それでも自我は動く

本当はないけども、、、、

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」これは完全な嘘です、洗脳です、錯覚です、、このことが仮に理解できたとしましょう、、、ですが、、、残念!!!朝起きて会社に行けば自我バリバリ、自動行動バリバリで生きていかないといけないんです。結局これじゃ意味なくないんですか??????違うんです、、もしも何かをやらかして後悔の念が襲ってきたら、、、その時に思い出すのです。この事実を、、すると後悔できなくなります。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば自分が居ないなんて思えるわけがないんです、、その時はおしゃべりに夢中になって話倒しますよね、、この体の中の自分として。。。ですが後悔が起こった時に思い出すのです、、、あ、、完全にこれも自動運転で話をしていたんだなと。そうやって痛みが襲ってきそうになったら思い出すのです、真実を。方便とは利便性がある時は使えばいいのです、、そしてそのデメリットが出そうになったら思い出す。

方便としての自我活用

自我も自由意志、自由行動があるというのは嘘ではあります、幻想ではあります、、ですがそれを真実だと思える能力が人間にはあるんです。ですからこれは方便として使いこなします、仕事をする上では「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」という方便は役に立つんです、、、だから使えばいい、、、でもそれによって苦しむのは滑稽です。真実ではないんだから。

あの時に戻れれば

残念!!!

人間ならば誰しもが思うこと、、、あの時ああしとけば!!!!です。今頃は億万長者に、大株主に、最高の結婚生活を、、です。この妄想、妄想癖、幻想、幻想癖こそが人間を苦しみの渦に巻き込む力です。逆に言えばこれしかないんです、人間を苦しみ漬けにしておく方法は!!!!「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この洗脳こそが人間を苦しみ無限地獄に落とす罠です。

ない!!!

ないんです本当は、ないんです真実は、、、、ですが人間はこの洗脳にまんまと引っ掛かり、、、死ぬ直前まで後悔と妄想を繰り広げるのです。「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この認識を作り出す仕掛けが人間にはあり、、、だから神は人間ごっこができるわけですが、、これはこれで相当に苦しい、、、みんなヘトヘトです。

一旦真実に戻るべ

大人になるために先程の勘違いを起こされ、、そしてこの勘違いが強い人間ほどに、、優秀と評価されまんまと騙され続けてきたわけですが、、、これはヘトヘトになるんです、、もうキャパオーバーです。リミット超えです。ということで真実に戻りましょう、一旦、妄想、空想、幻想癖を一旦治療する必要があるんです。本当は完全自動、オートマティックシステム、化学反応的に思考、行動、感情は起こっているだけ、、だから我々は完全な傍観者です、この人生について。

勘違いの自動連鎖を止める

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この勘違いが埋め込まれることによって、、我々は日々悩み、日々苦闘します。そしてその悩む、苦闘もそのまま自動システムに取り込まれ、、その次の展開が次々と起こります。これはテトリスと同じです。完全自動の中に悩み、苦闘も参加し異種格闘技戦のように現象が勃発します。これを止めるにはどうすればいいんですか?????参加しないことです、、この自動システムに、、、こうすればああすれば!!という勘違い思考を止めるのです。すると無駄な感情症状が消え失せ神経症的な症状も消えます。

言われてみれば

悩み始めた時期

面白い話ですが、、、幼稚園時代って悩んだ記憶がないんですが、、、自由意志を使い始めていると感じ始めた小学生ぐらいから悩みって増えてきた感覚があります。さらに中学生ぐらいになるともっと増え、高校、大学と選択肢が増えていると感じるに従って悩みも増えます。さらに就職となると、、より選択肢が増えるので、、、本当にこの道でいいのか?????という疑問が常に常にありました。

選択肢が増え選ぶ自分が居るという錯覚

本当は違う道があるんでは???この選択は本当に正しいのか????一番後悔しない道を選んでいるのか????人間は常に失敗を恐れ適正解を選んでいるかを気にしながらいつもいつも生きています。ですが本当は自由意思自由行動は一切ないのでその悩みの全てが無駄なのです。そして自由意思自由行動がないのならば自分という存在は居ないも同然です。

ノンデュアリティは分かった

ノンデュアリティ ってそういくことなんですね!!!じゃあこれからどうしようか?????じゃないんです。ノンデュアリティが分かったということは悩むことが出来なくなっちゃうことなんです。自分の行動を気にすることができなくなっちゃうことなんです。映画を見に行って、、なんであそこであんな行動しちゃったんだ????って悩むことができませんよね!!!それです。

100トン級の重り

つまり、、、、100トン級の重りが突然外れたみたいなものです。重力が急に無くなったみたいなものです。重くなれないんです、期待もないし、未練もないから。。自分を憂うこともできなければ何も期待もできない、、、未練なし、希望なし、、、のスーパーお気楽人生です。例えホームレスになってのたれ死んでも、、、全くもって未練が残らない、、なぜならば、、、自由意志も自由行動もないのですから。そしてこの軽さが実は生命力そのものであり逞しいのです。

もう「何か」にならなくていい

自由意志の弊害

私たちは自由意思というものを持っていると錯覚しているので「何者か」になれるかなれないかは「自分」に全て責任があると本気で考えています。ですが「自由意思」は本当はないのでそれを「行使」する「自分」も本当は居ません。そうなると「何もか」になれる「自分」が居ないのでしすから「何者か」には絶対になれないことが分かります。「自由意思」というのは実は大変な弊害があるのです、この概念によって人は後悔し希望を持ちをエンドレスに繰り返すのです。

なぜ出来ない????

なんであんなこと言っちゃたんだろう????なんで????なんであの時あれを出来なかったんだろう?????人間はこうやって苦しんでいます。結局今日もあれができなかった、、、残念!!!!全部は自動運転、ノーコントロールです。その後悔の発想が間違っています。妄想です、幻想です、自由意志と自由行動があると思っているのは。

究極の絶望

自由意志も自由行動も自分も居ないなんて滅茶苦茶つまらない、、生きる意味なんて全く感じないですよ!!!そうですよね!!自我全開、自由意思全開だと思っている人からするとそう感じるでしょう。ですけどもともと自由意志、自由行動がなかったんです、それでこれまで生きてきたんです。これからそういう生き方に変えましょうということではないんです。自由意思、自由行動、自我があると信じて今まで生きていただけで一度も存在しなかったという話です。

あれ????

つまりこの体が「自分」じゃないということは、、所有する何かが存在しないということだけど、、、逆に言えば、、、全部が全部自分ってこと?????そうです。全部が全部自分です、見える全て、感じる全て、聞こえる全てが自分です。つまり自分の中にこの体もあって体が自分の中を動いているのです。この体の中に「自分」が居るんじゃなくて自分の中にこの体もあるのです。魂の中にこの体があるんじゃなくて見える全てが魂なんです。

尊敬も軽蔑もない

自動運転に評価をするって??

この体、この思考、この感情は完全に自動運転、自動操作で動いています。つまり全自動洗濯機のようにノーコントロールっです。その状態で街を歩けばあらゆる行動を人は取っているのです。全自動洗濯機のように人は動いていますから、、、そこに評価とか完全に無意味です。あの人は尊敬できる、この人は尊敬できないって「自由意思」があるという前提の話ですよね???????残念!!!!ないんです、そんなものは。

自由意志があると信じれる自由がある

この世界がとんでもないのは「自由意思」があると信じる自由があるのです、そして多くの人はそれを信じています。その結果あらゆる観念、価値観が構築され、、そのフィルター越しに世界を見るという多様性の構築に成功したのです。つまり「自由意思」がるという観念によってこの世界はとんでもなく多様化したわけです。とはいえ真実は「自由意思はない」のです。ですから尊敬できる誰かも尊敬できない誰かも存在しないのです。

それって楽しいの????

そうだとして、、、それって楽しいのでしょうか?????完全な風任せ人生を認めて退屈じゃないですか?????試しにやってみてください、、、めちゃくちゃ気楽、お気楽、安堵、平和です。忌嫌うべき人が全くいない、幼稚園時代の人間関係です、、、あいつは責任感が足りない!!!という評価なんてしなくていいんです。だって自動運転ですから。こんな気楽で楽しい人生ありますか????

風任せ

どこに向かうかは風任せ

安心してください、、我々の人生は完全に風任せです、、何一つこの流れをコントロールできる存在は居ません。「私」がコントロールしてきた、、、という錯覚も風任せで起きました、、、そして本当に私はコントロールできるのか????という疑問が起こり、、、それも風任せで起こります、、そして最終的に実はコントロールできる私など存在しないという気づきで終わります。つまり諦めちゃうしかないのです、、この諦めがつかない限り、、、あらゆる思考感情が湧き上がります、、この感情が苦しみを生み出すのです。

最初から

想像してみてください、、「私」が起こす全行動、全思考、全感情は、、勝手にただ起こっている、、、という気づきが起こった時に後悔とか期待とかが起きるでしょうか????起きるわけがないんです。そしてその場合「私」は幸福になるのでしょうか?????なるんです、、、だって完全自動運転って分かって人を羨むとか、人を蔑むとか、自分を責めるとか、人を責めるとか、、、全部なくなるんです、、、それって最高じゃないですか????最高です。

なんとかしなきゃ

なんとかしなきゃ、、、この思考こそが実は苦しみを生み出す原因です、、、これってなんとかできる気分がいるって思ってますよね????居ないんです。。。。残念ながら。。。居ないにも関わらず居ると信じているから、、、動けない時に苦しむのです。。もしも行動をコントロールできる自分が居ないって気づけたら後悔って不可能です、期待も不可能です。そしてそれが最高に気楽なんです、至福なんです、歓喜なんです。

ここ以外に至福があるという動きすらも

至福の動き

ここには絶対に至福はない、、だから先に先に進んで絶対に至福にたどり着いてやる!!!!この動きがまさに至福から起きます。?????至福を探しているのは自我で、、その自我が先に先にそれを探すという動きを作り出すのが「至福」という存在です。。。。意味不明、、そうです、、、、今不幸なのは、今苦しいのは実は至福が作り出したのです。

つまり

この不幸、この苦しみ、この辛さは、、、、、「至福」が生み出した至福発見ゲームなのです。本当に意味不明、原因不明、支離滅裂です。「至福」は意図的に自我を生み出し、、苦しみ、悲しみ、孤独、、あらゆる感情の全部を経験することに成功しました。「至福」は至福の中に自身の投影を作り出しその中に自我という完全分離感覚を作ることに成功しました、そしてそれによって「悲しみ、不足、孤独、憂鬱、からの嬉しさ、楽しさ、満足、幸福」という至福では絶対に味わえない全てを作り出したのです。

自我の勝手な動きなどあるわけがない

全部が全部を味わうために作り出したこの投影において、、、自我が勝手に活動を始めてしまっては味わえる経験が制限されてしまします。そのため自我は完全にノーコントロール、コントロールできる存在などこの世界には一切ないのです。それによって全感情、全思考、全行動、全観念を作り出すことに成功したのです。この場合の全とは無限の意味であり、、ゆえに我々は完全自動運転で無限の経験をすることになるのです。

ベクトルが前に向かない

自分がこの全部と分かって

自分がこの全部、気づきの存在であり、気づかれる存在であり、、見える全部である、、、この気づきが起こった後に前に前に進もうという気持ちは徐々に徐々に無くなっていきます。なぜならば前に進んだところで何も満たされないことが分かっているからです。今ここに全部があってそれに気付いているのに前に前に進むは全く起きません。

ここに宝くじ三億円のチケットがある

ここに三億円宝くじのチケットが在ることは分かっているのです。ただこのチケットを料金所で換金する方法がわからないのです。そこで仕方がなく何かを達成したら換金できるかも、何かを成就したら換金できるかも、、と右往左往するのです。ですがこの換金チケットは、、先ではなく今ここでしか換金できないのです。作戦変更です、明日になればとかじゃない、、今ここで換金する以外に方法はないのです。なぜならば前に進もうというエネルギーこそが換金を邪魔しているからです。

前に進むのは終わり

前に前に!!!というスローガンは自我が大好きなスローガンです。なぜならばそれは究極の自我肯定だからです。前に進むのは誰ですか????100%自分ですよね笑、、、となります。このトリック、この罠に気づかない限り我々は前に前に作戦に簡単に引っかかるのです。ですから前に幸福があるというこの大前提を否定する必要があります。そして至福に至るには、、、この自我が前に進むのではなく、、進もうとする自我の終了以外にないことを悟るのです。その時自我とは何か????という究極のお題に真剣に取り組む覚悟が生まれます。

内側じゃない

外側の探究の後に

我々は生まれて直ぐに外の世界に魅了されます、全てが新鮮、面白い、エキサイティング、、常に外に外に意識が向きます。自我が形成されますと、、尚更にこの傾向は強くなり、、、絶対的安心を求めて、享楽を求めて、平和を求めてベクトルが外に向きます。年齢を重ね外に外にというベクトルが疲れてきますと、、今度は中に中に本当の幸福があるのでは???とベクトルが内側に向き始めます。

内側は外側に比べれば楽

外側に満たしてくれる何かを求めるのはとてもとても大変で、、常に外部をコントロールする必要があります。ですが外部はいくら頑張ってもコントロールできません。全くもってコントロール不可能であるという諦めがつくまでこの苦闘は続くのです。ですが内面への探究は外部に比べると自分のみとの戦い、ようやく落ち着いた生活を送ることができるのです。外部に振り回されるストレスが減り、、自分をいかにコントロールするかだけを考えていればいいので気が楽なのです。

ところが、、、、

ところがです、、この自分というやつをコントロールしようにも、、、なぜか結局全くこの自分をコントロールできない。せっかく自己実現できたと思ったら全く違う方向に興味が行ってしまう、、、全くもってノーコントロールであることに気づき始めます。つまり外部もノーコントロール、内部もノーコントロール、、この苦しみを全く無くすことができないのです。そして最終的に気づきます、、コントロールできる存在は外部にも内部にもないということを。我々は完全自動運転で動いており、、全てがノーコントロールである。そしてそれと同時にコントロールできる自分も存在せず、、自分とはこのコントロールできない全てであった。この気づきが起こるのです。そしてなぜか全部が全部コントロールできないという気づきとともに真の安心感、真の安らぎ、真の平和が起こるのです。

現象そのものが自分だった

この外部環境、この内部環境の全てが自分自身であり、完全なノーコントロール、、思考も行動もコントロールできているように感じるだけで実は全くコントロールなどできていない。コントロールは出来ないが逆に全部が自分自身だったという気づきが起こります。とんでもなく大きなキックバックが起こったのです。この体を完全にコントロールできない代わりに全部が自分だったという突然の気づきが起こるのです。貯金がこの体だけ、、数万円程度だと思っていたら、、銀行まるごと自分だったという気づきです。

「在る」のパラダイムシフト

「在る」が移動する

自我が形成されると「在る」は私と一体化します。この体の中に「在る」が存在するという錯覚が起こり私=在るになります。そして私は〇〇である、私は怒っている、私は歯が痛い、、、と「在る」と私が一体化することでこのストーリーが生まれます。「在る」は完全にこの体の中に溶け込んでいますから、、この体が朽ち果ててば「在る」も消えるという錯覚が起こり、、全てにおいて怯えるが起きます。

「在る」が魂に宿る

この体の中に居るはずだったこの「在る」は、、、実は魂で、、この魂はこの肉体が朽ち果てても永続するという概念をしるようになりますと、、私=「在る」から非常に喜びが生まれます。もうこの肉体のことをそれほど慎重に扱わなくていいという気づきが起こり、、自由になるのです。今まで全てにおいて怯えて生きていたのが今世は今世と割り切れるようになるのです。ですがこの体=魂=「在る」という発想は分離でしかなく、、そういう意味では緊張と分離感が抜け落ちことはありません。

「在る」の中に全部存在する

そして最後の気づき、「在る」の中にこの世界が全部在るということ、、、見える世界、聞こえる世界、味わえる世界、、全部が全部この「在る」の中に現れます。つまりこの世界は「自分=在る」が見る夢であり、、「自分=在る」もその夢そのものです。今ここに全てがありそれに気づく存在、、完全なる安堵そのものが「自分=在る」である。魂、この体、思考、感情の全ては自分自身であり、それが生まれる舞台も「自分=在る」である。「在る」という感覚は空から現象が起き上がる際に認識する動きだったのです。