自分という感覚を作っただけ

自分という感覚が湧いているだけ

結論を言ってしまえばこの世界は自分という感覚が湧いただけ、、それによって自分に向かった世界が湧き出しつまりファンタジーが誕生しました。自分という感覚が湧き出さなければこの世界は常に全体そのものでありパーフェクトです。パーフェクトでしかない世界を自分感覚が不完全に見せているだけです。完璧を不完璧に見せる装置こそが自分感覚です。ですからこの自分が感覚に過ぎない、実在しないことを気づくが根源から起きた時が悟りです、そこには根源しかなかったということです。

自らを分ける、自分

自分という言葉に解答があります、自らをす分ける、、、自らとは何か、、全体です。全体を分けた存在、感覚こそが自分です。自分とは感覚に過ぎず実在ではない。だから自分とはどこまでいっても自分なのです。自らを分けたという感覚が自分です。それはあくまで感覚ですからそれは事実ではないのです。この事実ではない自分が居るという想定に作られた世界こそがこの現実と呼ばれている世界です。事実はないことを根底に作られているのですからこれはファンタジー、空想です。

ファンタジーは苦しいぞ

事実とは根源、至福、愛です、そこからファンタジーを作り出すことで苦しさが生まれ出します。自分とは全体から分かれた存在が居るという感覚から生まれ出したファンタイジーですからそこは至福、愛から遠ざかった場所、苦しい場所なのです。自分が主人公のこのファンタジーは苦しいからこそここから抜け出したいという欲求が生まれこの主人公は右往左往する経験を積み続けます、この経験こそが至福全体にとって貴重な経験になるのです。ですがこの経験は苦しさを伴いますからそこから抜け出したいという欲求が湧き出したのならばそれは自分感覚が実在しないことを見破り全体に戻る時がきているかもしれません。

(Visited 3 times, 1 visits today)