自分

全ては自分の鏡

今見ている世界

今目の前に見えている世界は脳内映像です、人間の体をベースに解説すれば我々は人生を通じて脳内映像を見ています。脳内映像を見ているのは分かった、では現物はどこにあるのでしょうか????脳内映像ではなく現物の在り処を教えてくれ、、、、それは目の前にあるだろう、、、その証拠に目の前のコップを触れば確実に感触があるではないか???違います、脳内映像のコップをやはり脳内映像の手が触れて間違いなく感触はあるが、その場所は特定できていません。答えを言いましょう、、全てあなたの体の中に全体そのものがあります。そして全体そのものが脳内映像に映し出され映っているのです。

全体そのものがあなたの中に全部ある

全体そのものがあなたの中に入り込みその映像をあなたが確実に見ています。ですから覚者は悟り「目の前に全てがあった」と話すのです。本当に目の前に全てが映し出されているのです。そしてそこで繰り広げるドラマの全てを全体が回収します。そんなことはない、、目の前で泣き叫ぶ子供の感情は何もこちらは分からないぞ、、、全体が全部回収しているならば泣き叫ぶ子供の感情も分かるはずじゃないか、、、その通りです。全体が回収できない感情などあるわけないのです。つまりその泣き叫ぶ子供は現象に過ぎず、何の感情を湧いていないのです。

人間に感情が無いのならば、、

人間に感情が無いのならば人間関係なんて何も面白くないじゃないか、、、無感情の人間と話していて何が面白いのか???大丈夫です、今までも全く感情が湧いていない人間(現象)と十分やってきました。そしてこれからもそれが続くだけです。無邪気な子供が、、困っている大人の周りで遊び続けることができるのは、、大人の心情を理解できないからではありません、、、大人の中に感情がないことを知っているからです。間違っているのは大人の方です。

何かに集中している時自分など居ない

TVゲームに夢中になっている時に自分を意識している子供はいない

何かに夢中になるのが気持ち良いのは、、その時だけは自分を完全に忘れることが出来るからです。この体の中に自分が居るという錯覚が抜け落ちます。ではその時は誰がいるのか、、現象が起きているだけです、つまり現象の揺れ動きしかありません、もしくは手の感覚、足の感覚、肌の感覚はあるかもしれません、ですがこの「手」「足」「肌」という存在は忘れています、夢中になってゲームコントロールをしている子供がボタンを押す際に、、手が押しているなどの感覚はありません、ただ感覚だけがあります。

ボールを夢中で蹴っている少年の場合

サッカーに夢中になるのが楽しいのは「自分」を忘れることができるからです。サッカーに夢中になりながら自分をしっかりと意識するのは難しいものです。自分が今ボールを足で蹴った、自分が今敵を抜き、相手からボーールを奪ったなど思考が湧くことはありません、、ただボールの感触、地面を踏む感触があるだけです。世界から名前が消え去ります。この時少年は現象そのものになっています、感覚そのものになっています、、色そのものです。

活躍すると自分がそれを所有する

サッカーをしているだけで楽しかったのに、、活躍して周囲から褒められたら最後、、褒められた「自分」がにょきっと登場します。全体、現象、感覚に溶け切っていた状態から「自分」に戻ってしまいます。すると一緒に苦しみが湧いてくるのです。サッカープレイ中は至福そのものだったのがインタビューを「自分」を受けた瞬間この体の中に閉じ込められ牢屋に打ち込まれ苦しみが同時発生で起こるのです。至福から孤独への強制返還です。

もう自分に戻らない

サッカーで活躍しインタビューを受けるならば、、、先ずインタビュアーのことを現象と見抜くことです、そしてインタビューを受ける際は「自分」をしっかりと演じるという自覚を持つのです。どれほど褒め称えられても「自分」を演じそこにのめり込まないことです。ただ役割としてこの現象界を乗り切ります。そしてインタビューが終われば自分など忘れてしまい現象と共に在るようにします。つまり全体に戻るのです。

この体という蜃気楼の中に自分が閉じ込められるという思い込み

その瞬間苦しいが湧く

この体は蜃気楼です、五感で完璧に感じることができる蜃気楼です。本来の蜃気楼は視覚の錯覚ですが、、この体は五感の錯覚です。五感を利用した錯覚がこの体です。この体の中に自分が居るというさらなる誤解が生まれますとその瞬間に苦しいが生まれます。なぜか??誤解しているのが全体だからです。全体がこの小さな体の中に自分が居るという思い込みが生まれたのですかその瞬間に苦しくなるのです。

朝起きて長澤まさみだったら嬉しいが湧く

ある女性が朝起きて鏡を見た時に、そこに長澤まさみの顔があったら嬉しいが湧くはずです。新しいドレスを着、、長澤まさみに見えたならば嬉しいが湧くはずです。髪型を変えてみたら、、え、これって長澤まさみ??と勘違いしたら嬉しいが湧くはずです。そうです。勘違いとは感情が湧くものなのです。なぜ人間は基本苦しいのか???それは全体がこの体の中に居るという勘違いを起こしているからです。この勘違いからくる苦しみを解消するために人は次から次へと目標や欲望を作りそれを達成しようとするのです。これが人生が苦であると言われる理由です。

この五感は勘違いを最強のものにする道具

殴られれば痛い、何かを食べれ味を感じる、太陽の光を眩しいと感じる、冷蔵庫を開けば冷気を感じる、この五感システムはこの体が蜃気楼ではなく実在していると実感するための最強ツールです。五感全開ですからどう考えてもこの体は実在している、、こう信じこめるわけです。そしてこの体が実在しこの体が自由に動くことからこの体の中に自分という確かな存在が居るという実感が湧くのです。ですが五感で感じたのだから実在するというのは視界で感じたから蜃気楼は実在すると言っているのと全く同じです。見えるから実在するのだ、、五感で感じるから実在するのだ、、は破綻しています。

本当の穏やかさとは全部が自分だと分かるということ

対人関係での穏やかさではない

あの人は穏やかな人だ、、私は穏やかだと言われる、、、本当の穏やかさとはこの世界全てが自分であるという気づきから起こります。これが自分、自分しかない、、ここから湧いてくる穏やかさこそが本当の穏やかです。目の前で人から罵られても、、、その人もその声も自分自身で在ると分かっていれば深刻に捉えることができません。電話で喋っている時にその内容の全てが自分ですからその内容に深刻になることができない、これが本当の穏やかさです。

見える物全て自分

見える物全てが自分自身でそこで争いが起きてもそれも自分です、殴り合いの喧嘩も全部自分自身です。どうして深刻になれるのでしょうか、、、不景気でみんな元気がない、、これも全部自分ですから深刻になれません。全部自分自身なのに、、元気がない人の本当の感情が、、認識できない、、つまり本当は元気がないわけがない、、元気がないように写っているだけ、、

怒り狂った隣人を見ても

怒り狂った隣人に遭ったとしても何も心配しないでください、怒り狂っているという映像は確実にありますしそれも自分自身です、ですが怒りの感情は感じれませんね、つまり怒りの感情は湧いていないのです。湧いているならば怒りの感情自身で在る自分が感じているはずです。友人が悩み過ぎて鬱になった、、その映像も声も自分自身ですから間違いなく在ります、ですが悩みの思考は100パーセント在りません、あればそれも自分自身ですから把握できます。これだけのことが分かってあなたは本当にこれらを深刻に捉えることができるでしょうか。

幻想の自分を逆に大切にする

幻想としての自分をしっかりと大切にしていく?

一番辛い状態、それは幻想の自分を完全な実在として思い込み、、自分を強く強く守ろうとすることです。強く強く幻想の世界に入り込んでいます。大人は現実を見ろと子供に言いますが大人こそ現実ではなく幻想をしっかりと見ています。子供はこの大人は何を言っているのか最初意味が分からないのです。この大人はなぜいつもイライラし焦っているのか???幻想の中にどっぷり浸かってしまった大人は何をしても分離感、孤独感、不足感が湧き続け苦しんでいるのです。先ずは自分という感覚を無自覚から自覚的になることからスタートするのも一つです。

自分という感覚を持っていることに自覚的になる

自分という感覚をしっかりと持っている、本当はただの肉の塊である生命現象の一部を「自分」という言葉を付けてそれが実在するように振る舞っている、本当は根源の現れの一部にも関わらずそこに名前を付けて実在しているように感じている、、朝起きて直ぐにこの体を自分だと再認識しストーリーを始めている。こうしてこの自分ストーリーに自覚的になっていきます。

全ての経験を「自分」が所有している

朝のコーヒーの味、仕事での成功、友人との楽しい食事、、、これらを「自分」が獲得したと信じているのです。自分というこの確かな感覚が全経験を所有しています。ですがこれはあくまで幻想なのです。ですからどこまでいっても分離感に襲われ続けるのです、この分離感が辛いからさらなる経験をしてこの分離感を埋めようとするわけですからそれを所有するのは結局「自分」という感覚ということになりこのラットレースは続くということです。こんな「自分」を愛するのです、こんな一生懸命な自分を愛してあげてください、ラットレースを走り続ける自分という感覚を微笑んでください。この自分という感覚が無ければこの幻想ゲームは成立しないのですから。

目を閉じると自分が消える

目を閉じてみる、すると自分が消えて楽になる

我々が五感で感じることができない物は実在できません、目を閉じればこの体を見ることができませんからこの世界から自分が実際に消え失せます。目を閉じたときには音楽や香りは感じることができますからこの世にはそれだけが実在することになります。この体が消え失せ自分が消滅します。自分がはっきりと視界に入ったときにしっかりと分離感が湧くことを実感してみてください。この事実に触れていくと楽になっていきます。

熟睡中は完全に自分が消滅する

熟睡が至福なのは自分という感覚が完璧になくなるからです。自分という感覚が無くなったときにこの世界は完璧な至福になります。至福は常にいつも目の前にありこの至福を感じなくさせているのはこの自分という感覚です。夢を見ている時は至福ではありません、そこには自分がまた登場し世界が不完璧になっていきます。この事実をしっかりと認識してください。自分を感じると至福が消え自分が無くなると至福にいつでも包まれます。

消えると至福に包まれるならば自分という感覚を捨てたい

自分という感覚が消えたら至福に包まれるならばいつだってこの自分という感覚を捨てたいものです。ですがそうは問屋が卸さない、何十万回と名前を呼ばれ続けこの自分が居るという感覚が染みつきまくっているのです。両親から、先生から、友人からも名前を何十万回と呼ばれ続けることで自分感覚中毒になっているのです。自分を意識するトレーニングをスパルタ的に学んだようなものです。ですがこの事実をしっかりと理解することで徐々に徐々にこれが紐解かれていきます。

今が輝かなくなるのは先(思考)を自分(思考)が見ているから

いつからか世界の輝きが無くなった

小さい頃は世界が輝いて見えていたのがいつの間にか曇って見えるようになり重苦しい世界に住んでいるように感じるようになりました、中学生ぐらいになる生徒の表情から純粋無垢な輝きが失せ重く背負ったような表情をするようになります。将来のために勉強しなくては、将来のために我慢しなくては、将来のために良い学校に行かなくては、、、こうして自分(思考)は将来(思考)というファンタジーを見て生きるようになります。どちらも思考であり実在がない世界に入っていくのです。今しか生きていないのに将来(思考)を見て生きているのですから苦しいのです。そして将来を見ているのも自分という思考です。

自分というのはアイデア

自分という存在はこの世界には実在しません、自分という存在はどう考えてもないのです。あるとすればそれはアイデア、概念です。ですがこのアイデアに固執するということが根源から起きますと見える世界を「自分」が見ているということが起きます。アイデアである自分がこの世界を見ているが起き、起きる現象は全て「自分」にとって有益か無益かで判断する(思考)が起きます。完璧しかない世界が不完璧に見えるが起きます。それはありのままの世界を思考というフィルターを通じて見るが起こるからです。

苦しいが起きたときにそれがどこから起きたかを感じる

完璧が不完璧に見えるが起きた世界に居れば苦しいが起きてきます。この苦しいは根源の現れですからこれも根源の表現、愛の表現です。苦しいが湧けば苦しいのですがそれも愛の表現であることを感じます。こうやって事実を思考を入れずに観察していきますと常に根源の表現に触れていくことになります。一日中が事実の確認になっていきます、事実は全て根源の表現でありそこに至福があります。

恋愛をするのは自分を忘れるため

没頭する対象を見つけたいのは自分を忘れたいから

人が次々に恋愛の対象を探すのはなぜでしょうか?それは自分を忘れるほどの恋をしたいからです。自分という感覚を忘れてしまうほどに相手に夢中になりますと自分感覚が薄れ幸福が溢れてくるのです。だから人は夢中になれる人を探すのです。ですがこれには大きな落とし穴があります、それは延々に夢中になることはできないということ、、相手は根源の動きによって次々に変化していきます、要は自分にとって都合の良い行動を取り続けるなどありえないからです。そして慣れてきて自分感覚が蘇ってくると相手が素敵に見えなくなるのです。自分というフィルターによって完璧だった相手が不完璧に見えてきます。

恋愛に賞味期限があるのは、、、

自分自身も根源からの現れであり、相手も根源からの現れです。それぞれの行動は根源の現れですから先の動きは全く分かりません。離れるが起これば別れが来ます、すれ違いが起これば別れがきます。延々に一緒にいる方が難しいのかもしれません。全ての別れは全自動で起きます、ここに約束などは全く役に立たないのです。ですから別れが来てもそこで苦しむのは勿体がない、悲しみは湧くかもしれませんがそれだけ、、悲しみが湧き続けることもないのです。そして悲しみが湧くことに苦しむ必要はありません。

結婚離婚に良否はない

結婚が素晴らしく離婚は良くないこと、これは自分という感覚が勝手に決めた判断です。実際には結婚も根源から起こり、離婚も根源から起こりますから全部愛です。結婚も離婚も愛の表現でしかないのです。離婚が愛の表現とはどういうことか??つまりそれぞれの行動は愛の表現でしかないのですから離婚も愛の表現なのです。そうなると浮気も愛の表現なのか?ということになりますが当然そうなります。

自分という感覚を作っただけ

自分という感覚が湧いているだけ

結論を言ってしまえばこの世界は自分という感覚が湧いただけ、、それによって自分に向かった世界が湧き出しつまりファンタジーが誕生しました。自分という感覚が湧き出さなければこの世界は常に全体そのものでありパーフェクトです。パーフェクトでしかない世界を自分感覚が不完全に見せているだけです。完璧を不完璧に見せる装置こそが自分感覚です。ですからこの自分が感覚に過ぎない、実在しないことを気づくが根源から起きた時が悟りです、そこには根源しかなかったということです。

自らを分ける、自分

自分という言葉に解答があります、自らをす分ける、、、自らとは何か、、全体です。全体を分けた存在、感覚こそが自分です。自分とは感覚に過ぎず実在ではない。だから自分とはどこまでいっても自分なのです。自らを分けたという感覚が自分です。それはあくまで感覚ですからそれは事実ではないのです。この事実ではない自分が居るという想定に作られた世界こそがこの現実と呼ばれている世界です。事実はないことを根底に作られているのですからこれはファンタジー、空想です。

ファンタジーは苦しいぞ

事実とは根源、至福、愛です、そこからファンタジーを作り出すことで苦しさが生まれ出します。自分とは全体から分かれた存在が居るという感覚から生まれ出したファンタイジーですからそこは至福、愛から遠ざかった場所、苦しい場所なのです。自分が主人公のこのファンタジーは苦しいからこそここから抜け出したいという欲求が生まれこの主人公は右往左往する経験を積み続けます、この経験こそが至福全体にとって貴重な経験になるのです。ですがこの経験は苦しさを伴いますからそこから抜け出したいという欲求が湧き出したのならばそれは自分感覚が実在しないことを見破り全体に戻る時がきているかもしれません。

それでも自分(縄張り意識)を愛せるか

実はこの自分こそが苦しさの大元だったと分かっても

縄張り意識こそが生まれて死ぬまでの苦しみを生み出します。野生動物は痛い、お腹が空いたはあっても悩むというこちはありません。それは自分という縄張り意識が弱いからです、縄張りを犯す侵入者がいてもそこを恨むということはありません、ですが人間は自分を攻撃する人間をしっかりと恨むことができます。この恨むことができるという事実が人間の苦しみなのです。

縄張りを守ろうとする意識も愛でできている

縄張りを守ろうとする意識は根源から現れていますからそれも当然愛そのものです。狼が縄張りを犯す侵入者を襲うのも愛の現れでしかありあせん。人間も縄張り(自分)を犯す侵入者に攻撃をしかけたり恨んだりしますがこれも愛の現れです。そしてここまで苦しいのならば自分を解放したいという思いが根元から湧いてきますがそれすらも愛です。どこまでいっても根源(愛)しか存在しないのです。結局愛しかなかった、、これが悟りです。

自分を犯す者を愛するということ

自分(縄張り意識)を攻撃してくる者がいてもそれも全部根源の現れですから愛でできています。愛が自分(愛)を攻撃するというストーリーがただ起きています。これを否定する意見(思考)がもしもあなたの中で起きたとしてもその思考すらも根元から起きていますからそれも愛です。そうですどこまでいっても愛しかないのがこの現象界、、それを生み出している根源(空)も愛でできています。