「自我=思考」は人を見た目で判断する

人を見た目で判断しレッテルを貼る

自我は人を見た目で判断します。見た目とはこの大いなる一つの衣です。種明かしをすればこの世は全部大いなる存在が描く絵画です。我々の見た目はこの大いなる存在の上に衣を乗せその衣を自分自身と勘違いしたモノです。見た目とは大いなる一つの衣なのですがこの衣を自分自身で在ると全員で勘違いしているのです。ですからこの衣がそうなっているかを衣同士は最重要視するわけです。どこまでこの衣を重要視しても所詮衣は衣ですから衣同士のコミュニケーションにはトラブルが絶えないわけです。

衣を見た目で判断し思考が解釈を加える

人を衣で判断しておいてこの判断から思考がさらに解釈を加えていく、ああいう見た目の人はこうこうに違いないと、、、これはどこまで行っても衣談義、、なんの価値もないのです。究極的にはその衣の奥に大いなる存在が潜んでいてその価値は衣の数十億倍の価値があるわけです、ですからこの衣談議は無意味、遊びの範疇をでないわけです。ですが今日も人間は大いなる存在の衣の優劣で花を咲かせます。TVを見れば生まれつき衣の見栄えが良い人にスタイリストがついてさらに見栄えを良くして出演しています。雑誌を見てもいかに衣をより良く見せるかが興味の9割です。

人間関係は衣関係

人間関係とは衣関係です。どこまで行っても人間は自分も人も衣として扱います。本当は大いなる存在が衣を着て関係を作っているわけですが、、、衣だけを見て関係を築こうとしているのが人間関係なのです。この関係はどこまで行ってもトラブルは絶えず争いも妬み嫉みも絶えないというのが結論です。そしてこの人間関係、衣関係にほとほと疲れ果て、絶望し、無意味さを感じた人間から無我、無心、衣の奥の大いなる存在に興味を持ち始めるというわけです。人間関係とは実は絶望するのが目的です、何という皮肉でしょう。

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