がこの自我のでのメカニズムを理解していなければ

自分、自我とは不足感発生器ですから結婚後もこの不足感は延々と沸き続けます、その際に不足感の原因をどこに向けるか?それがパートナーになるケースは多々あります。もしも彼がその矛先を杏さんに向ければ杏さんの粗探しに、もしくはその不足感を補うために他の女性に向かいます。杏さんに対し何も問題を見つけることができなければ他の女性によってその不足感を補おうとするわけです。彼がもしもギャンブルも、お酒も、ゲームにもその対象を見つけることができなければそれを女性で補おうとするのは当然です。

メディアの対応は常に稚拙

杏さん東出君の事件をどれほど大々的にメディアが取り上げようと夫婦間の問題が今後減ることは絶対にありません。なぜならば人間とは不足感発生器でありこの問題に切り込まない限り人間はこの苦しみから逃れられないからです。不足感をいかに解消するか?そして不足感を生み出すメカニズムを共有することでお互いに切磋琢磨するという姿勢がなければ全ての解決策は対処療法ということになります。もう人間同士、自分同士が罪の擦り付けをし合うのは辞めてもいいかもです。

最大のタブーに切り込む

この体に自分が居ないならどこに居るのか?

この体の中には自分が居ません。浮かび上がる思考、浮かび上がる感情がこの体の中で発生しているという錯覚、認識があるだけです。この体の中で思考、感情が浮かび上がっているという証拠はどこにあるのか?勿論脳に何かしらの磁気を当てて調べれば思考、感情と脳の関係はデータとして上がるでしょう。ですがそれによって思考、感情はこの体のものだという考え方は極論です。思考と感情がこの体とは一切関係ない場所で湧いている、、そう捉えて見てください。不思議な気づきに襲われます。例えば思考と感情は別次元に起こっていてそれをこの体がキャッチしているという捉え方です。すると突然この体の中に自分は居なかったという気づきが起きます。

思考と感情は違う場所で発生しているとしてもこの体主体であることは事実ではないか、、、

仮に思考や感情が全くの別次元で発生しているとしても、この体が関わっているならば結局は自分は体ではないか?それは当然の見解です。感情、思考が湧き出る場所がどこだろうと体が主体になってそれが起こるならば何も変わらない、、、ここが重要なポイントです。全体が体に成り切っているのです、だからこそこの体の動きに反応して思考や感情が湧いてくるのです。この体はスーパーマリオのマリオのようなものスーパーマリオゲーム自体がマリオに成り切っているのでマリオを操作するとあらゆる感情、思考がゲームの中に湧き上がるという仕組みです。思考や感情がマリオの中に湧いている必要はないのです。

湧いてくる感情、湧いてくる思考をマリオの中だと認識する思考がゲームの中で湧いてくる

そろそろ気づいてきたと思います。スーパーマリオというゲーム本体がマリオに成り切ってこのマリオ人生を歩んでいく、マリオに起きる事件、事故によって思考、感情が湧くが、、、それはマリオの中で湧いたとする思考も同時に湧く(自我)ということでこの勘違いは延々に続いていくのです。人間というのは集団でこれを行なっている民族であるということです。

全体はなぜ自分を作ったか?

自分とは分離錯覚ストーリー製作機

全体だけが実際にはありそれ以外は何も存在しません。全体は全体でありただそれだけです。全体はある時自分という独立した存在(錯覚)を作り出しました。思考というもので全体の中に独立した分離した存在があるということにしました、錯覚で。これによって全体は突然体の中に自分がいるというゲームをスタートしたのです。独立した個人が全体の中を暴れ回るゲームを作り出したのです。全体から分離した個人は常に喪失感を感じその喪失感をいかに埋めるかに右往左往します。この経験が全体にとって面白くて仕方ありません。

全体が突然自分ストーリーの舞台になる

全体から分離した自分にとってこの全体は分離ストーリーの舞台です。自分がそこあそこにいく時の舞台そのものです。自分という全体から分離した(錯覚)存在にとって全体は自分が暴れ回るステージです。全体は分離した自分が遊ぶための道具になります。ただし自分は同時に居心地の悪さを常に抱えます。なぜならば自分はあくまで錯覚で主体は全体のままだからです、全体が個人という極小の存在になるのは居心地が悪いわけです。この居心地の悪さの根本原因を分からず彷徨い続けるのが自分という錯覚存在です。

だが自分という錯覚にはあらゆる救済措置がある

TVもネットフリックスも、YOUTUVEもSNSも全部自分にとって楽しいのは没頭できるからです。没頭とは頭が没すると書きますがまさにここに信実が隠されています。頭とは思考や記憶のことであり自我が抜け落ちます。何かに没頭する時そこから自分がいなくなります、つまり全体に戻るということです。自分という錯覚が解かれ全体そのものになります。自分はこのような救済方法を無意識に知っていて多くの時間をゲームやギャンブル、パチンコや恋愛などに没頭します。

それが分かったところでどうするか?

自分というのは錯覚ですからこの錯覚が抜ければ終わります。上記の救済措置を理解したところででは今後の人生をどうしたらいいか?このように自分は考えますがこれこそが自分のトリック、錯覚を解く以外にこの自分から覚める方法はありません。なぜ自分は苦しいのか、なぜ自分は時々楽しいのか、なぜ何かを達成するときは一瞬歓喜なのか、、、これらが腹落ちしてくると自分の錯覚が緩んできます。

辛くなったらこの錯覚を解いてみる

自我の成り立ちを見れば何もないことが分かる

自我ができる前、誕生した赤ちゃんには何もありません。自分と自分以外という区別はないどころか、全てのモノに名前すらないのでただ全体があるというだけです。一切の分離がない世界です。徐々に言語を覚えこの体の中に自分というモノが居るのだと教わりました、実際はそんなモノはなく自分とは全体そのものです。ですが全体がこの体の中に入っているいう錯覚、認識を持つことで本当にそう信じるようになるのです。この体の中に自分が居る、、、これで自分と自分以外が初めて誕生するわけです。分離の誕生、分離意識の誕生、孤独感の誕生です。

元々は何もないのだから、、、

自我が芽生える前はここには何もない、もしくは全体だけがあったのですが自我が形成されることで自分が誕生し自分以外が誕生しました。さらに自分以外にあらゆる名前をつけていき全体をバラバラに切り裂いていきました。自分はこの分離しよって生活が大変便利になりました。自分の寝床、自分の食料、自分の衣服、、、などを所有することができ生活が便利になっていきます。その一方で全体から切り離された自分自身は常に孤独、分離感、不足感を味わいます。全体であった記憶は間違いなくあり、そことのギャップに苦しむのです。何を得ても何を達成しても何を手に入れても満たされないこの感情に一生苦しみ続けることになるのです。

自我とはアイデア

自我とはアイデアです。この体を生き伸ばすためのアイデアです。全体の発生後、後からできたアイデア、発想でしかありません。なぜならば言語がなければ自分とは存在しないのですから。言語が地球上から消えれば自分はいなくなります。これってギャグですよね。「はじめに言葉あり」聖書にこのような言葉がありますがこれって真実です。言葉が生まれて自分が誕生したのです、言葉がなければ自分というアイデアはないのです。

この分離自我は便利だが辛い

全体の中に生まれた自我、このアイデア、発想は大変便利ですが辛いモノです。この体は自我のお陰で生き延びやすくなり助かりますが辛い、孤独、不足という感情がひたすらに湧いてくるというまさかの副作用があります。この副作用、感情に耐えられなくなったならば再び全体に戻ることも有効です。というよりもこの自我のカラクリを解いてしまう、本来は全体でありこの体は全体の一部でしかない、なぜこの体に全意識を委ねなくてはならないのか?ということです。この体は全意識の一部でしかありません。

これが夢だとして、、だったらどういたらいいか?

この質問こそ腹落ちしていない自我の逃げ

これは夢です。この事実を突き付けたときの自我の反応は様々ですが、、最も多いのが、、それが事実としてではどうしたらいいのか?という質問です。この質問は的を得ているようで実は的を得ていません。もしもこれが夢だということが腹落ちしたら質問は出なくなります。どうしたらいいか?という質問は自我の行動パターンの王道です。自我は何かしらの行動を通じて問題を解決してきたのでこれが夢だという事実を突き付けられた時ですらも「だったらどうしたらいいか?」という行動でアクションを起こそうとします。

これが夢だと腹落ちしたら、、、疑問は無くなる

映画にはまり込んでしまい、、あまりの恐ろしさで泣きじゃくる子供には「これは映画で作り物だよ」と教えてあげます。そうすると子供は安心して泣き止む可能性があります。ただこれだけです。もしもこの事実に対して「じゃあどうしたらいいのか?」と聞く子供は映画という事実をまだ受け入れれてないだけです。ですからこれが夢であるという事実に対して自分の中から「では自分は今後いかにして生きようか?」という疑問が湧いてきたら夢であることをまだ理解していないんだと俯瞰するだけです。

これが夢だということが分かったらそもそも自分がなくなる

夢の中で夢だと気づく時に、、、自分の存在も同時になくなります。これ当然ですよね。、もしもあなたが毎晩見る夢の中で、、夢の最中に「これは夢だ!」と気づいた瞬間、、もう主人公に感情移入しないですよね!!この事実を腹に落としてください。夢だと分かっていながら、、さあ仕切り直して次の展開に進もう!とはならないはず。その瞬間に夢から覚めるはず!これ絶対的に自信あります。つまり覚醒体験、目覚め体験、気づきの一瞥とは、、、拍子抜け、腰砕け、力抜けであり、、、じゃあどうしたらいいか?という心境とは真逆です。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。