自我

言語を覚える前から気づきは確実にあった

自分など存在する前から気づきがあった

言葉を覚え、この体を自分と記憶するまえから、、、ずっと気づきの意識はありました、光を感じ、空腹を感じ、気温を感じる感覚は確実にありました、、、これが気づきの意識です。。。我々は恐らくこの気づきの意識の中にずっといます、、、この気づきの意識が無くなることは絶対にない、、、熟睡中もこの気づきの意識の中に居る、、、ただその記憶がないだけ、、、起きている最中は必ずあり、熟睡中もある、、、記憶があるかないかの違いだけです。

常に気づいている

この私が怒っている、、、これに気づいているのは気づきの意識です、、この私が幸福を感じている、、こレに気づくのは気づきの意識です。気づきの意識その外に我々は出たことがありません、常に気づきの意識の中で存在しています。だから全部気づけるのです。思考を覚えるはるか前から気づきの意識は確実にあり、、ただそれを記憶していないだけです、、

孤独感はこの気づきの意識の存在を忘れているだけ

孤独感とはこの気づきの意識の存在を忘れ自我に没頭している時に起きます、、あれたった一人しかここに居ない、、こうなります。違います、、、気づきの意識の中に全てが在ります、起き上がっています、、全ての経験は気づきの意識を通じて起きており、これは人といようが居まいとと同じことです。気づきの意識の感覚をもっていれば孤独感が湧いてきにくくなります。なぜならばそこは絶対的安心の場所だからです。

計画は人間を能動的な存在であるという錯覚を強化する

計画をしっかり立てて

人間という存在をしっかりと理解しますと計画はあまり意味がないことが分かります、、ただその体を通じて言動が起きていますから、、明日から二週間後まで予定をビッシリ埋める、、というのはこの人間のメカニズムに反しています。その瞬間瞬間やりたい衝動は異なるので、、予定でこの体をしっかりと縛りつければ苦しくなるはずなのです。ですが自我はそうは言いません、予定をしっかりと立て時間を無駄使いしないようにしよう。

計画は計画、、、この割り切りができるか

計画を立てようが全体から起こりますから計画を立てることが悪いのでは断じてありません、、ですがその瞬間瞬間にこの体を通じて衝動が起こるので計画通りにその衝動が起きるとは限らないのです。ですからあくまで計画は計画、、そしてそれを遂行するか否かはその日次第、、、こんな緩い感覚が事実に合っています。

そんなことでは仕事ができないのでは???

違います、、そんなことを今までもやってきたのです、、、この体には自由意志はなく、、、ただ起こるが起きていたのです。。この事実をしっかりと認めましょうという話です。さも自由意志がこの個人の中にあるかのような発想を持つと、、それだけで苦しくなりますよ、、という話です。ただ言動が全体から起こり続ける、、、この事実をしっかりと理解して計画を立てるのは問題が起きません。

無我make自我

無我が自我を起こした

無我が自我を起こしました、、、無我から自我は起きたのです、、、無我は至福、自我は苦しみです、、至福が苦しみをこしらえたのです、、そしてそれを感じるのは無我です。自我の完全活動中は無我は自我に成り切ります、、自我を意識するのではなく自我そのものになるのです無我が、、、この状態になって初めて苦しいが湧きます、、、そうしたら自我を観察する無我に戻るのです、、、自我の活動、思考、言動は完全に無我からただ湧いていることを把握します、、自我の活動を無我の活動であると意識します、、、これで無我に戻ります。自我を観察する無我になります。無我=自我から自我を見守る無我そのものになります。

私はこの体の中に存在する者である

私はこの体の中に存在し自由意志を発揮する者である、、、これが自我ですが、、、この言葉は一体どこから生まれたのでしょうか、、、この言葉がどこかから生まれなければこの自我は存在しません、、、どこから???無我からこの言葉がただ起きたのです、、このプログラム言語がただ無我から起きました、、、無我がこの言葉に成り切る、意識を集中しすぎると、、、苦しみが湧き上がります。無我=自我ではないからです。自我とはただの言語であり、、無我の一部でしかありません。

無我から起こった自我

自我は無我からただぽこっと起きた言語です、、この言語に無我の意識が向くと、、、このファンタイジーの世界が湧き起こります。そのファンタジーの世界は苦しいので、、、ファンタジーの世界の中で、、パチンコ、お酒、異性、食事、などを使って無我に帰ることをします。熟睡は完全なる無我、、、ゲーム熱中も無我、、仕事集中も無我、、です。そしてこれらは自身が実は自我ではなく無我であることを教えてくれるヒントです、無我から湧き出した。

無我を取り込む自我に無我が気づく

何かに集中して結果を出した

何かに集中し結果が出た時に、、これを上手くつかってやろうとする自我がむくっと起き出し、、この功績をフル活用しようとします。。。無我夢中になって何かしらの結果を出した時に、、、せっかく結果が出たのだから、、これで誰かにアピールしてやろうとする自我がシャシャリでてきます。この自我の動きに我々は意識的になれません、、、ですが今回これを意識することでこのカラクリを見抜くが起きます。

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、、

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、クラスの人気者になった、、、すると自我がムクっと起き出し、、これを自分功績にします、、、そしてこのクラスの人気者立ち位置を維持しよう、、人気があるのだからもっとこれをしてやろう、、、人気を利用して何かしてやろうと、、、自我は損得感情、算盤を弾くのです。ですがこれにって獲れる損得があっても至福感は全く無い、、なぜならばそこには無我が居ないからです。ですがこの事実をさらに観察する存在(無我)に気づきますと、、、無意識の自我活動は消え去ります、、、

自我の積極的活動は観察する無我の存在があると両立しない

自我の暴利、自我の無意識化の行動、、、これらは無我による観察を嫌います。無我が自我を観察すれば自我の活動は急速に衰えていきます、、、無我による自我の観察に意識が向けられることで、、強烈に自我を意識した行動が起きないのです。自我への無意識の集中から解放され、、自我を観察する無我に意識が向けられます。無我に意識を向けるということはそのままで至福ということです。自我に完全集中するとただ苦しいが湧いてきます。自我そのものではなく自我を観察する者(無我)になるのです。

反省も、、、執着

いつも反省ばかりしている、、、

いつも反省ばかりしていて、、、人生が苦しい、、、なかなか自分の思い通りに行動できなくて、、、それで反省ばかりしている、、、、ここには大きな勘違いがあります、、、「自分で決めて動くことなど全体にできない」ということです、、我々は全部全体からの起こりをこの体を通じて表現しているだけです、見かけ上。反省するということはハッキリと「自由意思」があると信じ切っています、ですがありません「自由意思」は、、そしてこの体の中に居るはずの「自分」も居ません、本当は。ですから「自分の言動を反省する」というのは不可能なのです。

自我は反省すらも自我存続の道具にする

反省は自我の延命戦略です、、、反省のするのは誰か『自分』です。。自分を強烈に意識する行為「反省」です、、、大いなる意識が「自分」を意識するのです、、反省によって、、、すると自分は延命されます、、、、毎日毎日反省して、、大いなる意識に「自分」を意識させるのです。これが反省できなくなるとどうでしょう、、大いなる意識は「自分」を意識できません、、、自分が途端に居なくなってしまいます。

こんなことしちゃって、、あんなことしちゃって、、、

相談では無い、、、友人に「私こんなことしちゃって、、、あんなことしちゃって、、、困っている」これぞ相談風自我存続メソッドです、、、こんなことをしたのは誰、、あんなことをしたのは誰、、、、「自分」です、、、他人を使って自分を強烈に意識できます、、大いなる意識が、、、この自分を意識します、、、、はい、自分延命完了です、、、、いや「あなたは居ないよ」こんな回答を受けようものならば、、、怒り出して「私」は帰るでしょう。ここに色々な真実が隠れています。

あれ、、時間なんてあるわけがない、、、

今時間は絶対に存在しない

時間というのは今を記憶し、それを繋ぎ続けることで発生します、便宜上、、、時間を誰も時間を見たことがある人が居ないのは存在しないからです。今というこの瞬間、生命の現れ、、、ここには経験しか実は存在しません、、今画像が在る、、今音が在る、、今味覚がある、、今食感がある、、今触感がある、、今匂いがある、、、これだけです、、この体は、、、その画像が在るのみです、、ですからどこを探しても時間はないのです、、ただ経験だけがあります、、、これも見かけ上の脳が記憶し、、時間があるというアイデアが湧きました。

時間に取り込まれるデメリット

時間に取り込まれていくのはこの自分です、この自分が時間の中に取り込まれていきます、、時間は自分に依存し、自分は時間に依存します、共依存です、、、幻の存在同士が共依存で生き残ろうとするが全体から起きます。覚者は悟り、、時間がないことを見抜きます、、自我の終焉には重要なことです、、この自分がこの時間の中で何かをしなくてはならない、、、これが苦しみを作り出す強固なシステムです。

便宜上の時間に至福を邪魔させない

時間とは便宜上のものです、、この時間に取り込まれていきますと、、、至福感が消えていきます、、時間に追われるのはいつだってこの自分だからです。時間がない、時間が足りない、、、それは「自分」、、、だから苦しい、、忙しい、忙しい、、、忙しいのは誰??自分です、、、だから苦しい、、、時間はこの自分をストーリーの中に埋没させます、、時間というアイデアが、、自分を自分劇場に埋没させるのです、、だから覚者は何度も「時間なんてないんですよ」「今この瞬間しかないんですよ」を言います。。。

自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、

名前など何もついていない

つい騙される、、名前のマジック

この現象界に最初から名前がついている物など存在しません、、名前は後から暫定的に付けられたものであって、、この事実にしっかりと向き合うと、、、この見える世界には何も存在していないことがはっきりと分かります、、、あらゆる独立した物、人間は存在せず、、この体、この自分も勿論暫定的、便宜上付けられたものだという自覚が起こります。本当は何もないのです、、、にも関わらずしっかりと確実にそれが存在するという認識が便宜上起こり我々は人生を送っているのです、、、そりゃ苦しいのです。

本当に本当に不思議な現象

名前など一切無いにも関わらず、、、、なぜ我々はこの世界に完全独立した存在を信じるのでしょうか、、、名前さえついていなければそんな物は無いのです。。。例えば私の観葉植物、、、観葉植物は、、ここからここまでが観葉植物という決まりなどあるわけがない、、、人間が便宜上、、、そこから切り取り、、、そうしました、、ですが思考の中でしっかりと完全独立した存在になっています。

親から生まれた子は完全独立した存在

お腹から生まれ出た瞬間、、、親と子供は完全独立した別々の存在のになりました、、、ですがこれも本当はおかしなことで、、、、臍嚢で繋がっている時は同じ生命、、臍嚢をちょんぎったら全く別の別人格の存在になる、、、いや、、それはおかしい、、、便宜上違う存在とするなら分かる、、、ですがこの人間社会では、、、全く別人格な独立した存在として扱います。そしてなぜかその中に「自分」という存在がいつまにか登場し、、普通にそれを認識するのです。そうです、、自分とは後天的に便宜上、登場したのです。

よく考えたら自分など存在するわけがない

よく考えてみれば直ぐ分かる話、、、母親の子宮の中ではっきりとした別人格が最初からあったならば。自分の存在は信憑性があります、、ですが、、臍嚢をちょん切り、、、そこから何年か後に自我が形成される、、、いやいや、、絶対に後天的、、、絶対に便宜上形成されたものでしょう、、、、にも関わらず我々はいつの間にか絶対的な存在として自我を扱うのです、、あの人はこんな人だ、、、あの人はああいう人、、、いやいや、、、絶対に後天的、便宜上の存在やん、、、

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

至福(事実)から逃げることができる自我はいない

自我の苦しみ劇場はどこかで必ず終わる

自我の苦しみ劇場はどこかで終わります、、なぜならばこの劇場は至福(全体)の中で起きているからです。至福というスクリーンの中でこの劇場が起きているだけですから劇の最中もちょいちょいこの至福(事実)が顔をだすわけです、、何しろこの自分をこの自分ストーリーに埋没させ続けるのも至難の技だからです。不意に自分を忘れたら最後、至福に飲み込まれてしまうのです。

地獄に落ちることはできない、至福に落ちる

我々の劇場中に足を滑らせて舞台から転げ落ちる、、、至福がそれを救う、、、舞台から偶然落ちてしまったら、、至福がこれを救う、、、、火事になってしまった、、、、無我夢中で火事場を駆け抜けている時、、、何??この至福感は????母親が急病で入院、、、無我夢中になって実家に戻っている、、、あれ??なんか至福に包まれている、、、、そうです、、、大ピンチは大無我、大至福なのです。。。

常に至福に落ちる旅を歩んでいる

安全だと思っていたこの旅よりも旅から転げ落ちた先が至福だった、、、これが分かってきますともうそれほど怖さがなくなってきます、、、一生懸命旅を失敗しないように努めていたのに、、、失敗した時の方がしふくじゃねえか、、、安全第一の歩みの方がはるかに苦しい、、、、そうです、、、「自分」が安全を確保しながら慎重に歩んでいる時が一番苦しいのです、、、自分がでしゃばっています。苦しみと至福の逆転現象、、これを肌感覚で分かると楽になります。