あまちゃん

能年玲奈に戻る????

あまちゃんというドラマが以前大ヒットしました、国民的スターになった能年玲奈さん。今は違う芸名でやっているらしいですが。。。あのドラマは日本国民があまちゃんという役に夢中になりあまちゃんは大有名キャラに。その演者が能年玲奈さんです。彼女はどこへ行ってもあまちゃんと呼ばれ続けたことでしょう、プライベートでも。そのあまちゃんですが、、、彼女があまちゃんになり切ってしまって生きるとしましょう、、これが我々の自我活動です。

いつか能年玲奈に戻る????

悟りとは一瞬です、覚醒とは一瞬です、、、いつか私は能年玲奈に戻る?????その発想がもうおかしいのです、毒が染み渡っています。あまちゃんから能年玲奈に戻るために苦労や努力、成し遂げるための何かは必要ありません。能年玲奈はその場で急に自身が能年玲奈であったことに気づくのです。いつか、、どこかで、、という発想こそがギャグです。

どうやったら????

どうやったら能年玲奈に戻れますか????この質問も完全に洗脳されてしまった状態から起きます。のんというのが役でありそれに気づくだけです。のんとは実在はしない、、ただし役としては実在した、、幻想として、役として、、周囲から認識は確実にされていた。だがそれは幻、役であって実在ではない、、、となります。あなたは本当はのんをやっていた能年玲奈なんだ、、、です。

何を言われても面白い

私に向かってくる罵詈雑言

この夢の中、幻想の世界では見かけ上の「相手」はこの「私」が「私」をやっているという前提で様々な罵詈雑言を放ってくることもあるかもしれません。ですがこちらは背景であることがもう分かっていますから「私」に焦点を当てた罵詈雑言は、、勘違いであることが分かります。だからどこに向かって言っているんだろう???本当の私はそこには居ないのに、、、という一歩離れた視点で話を聞くことができるのです。

アンジャッシュの勘違いコント

アンジャッシュというコンビが頻繁に勘違いコントをやっていましたが、、、まさにあの感覚、、勘違いしながらのコミュニケーションが起こるようになるのです。実際にはこちらがその勘違いを理解した上でコミュニケーションは続くのでトラブルにはならないのですが、、面白い感じになります。夢の中のこの登場人物はこうやって勘違いを引き起こしているんだなーという気づきです。

全ての苦しみがそこに在ると思うと

この勘違いがすべての苦しみを引き起こしているわけですが、、その現場をコミュニケーションの場では感じることができます。まさに悟りの練習問題、課外授業です。画像の中の画像(登場人物)がこの画像(体)に話しかけてくることで、、さもこの体がこの画像の主役である、そこに人格があるかのような勘違いがそこで生まれます。そしてこちらが反応し返すことで、勘違いコントが生まれます。

「在る」の共有

在るは全員が共有する

覚者、悟り人、覚醒者という存在が、、もしも居るなら(居るようには見えるが)彼らは「在る」という状態に居ます。この在るという状態は、、どこか特別な場所にあるのではなく、、、全員が今感じている「在る」です。誰しも感じている「在る」という感覚「存在している」という感覚、、「意織している」という感覚「気づいている」という感覚、、、ここに居ます。スピでいう、、、特別な感覚を所有していたであろうアセンデッドマスターのような人々は存在せず、、「在る」が最終ゴールであるに気付けるか否かだけだったんです。

会話をする

会話が成立するということは、、「言葉に気づく」を共有しています。この言葉に気づく、、、は聴覚の力ではなく、、、音をそのままに静寂が気づいているのです。この気づきを気づきのままに気づいている見かけ上の人々が覚者、覚醒者、悟り人と呼ばれる人々です。多くの人はこの気づきを「私」が感じた、、、という概念の世界を信じており、、これは嘘です。ですからそのまま音に気づいた私は音楽活動を始めた、、という流れで嘘が膨らんでいくのです。

嘘が膨らみ

嘘が膨らんでいくことで、、生きていること自体が徐々に重くなっていきます。なぜならば嘘を信じると、、「苦しい」が自動的に湧くように設定されているからです。嘘を重ねるごとに重りが徐々に増えていき、、生きている=重いになります。ですが生きている以上この嘘を信じないでは生きていけない時期があるのは確かです。どこかのタイミングでこの嘘に気づき嘘を嘘と見抜いて生きていきますと、、「苦しい」が湧いてこなくなるのです。

背景に写った人々による人格形成

背景は写った人々によって人格形成される

両親とはこの体にとっては背景の一部です、画像です、、、その背景の一部の両親と呼ばれる存在から、、この体に向かってあなたって「短気ねー」「やんちゃな子だねー」「物覚えが悪い子だねー」という呼びかけ反応が起こります。何度も何度もこの呼びかけ反応が起こることによって「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」という人格形成が生まれます。この体から勝手にこのような形成がされるのではなく他人によってそれが行われるのです。

この体が目を覚ますと、、、

この体が目を覚ましますと(本当の夢の始まり)「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」に背景から意識が集中しこのストーリーが始まるのです。幼稚園に通えば先生から「お行儀が悪い子」という声かけが起こり、、その都度その都度に人格が変容していくのです。PC内に溜まった記憶によってPC起動に伴いコンテニュー後のストーリーが始まるようにこの人生も体が起動しますと、、記憶に溜まったデータが蘇り、、コンテニューされます。私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子は小学校中学校と通うたびに書き換えが起こり、、進むのです。

何かがおかしい

周囲からのイメージがそのままその人の人格になっていくわけですが、、そのイメージが強ければ強いほどに、、重い重責になっていきます。なぜならばイメージ強化は自我強化であり、、本当は背景であることから錯覚が強化されているのです。自我強化はそのまま錯覚強化、、、錯覚とは真実とは異なるという意味であり真実(真の安らぎ)からのギャップのことでもあるのです。

このギャップを埋めるべく

イメージ強化、自我強化、真の安らぎとのギャップ強化です。ですから周囲によってイメージが強化された人には多大なストレスがかかることから、、絶望感が起こります。特にそのイメージに責任、重責、役割が加えられていきますと、、そのイメージを物理的に逸脱できなくなり、、絶望が生きる感覚さえをも奪っていくのです。

裏を探らなくていい

新紙幣発行

新紙幣が発行されます、学者、経済学者、政治学者、あらゆる分野の知識人がこの政策にはこういう背景がありまして、、、、のような意見を出します。そすです、全ての政策には裏があるのだ!!!ですね。ところがそれは全くやらなくていい、関心を持たなくていい、、、のです。なぜか???コレは夢ですから関心が湧くとその分野が広がるだけなのです。例えば新紙幣発行には財務省の真の狙いがあって、、、ではなぜ財務省が???それはアメリカ政府が裏で、、、アメリカ政府の裏にはウォール街の資本家が、、、、とここでもエンドレスに続いていくのです。これがこの夢の特徴なのです。

裏を作りたい人は関心を持つ

政治に興味を持って何が悪いんだ?????ですよね。。。ですが残念ながらなぜ政治に興味が湧くかと言えば、、将来不安、今後の自身の動き、根っこにはやはり不安が隠れているのです。だからそこに興味を持てば不安が敵中!!となるだけです。自我はこの世界でいかに戦略的に損得勘定的に生きるかに関心がありますから放っておけば当然そちらに興味が湧くのです。

どんな状況だろうと

どんな状況であろうと、、この世界はプラスマイナスゼロになるように夢は広がりますから、、、現象を現象として楽しめばそれでいいのです。そしてこの現象を生み出す大元が我々の本質であることは分かっていますから不安、恐れをベースにした行動ではなく、、シンプルに楽しいことをやるのがいいのです。

時間は存在しない、あるならば時計は必要ない

食事の回数を間違えない理由

食べるという経験、、これは確実にあります。食感、味覚、香り、、、、経験として間違いなくあるんですよね。だから昨日何回食事した????と聞かれて回数を間違えるってあまりないはずです。ところが時間って経験できないんです、、経験できていないから、、今何時????と何回もなるのです。もしも食事と同じで経験できていたら時計をみる必要はないんです。

食事を食べ終わった後に

食事を食べ終わった後に、、今私は食事を食べましたか????とは聞きませんよね。。。ですがその飲食店に時計があるのは、誰も時間を経験できていないから時間を確認する必要があるのです。時計が指し示すのは時間ではなく、、その現象そのものです。この夢の中で夢化した数字です。だから誰も時間を経験できず時計が存在します。食事を食べたかどうかを店員さんに確認しないのは経験だからです。

自我は時間軸でしか存在できない

映画を途中から見ても意味不明ですよね、、映画を楽しむためには過去に遡って歴史を見る必要があります。この「私」をやるために過去が絶対に必要になります。過去がなかったら「私」が居なくなっちゃうからです。ですが同時に映画は途中から見ても、、主人公になり切らなかったら、、映像を見ることはできます、可能です。面白い、辛い、などの感情は湧きにくいでしょうが可能です。そしてこの現実と呼ばれる世界も、「私」が実は過去に遡らないと存続できない存在であると認識しながら生きることができるんです。

私とは時間が作り出した概念

私とは、映画の主人公と同じでエピソードが作り出した概念です。勿論この体は過去がなくても存在しますが「私」が居なくなっちゃいます。このことを本当の意味で俯瞰できた時に「私」映画の主人公にしがみつくという発想が生まれないのです。私という概念が時間という概念を作り出し私がこの人生を歩むというストーリーが作られます。

壺であり大地でありスペースである

この体は壺

この体は壺です、土でできた壺です。壺は意識を持ち私はこの壺で在ると気づきました、、、ですが同時に壺の構成要素である土でもあるで、、壺の土は常に常に大地であった記憶に襲われ、、、大地に戻りたいと探求するのです。壺として生きているだけでは満足できず、、大地に戻りたいという欲求が起こり続けます。ですが同時に壺は既に完成していますから、、大地に戻るためには、、、粉々に自身を壊す以外にありません。

自殺とはつまりそれ

自殺とは壺としては大地に戻れないことを悟り絶望して自らを壊す行為です。壺自身が壺を壊すことで大地に戻れることを知っているからこその動きなのです。では我々は壺として大地に戻れないいじょう、、絶望しながら生きていくしかないのでしょうか。そのようなことはありません、実は大地に戻らなくても大地に戻る方法があるのです。日本語としては成り立っていないですよね?????

大地であったころ

大地であったころの記憶とは、、なぜ起こりえるのでしょうか????もしも世界に大地しかないとしたら、、大地は大地と認識することは不可能です。なぜならば大地しかないのだから。大地以外があって大地は大地と認識できます。ですがこの世界には大地しかないと仮定したら、、大地は大地と認識できません。でもしっかりと大地としての認識があるのです。これは難問ですね????唯一答えを導く方法があるのです。自分の本当の姿とは、、、大地が存在するスペースです。それならばそこに大地が現れた時にそれに気づけるのです。そうです、私たちの本質は大地でありそして大地を出現させたスペースに他ならないのです。これによって壺は自らを壊して大地に戻る必要は全くないのです。

失敗できないという重責

これを現実とすれば

これは現実で、この体には「私」が居て、、私には自由意思がありこの世界をこの私が自由意志を駆使してサバイブするんだ、、、という概念に染まりますと、、、、頭が良い人ほど、、、あらゆるリスクを考慮し、重くなります。リスクが見えれば見えるほどにそれに対応を迫られますからこれはきつい。あらゆる保険に入りまくってその保険料で首が何重にも巻かれた状態になります。

頭が良いからこそ

頭が良い人にとってこの人間の初期設定『この体、この思考は私』という概念は恐ろしく重い重い設定なのです。だからエックハルトトールは恐ろしいほどの重圧の中で悟りを開きました。あれは頭が良過ぎる故の重責ではないでしょうか。逆に言えば、、、これが夢かも!!!という気づきに頭が良い人が至ったら、、その理解はとんでもなく早い、、なぜならば夢という想定では何一つ矛盾がないのです。これは現実、、、こちらは矛盾だらけで正解がない、、これは夢、、、は正解しかない、、、となります。

どこでリミットオーバーになるか

「この現実の世界をこの私がサバイブする」この発想はどこかでリミットオーバーになります。なぜならば初期設定のこの現実は、、現実ではないからです。初期設定が間違っているのですから全く正解のない世界を私がサバイブしていかなくてはならずクリアは不可能なのです。勘違いをベースにした人生戦略は歩めば歩むほど矛盾をダイレクトに受けるので辛くなるのです。

夢だと分かって夢を生きる

これが夢だと見抜く最大の障壁はなんでしょうか???それは周囲に合わせて生きていく、、、というこの作戦と、、、コレが夢だと気づくという事実があまりにもかけ離れていることです。この夢の多くの方は周囲に合わせて安心する、、という作戦を信じ切っていますから、、、どれほど苦しくてもその作戦を変更できないわけです。そうなると限界リミットオーバーしかこのパラダイムシフトを起こせない、、となります。あくまで夢の中のストーリー上ですが。

これを「現実」と想定して生きる大変さ

失敗が許されない

「たった一度のこの人生」これが現代人類最大のプレッシャーです。この人生は一回しかなく、、この私は一回しかチャンスがない、、だから失敗などしていいはずがない。。。。このたった一回の人生で失敗したら、、虚しいにもほどがある、、、、だから私は怖いし、重いし、慎重だし、、常に怯えなくてはいけない。だけどそれは当たり前でこの「私の人生」は一回きりなのだから。。。これが人類共通の病です。

神経症的生き方

誰も悪くないんです、、この宇宙にたった一人で生きている、、という観念、価値観は、、、絶対に失敗は許されない、、、という脅迫になります。だから心配で心配で心配過ぎるのです。。。すべてのことが。絶対に失敗をしない生き方を、、しなくてはいけない。。となって当たり前なんです。悠々自適に、、、いやいや、、、それで失敗でもしたらどうなるんですか?????となります。

子供と自己超越の違い

子供はなぜ大人がこれほどまでに失敗を恐れるかが分からないんです、、子供は例の概念がありませんからただピュアに、、無邪気なのです。。。ですが自己超越、これが夢だと悟りがあれば、、、大人の怯え、恐れ、恐怖症を理解できるんです。理解できた上で、、自身はナチュラルにこの夢を生きることができます。相手が神経症状態でありことが分かっていますから、、その上でのコミュニケーションが成り立つのです。

夢の中でコンサートLIVE

大好きなミュージシャン

大好きなミュージシャンのコンサートLIVEに行きます、。半端ない音量、照明、、、熱気、、、時に涙を流し感動する、、、、ところがこれが夜見る夢だった、、、、そんなこと全然ありますよね!!!半端ない臨場感、、ありますよね!!!!そうです、、、夜見る夢の臨場感って半端ないんです、、この現実と呼ばれる世界を凌ぐ臨場感を作り出せるのです。で、、この夢って誰が作ったんですか????「私」ですよね、、その証拠は????もしもこれを神が作っていたら???

この現実は神が見る夢

夜見る夢の臨場感が神が神が作った夢ならば、、、、この現実と呼ばれる世界は神が見る夢だとしても全く矛盾がないんです。夜見る夢の臨場感を、、、今この現実と呼ばれる世界で起こしたならば、、これが夢だとして誰が反論できますか?????毎晩見る夢の中であなたは毎晩騙されているんですから、、この現実と呼ばれる世界でも同じように騙されている可能性はありますよね????

諦めちゃってください

この世界、この現実と呼ばれる世界は「一度も覚めたことがない夢」です。神が作り出した超臨場感ドリームです。主人公はこの体、、私はその体の中に居る存在、、、私はこの夢の中で自由意志を行使し(錯覚)あらゆる状況に対応していきます(錯覚)。夜見る夢も、、いつかは覚めるように、、、この現実と呼ばれる世界もいつかは夢だとバレるんです、それだけは決まっています。