これ

これしかない

悟りとは実感です、悟りとは知識ではない、、、悟りは、、知識、体験、を超えた場所にあります。悟りの中で全現象が起こるということに気づくことです。悟りとはスペースです、この全現象が起こるスペースこそが悟りです。だから思考に注力する必要はない、、感情に注力しなくていい、、、なぜならば、、悟りとはその現れの場所だからです。この私も悟りの中で起こり消えていきます。だから注力しなくていい、、なぜならば、、何も変わらないから。

悟りは変わらない

この世界でどれほど悲惨なことが起ころうともこのスペースは何も変わらずここに存在します。つまり悟りにとって現象はただのイリュージョンです、、イリュージョンの内容で悟りはびくともしない、、、なぜならばその悲惨な事件が起こる場所が悟りなのですから。そして我々の本質はその悟り、スペースです。なんぴとなりとも動かない、、このスペースが我々の本質です。

あらゆる経験

あらゆる経験がこのスペースで起こります、、、半端ない数の経験が起こります。ですが我々はこの経験を生み出すスペースです。だから何も損なわれずここにあるのです。経験には悲惨なこともあるかもしれない、、でもその経験を生み出すスペースは全く何も傷付かずここにあります。我々はこれまであらゆる苦労、辛酸、忍耐を強いられて生きてきました。ですが本当の本当は、、私の中でその経験が起こっていたのです。

会社にどうしても行きたくないんですが、、

行かなくていい

「会社に行かなくてはいけない!!」このようなルールはこの宇宙にはありません。ですから行かなくては!!という発想自体が、、間違っています。この発想こそが苦しみを生み出す根元です。だからその会社が良い悪いとかではなく、、この発想こそを捨てるのです。つまり会社には行かなくていい、、を新たに採用します。その上でどうしても行きたい会社があれば行けばいいのです。

そんなこと言っても

そんなこと言ってもどうやって生きていけばいいのか????それはなんでもいいんです、食べる方法ならばごまんとあります。あなたが、、「結婚するなら会社員じゃないと難しい」というルールを持っていますと、、このルールに苦しむことになり、、また「会社に行かなくてはならない」というルールが再浮上するでしょう。私は良くても親が、、、、という場合、、「人間は会社に行かなくてはいけない」を所有する親を重視するのですから一緒のことです。つまりこのルールは芋づるであらゆるルールと繋がります。

会社じゃない

問題なのはその会社との相性ではないんです、、、自分自身が所有しているルールが多いとそのルールによって苦しみ、、、その苦しみに苦しんでいるんです。苦しみとはルールの数なんです。現象自体には実は何も問題がなく、、むしろここは真の安らぎしかありません。この真の安らぎの中にどれほどのルールを所有しているかがその人のストレス量になります。

人間関係

悩む???

多くの方は人間関係に悩みます、、人間関係こそが一番の悩みでしょう、、、。人は物質的豊かさと引き換えに人間関係で悩む種族になりました。ただ今後は引き篭っても全く生活ができてしまう世界になることで悩みの種類は変わっていくでしょう。ですがしばらくは人間関係が人類のストレスなのは変わりません。ハッキリ言ってしまえば自我エゴとは勘違いの産物です。勘違いですから、、これは病気です。真実ではないことを真剣の信じるのですからこれは病気です。爪を神様だと信じて伸ばし続けるのは病気です。髪を神様だと信じて伸ばし続けるのも病気です。

おかしい

全員が全員勘違いをしているのですから人間関係に争いが絶えないのは当たり前なのです。勘違いして苦しんでいるのが「人間」ですから勘違い同士の関係に健全な関係が築けるわけがないのです。諦めなくてはいけません、勘違いと勘違いが集まって、、真の関係が築けるわけがないのです。

ということで

ということで人間関係に期待をするのは間違いです、、人間とは悩む存在でありその原因が勘違いなのです。ここからくる苦しみを抱えて抱えまくって生きていますから、、不発弾を抱えながら彷徨っていると思って全く間違っていません。ですからとにかく目の前の存在を大切にします、目の前に現れてくれた現象(人間)を大切にすればいいのです。本当にこの世界は、、ここしかないのです。

現象に浸る

現象の意味が真反対に

我々は今まで自由意志でもってこの近代文明を築き上げてきたと信じてきました。人間は動物とは違う、、人間には自由意志があり、、その自由意志があるからこそ野性的な原始的な生活ではなく、、近代文明を築けたのだ、、、と。ところがです、、それが勘違いなんです。この近代文明は人間の自由意志ではなく自由意志があるという勘違いによって成されたのです。

本当は

本当は、、ただその発想が根元から起こったのです。近代文明を気づきあげようという自由意志風の思考が起こったのです。我々が我々の力で築き上げるという思考が根元から起こりました。何が違うのか???全然違います。思考を作り出すのは人間には不可能なのです、百歩譲って作り出せても認識は絶対にできません。なぜか????認識とは同次元では起き得ないからです。マリオがマリオに気付くのは不可能なのです。マリオがマリオの思考にゲーム中に気付く????できません。

手放す

我々は何千年間も、、この勘違いを本気で信じてやっていたのです。途中キリストや仏陀が現れ、、これを説きましたが、、、理解が不可能。。キリストは殺され、釈迦も死に絶えました。本当は僕たちは、ただ起こる思考行動感情に振り回されているだけなんです。ただしもうこのことが分かってしまうと、、湧いてくる思考、感情を間に受けなくなります。「あそこに行かなきゃ!!!」が湧いてきても放置できます。だってただ湧いただけです、それを重視しないといけない法律はないんです。

エゴを満足させない

こいつを満足させてもロクなことがない

エゴの大きな欲求ってあるんです、有名人になりたい、、超ビッグな家を買いたい、誰もが振り向くような美人と結婚したい、、、まあなんでもいいんですが、、その人の拘り、、、、ありますよね????この拘りを叶えても幸せになれません、そして気づかないうちに必ず次の拘りを持たされます。学歴、就職、役職、収入、これには終わりがないんです。だからどこかで気づくべきです、、、叶えても幸福にはならないことを。なぜ次を目指すのか???それは今満たされていないからです。

真理に関心を持つ

真理に関心を持つんです、悟り、解放、ノンデュアリティに関心を向けます、、、するともうエゴを満たすことに関心が行かない、、、、どうでも良くなるんです。そしてその時点でもう救われています。エゴに振り回されていない時点でもう爽快なんです。人が宗教にはまる大きな原因がここにあります。ですが残念なことに、、、宗教では多くの場合階層があり、、ヒエラルキノーの中に組み込まれてしまいます。

真理を追い求めていると

真理を追い求めていきますと、、、瞑想状態に入っていきます。日々が瞑想化していきます。何をしていても瞑想になってしまうんです。これがテクニックとかそういうレベルではなく、、朝起きて寝るまでが瞑想になります。エゴが何かを追い求めるとは全く関係のない日常が始まります。個人が何かを目指すという生活から、、ただ観察だけがある生活に変わります。悟りの中で、、日常が繰り広げられます。

特別になりたい

エゴ活動

エゴは特別になりたい存在です、、大人しくしていた生徒が、、クラスが変わった途端に人気者に、、その時エゴがガッと出てきて、、、「人気者の俺」を始めます、「人気者でないといけない俺」です。人気者がマスト、義務に変わるんです。すると居心地が悪い、、イライラが始まります。それまでは人気者になれれば幸福になれると信じていました、ところがなってみると、、全く居心地が良くない、、、やっぱりダメ。不人気者の時よりも一旦は居心地は良いが、、その居心地の良さは続かない、、です。

芸人

芸人は誰だって売れれば居心地が良くなると「信じて」います。そして人気者になる、売れっ子になる、、、おかしい、、最初は居心地が良かったにも関わらず、、、今はもう売れてない時と同じ、、、特に居心地良くないし。。。。。です。なぜでしょうか?????簡単簡単、、それはエゴ自体が至福には至れない存在だからです。この私とは居心地の悪さ製造機なんです。居心地の悪さ製造機の私が、、不人気だろうと人気だろうと、、同じです。

特別になりたいを利用する

この特別でありたいという衝動は当たり前の衝動であってこれを止めることはできません、、、ですがあえてそれでも回避する方法があるとすれば、、、特別になっても至福に至れないことを早く悟ることです。特別と至福は全く関係ないのです。だから自我の活動を野放しにはしません、、自我、エゴを野放しにして活動させるのではなく、、、、悟り、非二元への関心を持ちエネルギーをエゴに向かわせないようにします。そういう意味では特別な覚者を目指すのです、、特別な覚者を目指しているうちに、、実は特別な何かが存在しないことにも気づきます。

目的がないと人と会えない

活発なエゴ活動

エゴは損得でしか動けません、損得、取引、利害これがないとエゴは動けないのです。何か人参をぶら下げてあげないと動けない、、、私も学生時代にそのような時期がありました。その当時はエゴの活動が盛んで盛んで、、目的がないと全くやる気が起こらないのです。慈しみのかけらもないのですから人と会う=楽しいが皆無です。だから何か目的を作って会うしかない、、しかも内面では孤独を抱えていますから、、会わないにも関わらず孤独という究極の矛盾の中に居るのです。

究極の理解にベクトルが行っていない

何者かにならないといけない、何かを達成しないといけない、、このようなエゴ活動が働いているとき、、それとは関係ない行動が取れません。メリットがないと動けないのです。ところがこれが崩れ興味が究極の理解にシフトしますと変わってきます、、、慈しみの感情が常に湧くんです人に対し。慈しみの感情が湧くから、、人に会いたいに変わります。

関心を変えてしまう

何者かになったり、何かを成し遂げても、、一瞬の至福しか手に入らない、、という気づきが起こりますと、、もう目指す何かがなくなります。もういい、もう辞めた、、です。もう頑張らないし目指さない、、が起こるんです。そのとき、、人は真理の理解に関心がいきます、それまで向かっていたエネルギーの全てが真理に向かうのです。もう自我活動にはエネルギーが向かいません、真理の探求にエネルギーが向かいます。そして本当に面白いことに真理に関心が向かえば向かうほどに人に慈しみの感情を持てるようになりナチュラルに人に会えるようになるのです。

理解の頂点

知識だけでは不可能

悟りとは究極の理解ですから知識だけでそこに至るのは不可能です、、これは実感しないとダメです。実感を伴わない理解は机上の空論です。そういう意味では悟りは実践です。ですがこう言うと瞑想ヨガ呼吸法断食、、、全部やんないといけないんですよね???と自我が逃げる口実を探し始めます。そうじゃないんです、、勿論あらゆる実践を積まないといけないのはそうですが、、、それが嫌じゃないように導くのです。

知識が実践を導く

徐々に徐々に理解が深まっていきますと、、日々の生活自体が瞑想になります。まるがままをあるがままに見るのが「瞑想」ならば本当に日常生活がそうなります。視点が変わるということは、、世の中の人々の見方ではない見方になるのですから、、それは瞑想です。目を閉じるのは、、、見方を変えているわけです。目を閉じなくても見方が変わってしまったら、、それは瞑想です。

得意が違っていい

私は書くことで理解を深めます、書くことで悟りを深めていくタイプです。まるでそこに人がいるかのうように想定でき、、書くことで理解が深まっていきます。このブログはまさにそれです。人によってはヨガが得意、瞑想が得意、断食、呼吸法が得意、、なんでもあります。これが良いこれが悪いは絶対にありません。もしもたった一つの方法でしか悟れないならばこの世界は無限の現れではなくなってしまいます。

分かってくると

人間関係が変わる

こちらは分かっている、、相手は分かっていない、、、この状況、、、相手は非常に居心地が悪くなります。こちらは相手の心情を理解している、相手はこちらの心情がわからない、、これって辛いんです。黒帯所有者の前で白帯所有者が練習している、そんな感じです。悟りへの理解とは、、真実の理解です。。真実大学の卒業証書をもらうようなものです。真実に興味さえない人は真実に興味がってガンガン気付いていく人とは離れていきます。

見抜かれるのは嫌

なぜそのような行動が取れるか全くわからない、、そのような人の前に居るって苦しいんです。相手は分かっている、でもこちらは分からないって、、辛い状況です。だから分かれば分かるほどに人間関係が確実に変わります、居心地の良いを共有できる人が変わってしまいます。でもそれでいいんです、、全ては全ては幻想、現象、妄想ですから、、本当はそれと至福とは全く関係ないのです。

変わる

真実が分かってきますと、、いまここでしか人は現れないことに気づきます。本当に当たり前のことですがこの気づきは大きなシフトを起こします。現れたこの人は目の前以外では存在しないのです、、だからこれまでが奇跡が起こっていたんです。人という存在意義が変わってしまうわけです。目の前の人を愛しむ感情が湧いてきます、遠い親戚遠い友人遠い何か、、、ではなく目の前の人が大切、に切り替わるんです。だってここにしか存在していないからです。

あ、そっか!

悩むたびに

真実の理解が起こってきますと、、何か悩む度に、、、「あ、そっか!」が起こります。俺なんでこんなこと言っちゃったんだろう????」「あ、そっか!、、、発言って勝手に起こるんだった、、、、、」が起こります。「なんであいつはこんなことを俺にするんだろう???」と悩むと、、、「あ、そっか!!!、、、、それをコントロールできるような人格は存在しなくて勝手にそれが起こるんだった」が起こります。「なんで俺っていつもお金のことで苦しむんだろう????」が起こると「あ、そっか!!俺ってお金はしっかりと稼がないといけないってルールを宇宙の中で作ってたっけ、、、」が起こるんです。

悩みに対し

悩みに対して、、「あ、そっか!!!」が連発します。「あ、そっか!!!!」ばっかりです。そして最後には「悩みも」「あ、そっか!!!」も起こらないという完全な静寂に至るのです。悩みが多いということは理解が少ない、無知だということです。悩みが少ない=理解が多いということ、無知ではない知であるということです。

悩みがなくては

ですが悩むというのは全くもって無駄ではなく、、悩むから、、真実を知りたいという衝動が起こります。悩むからこそ無知から知に至りたいのです。そして大きな大きなポイントになるのは、、、全ての悩みは無知から来ているという強烈な気づきです。この気づきを得ますと、、、悩むことに悩むことがなくなるのです。悩む理由が分かってしまえば、、悩むことに悩むという地獄を先ずは抜け出せるのです。

無知を知に変えるだけ

全悩みは無知からくる、、、この強烈な気づきを得ますと、、、もう悩みは、、全部無知のせいにされます。何を悩もうと、、無知無知無知、、全部これです、、これしかないのです。だから知ればいい、真実を知りさえすれば悩みは消えていきます。そして最終的な悟り、この自分も幻想で全部が幻想で、、、最初から平和、安らぎ、愛の中で全部が行われていたという気づきに至ります。