言葉

今ここに対する違和感

今ここどころじゃない

今ここに全てがある、、、それを聞いた時に多くの人は幻滅するはずです。今ここなど何の価値があるのかと、、これによって悟りへの興味が逆になくなる人も居るでしょう、つまり多くの人にとって今ここは全く価値がない景色でしかないわけです。ですから今ここに全てがありますよというインフォメーションは多くの人にとっては残念なメッセージになってしまうのです。

今ここに全てがある

今ここに全てがあるというのは情報ではありません、伝えて納得できるものでもない、これは体感して初めて 伝わるものであり言葉で伝わるものではないのです。ですが覚者はこれを言葉で伝える際にこの言葉を使わざるをえないのです。なぜならばいまここに全てがあるのが真実だからです。美味しいワインを飲んだ際にもう他に何も要らないという気持ちになります、それこそいまここに全てがあると感じる証拠です。これは言葉では伝えることができないメッセージです。

全体を感じる以外に全体を知る方法はない

今ここに全てがあるのは事実ですがこれを知るには本当に全てがあることを感じる以外に方法はありません。この事実をメッセージで聞いたとしてもこれを感じる以外に知る方法はないわけです。知るためには五感を使って感じるしかありません、悟りのメッセージの確認方法は五感を使った経験で完結します。今ここに全てがあることを五感を通じて確認していきます。

何も守る必要がなかったという気づき

自分という縄張りを守り続けて何十年

一生懸命自分を守ってきた、育ててきた、進化させてきた、、、でも全く幸せになれない。。。一応幸せなはずなんだけど何か違う気がする、、、これが多くの人間が抱える悩みです。物心ついた時から自分というのを大切にしてきたがこの不安が無くならないのはなぜだ??この不安、不幸は勘違いの上に成り立っておりこの勘違いこそが不安の大元だったのです。事実ではないものを信じていたから不安だったのです。

自分を守ったことは一度もなかった

思考を巡らせ、行動も巡らせ「自分」を「自分」が守ってきたつもりですが事実は全て根元からの現れですから何一つ「自分」が生み出した言動はなかったのです。ただ根元からそのような言葉、思考、行動が生み出され続けてきました。そしてそれを自分がやっているという思考も根元から現れていたのです。これが事実です。ではこれからどうすればいいのか?これも今根元から湧いただけです。自分で悩むことなどしたこともないしこれからも出来ないのです。これが事実です。

自分を守るという行動が根元から現れていただけ

あなたはこれからこうやって生きていきましょう、これが自己啓発です。ですが悟りのメッセージは違います。事実は全て根元からの現れであり「あなた」も根元から生まれたアイデアに過ぎずそれゆえあなたがこれからどう生きようとそれも全て根源の現れに過ぎない、、ゆえに不幸になるのも幸福になるのも根源が握っている、、そこにはあなた(根元からの思考)など何も関与できない、、、これが真実(根源)のメッセージです。このメッセージは冷たいでしょうか、、

大借金を抱えた友人の対処法

先ず友人の中に友人は居ない

大前提として目の前に居る友人Bの中にBは実在しません。80億人の人類の中からこれを発見した人は誰もいません、なぜならば居ないからです。その上でこの話を進めなくてなりません、大借金をしたからお金を貸して欲しいという言葉がでても先ずは借金をしたBは居ないということです。その上で、、、なぜ借金をしたかの説明が2時間あったとしましょう。その話の内容は100パーセント事実ではありません、なぜならばあなたの目の前でそれが繰り広げられていないからです。確認が取れていない話は全部本当は起こっていないのです。

その上でどうするか???

もしもあなたの中からお金を貸してあげたいが湧くかもしれませんし、湧かないかもしれません。深刻に捉えることが難しいですから、、何もアクションが起きないかもしれません。それはあなたにも分からないのです。その話を聞いてあなたの中からどんな行動が湧くか、、これが誰にも分からないということになります。そしてどのような思考が湧いたとしてもそれと行動とはまるで関係がありません。これが事実です。

先のことなど誰も分かりません

全ては根源の現れですから、、、友人Bが今後どうなるかを分かる人は誰もいません。そしてその話を聴いた「あなた」の中からどんな思考、どんな行動が起きるかも誰も分かりません。大切なことは何が起きようとそれを深刻に捉える必要がないということです。誰にも何もコントロールができないのですから。深刻になることができるのは「自分」も「友人B」もコントロールできると信じているからです、信じるが起きているからです。答えは簡単川の流れのようにただ事実が起き続けていきます。

辛そうな友人の対処法

辛そうに見えるが事実

明日にでも自殺をしたい、、そう相談してきた友人をどう対処したら良いのでしょうか??答えはこれです、先ずその友人が辛そうに見える、、これは間違い事実です。そこには何の疑いもありません。ですが苦しんでいる友人Aは実在するのか???これはしません。友人Aの体の中からAを探し出すことはできないのです。そして昨日から苦しを多用し自殺を図ったという言葉をAから聞いたとしてそれは事実ではありません。24時間悩み続けているとAが言ってもそれも事実ではありません。その言葉以外は。

その事実を腹の底まで落とし込むと

そこまで腹落ちしますと何が起きるか???深刻になることがどうしても出来ないのです。先ず友人Aが実在しないにも関わらず友人Aを心配するというのがどうしてもできなくなります。そしてどんな深刻な相談をされてもどうしてもそれを深刻に扱うことができないのです。真剣に聞くことはできても深刻に聞くことができないのです。

目の前で確認できる事実以外は思考(ファンタジー)

友人Aの声が聞けた、、これは事実です。友人Aが深刻そうな表情をしている、これも事実です。ですが友人Aが体の中に居る、、これは事実ではありません、、、友人が昨晩全く寝れなかった、、これは目の前でそうでないのならば事実ではありません。彼女が話す内容は全てファンタジーであって事実ではないのです。これでどうしたら深刻になることができるのでしょうか。そしてその話を2時間聴いた「自分」の存在、これは事実ではありません。ファンタジーです。ファンタジーの中で「自分」とAが話をしたのです。深刻になれるわけがないのです。

悟りへの興味が起こる理由

悟りに興味がなければ悟りは存在しえない

悟りに興味が出るのは良いことです、悟りに興味が湧かないのならばその人の人生に悟りは存在しえないでしょう。認識すらないからです。そしてこの興味は根源から確実に湧いていますから悟りが起こる予感を感じます。悟りを開くのは個人ではありません、個人に悟りを起こさせる力は皆無だからです。悟りとは起こることであって起こすことではありません。ましてや悟りを開く個人など絶対に存在しません、個人はどこまでいっても思考でしかないからです。そしてその思考も根源からただ起こっています。

悟りを開きたいもただ起こる

悟りを開きたいという欲求があるならばその欲求は根源から起こっています、間もなく悟りが起こる可能性があります、起こらない可能性もあります。そこは全くわかりません、ですが悟りに全く興味がない人には悟りが起きない予感がします、それは私の思考です。事実ではありません。多くの人が悟りに興味が湧くのは、、この人生が苦しいからです、この人生は何を達成しても苦しいままなのでは??ビンゴです。我が人生はどこまでいっても苦しいのです。釈迦は悟りそれを伝えました。

悟りを閉じたいは起きない

悟りを開きたいは聞きますが悟りを閉じたいという言葉は聞いたことがありません、なぜか?悟りを閉じたいは湧かないからです、根源から。個人とは悟りが閉じている状態、その個人から悟りが閉じたいが湧いたらおかしいのです。個人は悟りが閉じて苦しんでいる存在なのです、その個人から悟りを閉じたいは湧かない、、悟りを開きたいという欲求は個人が苦しいからこそ起こるのです。個人というファンタジーに迷い込んだ人間から起きる欲求こそ悟りです。悟りたいという欲求は正しいのです、正否はないのです正しくもないのですが悟りたいは個人の永遠のテーマなのです。個人という存在が実は思考でしかないことを見破るが起きるまで延々とこれが続きます。

「自分が居る」を湧き続けさせるには「対象」が必要になる

日本が戦争に巻き込まれれば日本が実在することを疑わなくなる

日本という国は実は実在しません、日本とはただの名前であって国境も実在せず法律上決めた文字情報です。ですが日本対中国などの戦争が起これば間違いなくその事実を多くの人は忘れ「日本はこれから大丈夫か???」と心配になるはずです。その時人の思考には「日本」がガッツリ存在するはずです。ですが日本という国は実在せず名前に過ぎないのが事実です。

人はトラブルをあえて起こすことで「自分」を確認する

人とのトラブルは確実に「自分が居る」を湧かせます。トラブルを起こすには「自分」と相手が確実に必要になるからです。トラブルを起こし続ける人はこれが起き続けていると思えばいいのです。トラブルがなければ「自分が居る」を維持できない、ゆえにトラブルが起き続けます。例えば目標がある人はトラブルが必要なくなります、なぜならば目標(対象)が「自分が居る」を湧かせ続けることができるからです。

金メダルを目指すのは最高の自分維持

金メダルを目指します、アスリートが話すこの言葉の奥には金メダルを目指す自分の存在を強固にできるというメリットがあります。金メダルを目指す『誰か』が必要になり、、、「自分が居る」が湧き上がるのです。金メダルを目指すあなたは居ませんよ、、、誰もが信じようとしないでしょう。ということで人はトラブルや、目標を設定することで「自分が居る」を湧かせ続けていきます。

理論としては簡単

自分もあなたも全部ラベルだけ、ラベルが剥がれれば全体だけが残る

理屈はこれだけです、悟りは超シンプルな理論なのです。名前がついていた物など何も無かった、自分もあなたも、コップも、机も、、、ただそれだけ、、この目の前に在る全体だけがあった。音を聞く自分も、話をする自分も、生活する自分も居なかったというこれだけです。これをどんなに頭に入れても我々はこれを実感できません、これが悟りの難しさなのです。話しかけられれば一瞬で自分が戻ります、スーパーのレジでもお釣りを渡される瞬間に自分を思い出します。悪口を言われてしまえばその瞬間に自分を思い出します。こうして我々は自分から縛られ続けて死にます。

自分が居ないという事実をどこまで実感するか

例えばAさんという友人から悪口を言われた時、事実ではAさんという存在は居なく、言われた自分も事実としては絶対に居ないのです。悪口という言葉が在ったという事実しかないのです。これをどこまで実感として感じれるかが鍵になります。Aさんと呼ばれる人の体の中にはAさんは絶対に居ないのです、居るというのは居るはずだという思考が土台になっています、Aさんとの会話はAさんが実在するはずだという思考が湧いただけということになります、そしてそれを聞く「自分」も間違いなく実在せず「自分が居るはずだ」という思考が湧いたという事実しかありません。

自分が居るはずだという思考とあなたも居るはずだという思考がただ湧いただけ

自分と友人が会話をするためには自分が居るはずだとAさんも居るはずだという二つの思考が湧く必要があります。これを我々は毎日行なっています。自分も居るし、自分に話かかけるAさんも居るはずだ、、がエンドレスに湧き続ける。逆にいえば湧き続けなければ会話が成り立たないのです。事実としては自分もAさんも居ないのですから、ということでこのストーリーに埋没し続けるには思考の湧き続けが絶対に必要になります。これが事実です。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

経験からしか気づきを得れない理由

実は悟っている

我々は最初から悟っているんですよ、、、スピ系の書籍にはこの言葉たまに登場します。これは事実で我々は景色を眺める瞬間実は何も名前がない世界を一瞬垣間見ます。名前が全く発動しない瞬間があります、これが悟りです。目の前には名前が一切付けられていない根源がそこに在るのです、毎瞬、毎瞬、、実はこの根源を我々は眺めています。ですが次の瞬間には名前がある世界に引き戻されるわけです。五感は毎瞬、毎瞬この根源悟りに触れているわけです。

経験するとは五感のこと

考えていても悩んでいても気づきを得れないのはその行為に五感が関与していないからです。五感がなければ根源に触れることができないのです、根源は五感でしか触れることができません。なぜならば五感は常に根源に触れることができる武器だからです。もしくは五感が無ければ根元は存在できないとも言えます。dont think ,feelこれはブルースリーの言葉ですが根元、悟りは感じるものなのです。

悟りなど大袈裟なものではない

我々人類は悟りをどこか遠い遠い場所にある未知の世界の場所に存在するものだと想像しました、ですがこれも思考の策略、この名前ドラマに閉じこもっているための仕掛けでしかありません。なぜ悟りを恐ろしく遠い場所、究極の境地にしたかと言えばそれだけ実は近い場所にあり誰でもこれは発見できてしまうからです。だからこそ遠い遠い場所にあると思い込ませたのです。実は我々は毎瞬悟りに触れています、そのことに自覚的になるだけです。

名前のない世界から名前のある世界へ

先ずは言葉ありき

イエスキリストは聖書の出だしで「先ずは言葉ありき」と綴ったようです。我々人類は言葉を開発するまでの間何も名前が決められていない世界に住んでいました。鳥も存在せず、虫も存在しない、農作物も、葉っぱも、木々も何も存在しない世界です。いやいや昔から動物、植物は存在していたはずだ、、そうではないのです。現代人が認識する形での固有の存在がないということです。木は土の上に育ちますが土と木という名前がない時代おいてはそれらは一体化しています。ですから木が枯れるという現象も木が育つという現象も古代にはないのです。ただ生命現象が移ろうのみ。

自分すら存在しない

そうだとすると自分は孤独だったのでは???違います。自分という言葉も自分を意味する名前も全くないのですから「自分」が居ないのです。ただ動く手や足があり動く口がある、、しかもそれらにも名前は存在しない、、自分が生きている、、という発想もなくただ毎日が移ろうだけです。自分の餌が取られた、、、こんな発想もない、、だから嫉妬や妬みも存在しえない、、現代人が抱える嫉妬、妬み、嫉みはありっこないのです。我々はには言葉を覚え「自分」と「あなた」という存在をこの世界に作り出し争いすらも発明したのです。

喜怒哀楽という発明

古代人には喜怒哀楽がありません、先ず「自分」という存在がないのですから「自分」が何かを達成した「自分」が失敗した「自分」が恨まれた「自分」が成功したという発想がないのです。このような世界でどうやったら喜怒哀楽が起きるのでしょうか?現代人が抱える感情「喜怒哀楽」は実は言葉の発明後に発達したものなのです。喜怒哀楽はそもそも存在しないのです。

苦しいなら「自分」を捨ててしまう

そもそも自分という存在などこの世にはなく誕生後に学んだアイデアでしかありません。このアイデアによって人生が苦しいのならば「自分」というアイデアを捨ててしまった方がいい、「自分」というアイデアを持ってしまったゆえに不幸になったならば「自分」などない方はいいのです。滅茶苦茶な発想かもしれませんが「自分」などアイデアでしかないのです。

とはいえこの社会で生きるには

とはいえこの社会で生きていくには名前が必要になります、住民票も免許証も名前が無ければ発行してもらえません。ということでとりあえずは名前を保持しますが実際にはこれはラベルでしかないことを思い出すべきです。「自分」も「あなた」もラベルでしかなく完全独立した生命体ではないのです。名前など暫定的に付けたラベルに過ぎないと腹を括ってしまうのです。

名前さえなければ何も起きていない

日本が今年は景気悪化、アメリカが情勢不安、ロシアが外交強化、、、全部これらはラベルに過ぎず、、本当は何も起きていません、、、人類が勝手に名前をつけてこの生命現象に意味をもたせただけです。事実は生命現象が移ろっているだけです。我々は生まれてこの方本当は何も起きていない世界に名前をつけさもあらゆる事象が起きているかのように生きてきました。そしててーへんだてーへんだと騒ぎ立て時に驚き、時に落ち込み、時に喜び、時に悲しむ、、というドラマを演じているのです。

本当は何も起きていない

大きな魚が小さな魚を食べる、、これは事実でしょうか?違います。魚という名前がついた生命体などこの世には実在しません、そこには動く何かがあるだけです、もっと正確に言えば脳内映像が変化しているだけです、、その脳内映像に名前を付けて「大きな魚」が「小さな魚」を食べるというファンタジーを作り出したのです。そしてそのファンタジーを観察して悲しんでみたりするのです。「水槽の中に魚が死んだ」は事実ではありません。事実は「脳内映像が変化した」これだけです。