内側じゃない

外側の探究の後に

我々は生まれて直ぐに外の世界に魅了されます、全てが新鮮、面白い、エキサイティング、、常に外に外に意識が向きます。自我が形成されますと、、尚更にこの傾向は強くなり、、、絶対的安心を求めて、享楽を求めて、平和を求めてベクトルが外に向きます。年齢を重ね外に外にというベクトルが疲れてきますと、、今度は中に中に本当の幸福があるのでは???とベクトルが内側に向き始めます。

内側は外側に比べれば楽

外側に満たしてくれる何かを求めるのはとてもとても大変で、、常に外部をコントロールする必要があります。ですが外部はいくら頑張ってもコントロールできません。全くもってコントロール不可能であるという諦めがつくまでこの苦闘は続くのです。ですが内面への探究は外部に比べると自分のみとの戦い、ようやく落ち着いた生活を送ることができるのです。外部に振り回されるストレスが減り、、自分をいかにコントロールするかだけを考えていればいいので気が楽なのです。

ところが、、、、

ところがです、、この自分というやつをコントロールしようにも、、、なぜか結局全くこの自分をコントロールできない。せっかく自己実現できたと思ったら全く違う方向に興味が行ってしまう、、、全くもってノーコントロールであることに気づき始めます。つまり外部もノーコントロール、内部もノーコントロール、、この苦しみを全く無くすことができないのです。そして最終的に気づきます、、コントロールできる存在は外部にも内部にもないということを。我々は完全自動運転で動いており、、全てがノーコントロールである。そしてそれと同時にコントロールできる自分も存在せず、、自分とはこのコントロールできない全てであった。この気づきが起こるのです。そしてなぜか全部が全部コントロールできないという気づきとともに真の安心感、真の安らぎ、真の平和が起こるのです。

現象そのものが自分だった

この外部環境、この内部環境の全てが自分自身であり、完全なノーコントロール、、思考も行動もコントロールできているように感じるだけで実は全くコントロールなどできていない。コントロールは出来ないが逆に全部が自分自身だったという気づきが起こります。とんでもなく大きなキックバックが起こったのです。この体を完全にコントロールできない代わりに全部が自分だったという突然の気づきが起こるのです。貯金がこの体だけ、、数万円程度だと思っていたら、、銀行まるごと自分だったという気づきです。

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