動かない神、動く神

この世界

たった一つのエネルギー空の中に鏡が突如現れ、、その鏡の中に空が映し出されました。空とは全く動かない神であり、そこに動きは全くありません。ですがその中の鏡の中では、、この空の無限の表現が出現します。つまりこれは動く神です。動かない神が鏡に映り、、そこに動く神が出現したのです。この世界は動いていますよね????つまりここは動く神の世界です。

この動きに気づくのは????

動かない神、空がこの鏡に写った動く神を見てビックリ!!!これはないんです、基本的に。ここは動かない神ですから。ですが鏡では、、その動きに気づくという現象が起こります。そしてこれは無限の存在、神の写絵であるという気づきも起きます。その鏡には無限の動き、無限の経験が現れそれに気づくが起こっています。

この私

この私はこの無限の経験のたった一つ、側面です。ですから私の経験は全部この無限の現れ経験の一つです。そしてこの私は完全に現象であり、、これは幻です。この経験の主体は、、私ではなく気づきの存在、意識、です。鏡の中で起こる経験という全てを作り出すのが意識であり、、その意識は空(動かない神)の中で起こる鏡の反応から起こっています。

微動だにしない神

全存在

たった一つのエネルギー、空、微動だにしない神の中に、、、、その鏡があります、、宇宙の全てが存在するのですから空の中には鏡が存在します、その鏡に空が映し出されました。するとそこには無限が姿化した姿が映ったのです。鏡の中で、、無限だ!!!という気づきが起きます。空の鏡の中に、、意識が生まれ、、無限の存在である自覚が起こったのです。

無限の存在の無限の体験

ここは無限の存在の無限の体験の場所ですから、、全部があります。ここにない体験は存在しないのです。人間の頭ではここは理解ができませんが、、想像しうる全てがあるのがこの空の現象の場所、空の幻想の場所、微動だにしない神の反映の場所です。

全ては意識の中で生まれる

この全体験は微動だにしない神がしているのではありません。微動だにしない神の中に鏡に移った反映、幻想が起こると同時に起こった「意識」の中で、、我々の幻想は起き続けています。現れて消えるこの現象は全て意識の中で起こり消えます。

騙される

悩める人々

私の前にはあらゆる悩める人々が登場するでしょう、恋愛で困っているように見える人、仕事で悩んでいるように見える人、進路で悩んでいるように見える人、結婚で悩んでいるように見える人、、、ですが全部が全部そう見えるだけで本当は何も起きていません。世界から貧困を無くそう!世界から孤独を無くそう!!!素晴らしいスローガンではありますが、、真実とは異なります。

見える全ては幻想

せっかく私がこれだけ頑張って助けたにも関わらず、、、、悔しい、、、、全部間違っています。助けたあの人は実は全く苦しんでいませんでした、全く苦しんでいなかった人を救ったと勘違いし、、代わりに何かを受け取ろうとしてそれが起こらず、、さらに悔しがる。。。。が起きました。最初から救うべき人はこの世界には存在せず、、だから助けても感謝も起こらないが起きたのです。

クッパもノコノコもクリボーも

クッパ、ノコノコ、クリボー、、全部幻ですから、、悩んだり、苦しんだり、怒ったりは彼らには起きません、経験者風の雰囲気を出しますが、、実は何も起きていないのです。経験者は全部神であり、、その神とは「私」をやっている神でもあります。今この画像、画面、現象で起こる全てを回収する神が今感じていることが全てです。人間関係の悩みとは、、相手の心情を察して、、こちらも苦しむが多いのですがそれの全てから今解放されてください。

存在する唯一のもの

真実とは絶対に消えないもの

思考は現れては消えます、感情の現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。景色は現れては消えます、太陽も現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。花の香りも現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。家族も目の前から現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。この体も何かに集中している時現れては消えます、ですからこれも真実ではありません。唯一常にあるものそれは「意識」です。これだけは常にあります、あり続けます、、これだけが真実です。

意識の中に現れては消える現象(幻)が起こる

意識(真実)の中に現象(幻)が現れては消え続けます。これだけは真実です。私も現れては消える存在です、我を忘れて何かに夢中になる時、、居ないですよ!!つまり私も現象です、幻です。美味しい料理を食べる時、、人格などなくなります。つまり人格は幻想でしかありません。真実とは「意識」のみであり、、現象は現れては消える幻です。

ただし

ただしこの幻は生命、たった一つのエネルギーが作り出す幻ですから、、、、ダイナミックでパワフルな幻です。虚しいとか儚いとかじゃないんです。「意識」の中でこのダイナミックな生命の起こりが現れては消えているのです。自身が「意識」だという気づきが起こった時に、、「思考」が収まり、、、ただこのダイナミックな幻、生命の幻に溶けていきます。生命の揺らぎをそのまま感じるようになります。

なぜ今ここなのか????

今ここが私(神)

神がTVゲームの画面に入り込み、、画面そのものになってマリオをやっているのがこの世界です。つまり神とは画面です、、、画面とは今ここにあります。ところが画面上のマリオは将来のこと、過去のことを悩んでばかり、、今ここに神が鎮座しているにも関わらずこの画像には一切興味を持たず、、イメージの世界に入り込みます。マリオは実は神で画像も全部神だから、、そこが一番のホームにも関わらず、、イメージの世界に入り込みます。ですがそこには神は居ません、、これによってアウェイになり苦しいのです。

今ここに戻る

今ここが苦しいから将来や過去を振り返っているんです、、今ここが安心安全最高ならば、、将来に期待なんてしませんよ!!!!今ここ、画面が神でマリオも神、クッパも神、ノコノコも神で、、、なぜこの世界は争いばかりなのか?????おかしいじゃないですか??????今この世界を見れば争いが起こり続けていますよ!!!だから将来に期待をしているんです。

マリオ(画像)は神だが経験者ではない

マリオは画像です、この画像は間違いなく神です、、ですが、、画像はこの中では経験者にはなれないんです。つまりあなたはマリオとしてマリオの人格として経験を積んでいるつもりかもせんが、、実は経験者は神です。つまりマリオの人格だと今神がそう勘違いを起こし、、その勘違いこそが苦しみを生み出しているのです。その勘違いが終わった瞬間にこの世界には一切の勘違いが消滅し、、神は神の安らぎを得るのです。

マリオゲームの限界点

視覚聴覚以外は体感できない

TVでマリオゲームをやります、、、視覚、聴覚ではこのゲームを楽しむことはできるでしょう。ですが味覚、触覚、嗅覚は全く体感できません、それはずプレイヤーが画面の外に居るからです。ではどうしたら全五感を使ってゲームができるのか???それはどうやったらいいのでしょうか????簡単です、プレイヤーが画面の中に入っちゃえばいのです。プレイヤーが画面の中でマリオに一体化すれば、、五感を使ってやれます。

だがしかし

残念!!!!マリオの中にプレイヤーが入り込んでも、、周囲はデジタルですから、、触ることはできません。クッパもノコノコもクリボーもデジタル画素ですから触れもしないし、匂いもない、味も全くしないんです。マリオの中に入っても無駄でした。違います、マリオの中じゃだめんです、、画面そのものになってクッパもクリボーもノコノコも全部中に入るのです。すると全デジタル画像がアナログ(リアル)になるんです。

画面になっちゃったらマリオ(主人公)を味わえない

いや、、それじゃあ、、、全画面だから、、マリオをやっている感が全くないですよね?????私がマリオに成り切ることが出来ないじゃないですか????いやいやそれができるんですよ!!!だって今までもマリオじゃないのにマリオになり切っていたじゃないですか???全画面になっておいてマリオになり切るのはできます。

自我のプロレス

巻き込まれたら負け

例えば会社に通うとしましょう、、、行ってみたら、社長と部長が仲が悪くいつも喧嘩している。部長が心身を病んで鬱状態に、、社長はストレス発散でアル中状態。さらに一個上の先輩は性格が悪くこちらに当たってくる、いったい私はどうしたらいいですか?????簡単です、、その起こっている現象は全て幻で、誰も苦しんでいないことを悟ることです。苦しみを体験できるのは誰ですか???幻はその体験はできません、つまり、、誰一人苦しんでいる人物(幻)は居ません。もしも苦しむことができる存在が居るとするとたった一人神です。

いやいや「私」が苦しいのは百も分かっています。

何を言っているのか????私はそれで十分に苦しい思いをしていますよ?????この私が!!!違います、、私っていうには100%幻です、、幻が苦しむのは不可能です。もしも苦しんでると自覚があるのならばあなたが神だということです。だとしたら部長も社長も神でしっかり苦しんでいるのでは???もしも今あなたが神であることが自覚できたならば、、部長、社長の苦しみの全部今神であるあなたが感じているはずです。

つまり

少なくとも100%言えることは、、この見える世界で苦しんでいるのはこの私をやっている神だけです。だから全くもって周囲の苦しみを背負わなくていい、構わなくていい、社会通念上問題にならない程度に振る舞えばいいのです。そして今この私をやっている神が背負っている苦しみをなくすことに専念するのです。なぜ苦しみが湧くのか????そこに注力します。

全ては独断と偏見

真実以外は、、、

真実以外は全部独断と偏見です、、、これが正しいこれが間違っている、、これは全て独断と偏見です。この世界にこれは正しいなどは全くなく、、この世界とは無限の無限による無限体験でしかありません。これは間違っているという現象があるのならば、、最初からそれは起こさなければいいわけでそれが起こるということは全て正しいのです。つまりこの世界で起こる全ては正しいのです。

真実は起こること全て

この世界で真実は何か???と言えば起こること全てです。全体験、全現象が正しいのです。にも関わらず人間はこれが正しい、これが間違っているという概念を所有することで苦しいを生み出しているのです。正しい間違っているを定めた瞬間に人間の起こす半分は称賛になり半分は否定になります。ですがその枠を作っておきながら自らは正しい間違いを半々で起こすのですから苦しいのです。

人間を分かっていない

我々人間は実は人間のことを分かっていないのです。正しい間違いを決めておきながら自身の行動を実はコントロールできないという恐ろしい生物です。まるでコントロールができる前提で正否を決めておきながら実はコントロールできないという恐ろしいギャンブルをしているのです。実は誰一人自身の行動をコントロールできない、、この真実に立ち返ったときに独断と偏見が壊れていきます。独断と偏見が崩れ去った時に真実が残るのです。

どうでもいい

背景の戯言

背景が毎日毎日常にこの体に向かって声かけ運動をしてきます。。背景がこの体の中に人格があるという前提の話し掛けをしてきます。そしてそれに反応してこちらも背景の中の相手の体に向かって会話をします。すると向こうの背景が勘違いを起こしまたこちらの体(画像)に話しかけるという大錯覚ゲームが始まるのです。これに我々は何千年もの間騙されてきました。本当は体という画像ではなく背景が会話を起こしているのです。

受け流す

人類の全会話は、、勘違いを維持するための会話です。この体(画像)に向かって相手の体(画像)から会話が起こるわけですが全てはその体ではなく背景から起こっています。背景が話しかけているにも関わらず体前提で話しかけてくることから、、全員が騙されることになるのです。これがどうしても騙されます、無理です、不可能です。

本当の人生のスタート

人は何十年間もこのトリックに騙され続けます。多くの人は死ぬまでこのトリックに騙され続け生涯を終えます。ほんの一部の人だけが孤独に真実に迫りこの謎を解き明かすのです。本当は我々はこの体ではなく背景そのものであり、、実は背景しか存在しません。背景の中にこの体こそが私だという思考感覚が湧き起こりそれを維持するための連鎖思考が起こるのです。

画像のカラクリに気づく

喋りかけてくる画像

背景の中から一部の画像が喋りかけてきます、本当は背景そのものが喋りかけてきますが我々には人物にハッキリと見えます。その会話からしてどう考えてもこの体が個であるという設定の内容であることからこちらの背景がこの体を個と意識する動きが生じます。本当は同じ背景の中でこれは行われています。背景が背景に話しかけています、、その中で勘違いが起きているだけです。

真の安らぎ同士の会話

本当は常に真の安らぎ同士で会話が行われています、ただその会話の内容が個が存在しているという前提の会話だというだけです。その結果それを認識する背景に孤独感分離感が発生するという現象が起きています。背景が今背景に話しかけているという真実に戻れば孤独感は全く生まれません。会話の内容が真実は異なるだけです、その内容をそのまま信じるから孤独感、分離感が生じるのです。どこまでいってもこの会話は真実とは異なるのです。

気づいちゃえば

真実に気づいてしまうと、、会話に取り込まれることがなくなります。会話は常に個が存在するという前提で進みますがこれがトリック、錯覚、イリュージョンを作り出すのです。まさか全人類がこのトリックに引っかかっているとは思えないことから背景はこのマジックに全く気づかずに障害を終えるのです。ですがこのトリックに引っかかったままでは苦しみのカルマからは抜け出せないので、、どこかで、見破る必要がでてきます。