「在る」のパラダイムシフト

「在る」が移動する

自我が形成されると「在る」は私と一体化します。この体の中に「在る」が存在するという錯覚が起こり私=在るになります。そして私は〇〇である、私は怒っている、私は歯が痛い、、、と「在る」と私が一体化することでこのストーリーが生まれます。「在る」は完全にこの体の中に溶け込んでいますから、、この体が朽ち果ててば「在る」も消えるという錯覚が起こり、、全てにおいて怯えるが起きます。

「在る」が魂に宿る

この体の中に居るはずだったこの「在る」は、、、実は魂で、、この魂はこの肉体が朽ち果てても永続するという概念をしるようになりますと、、私=「在る」から非常に喜びが生まれます。もうこの肉体のことをそれほど慎重に扱わなくていいという気づきが起こり、、自由になるのです。今まで全てにおいて怯えて生きていたのが今世は今世と割り切れるようになるのです。ですがこの体=魂=「在る」という発想は分離でしかなく、、そういう意味では緊張と分離感が抜け落ちことはありません。

「在る」の中に全部存在する

そして最後の気づき、「在る」の中にこの世界が全部在るということ、、、見える世界、聞こえる世界、味わえる世界、、全部が全部この「在る」の中に現れます。つまりこの世界は「自分=在る」が見る夢であり、、「自分=在る」もその夢そのものです。今ここに全てがありそれに気づく存在、、完全なる安堵そのものが「自分=在る」である。魂、この体、思考、感情の全ては自分自身であり、それが生まれる舞台も「自分=在る」である。「在る」という感覚は空から現象が起き上がる際に認識する動きだったのです。

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