自我

自我(雲)保存の法則

記憶に気を付ける

自我とは本当は存在しないので過去に完全に依存しています。過去がなかったら自我は存在できません。その証拠に記憶喪失になれば自我は消えます。ですから普段一人で過ごしている時、あらゆる記憶が蘇ってくるはずです。これぞ自我(雲)保存の法則です。もしくは将来に関する不安です、、将来こんな風になりかもよという思いは全部この自分に降りかかってくるわけです。過去の記憶、将来への不安を駆使してこの自我保存の法則は機能するのです。

自身は空であるという概念

自身は本当は雲ではなく空である、、それを概念で理解したところで、、過去の記憶、将来への不安が押し寄せ、、この自我(雲)を圧倒的に保持しようとする動きが起こります。考えてみてください、もしも街のチンピラに絡まれたり、盗難にあったり、誰かに裏切られたり、そのような事件があれば自我を絶対に意織するはずです。ところがそのような事件は実際には起きないので、、過去の記憶を利用したり将来の不安を利用するのです。こうして自我(雲)保存の法則が動くのです。

山に篭るのは合理的

かつては悟りを開くには山に篭って、、というイメージがありますがこれは当然と言えば当然なのです。なぜならば知人や家族とのコミュニケーションはどうしても自我を意織せざるをえないからです。友人知人はこの体の中に自我が居る前提で話を進めますからこちらもそれを意織しながらの会話になります。自我の嘘を見破りたいのに自我をイメージしながら会話をしなくてはいけません。山に篭れば敵は記憶のみですから、、自我の嘘を見破るには効果的です。

現代は

現代は山に籠らなくても書籍やYOUTUBE、ブログと様々なメディアを通じて悟りに関するメッセージを得ることが出来ますから昔に比べてはるかに悟りを開きやすい時代です。悟りとはこの偽りの自分を見抜く作業であり覚者は偽りの自分ではなく全体、空からのメッセージを直接届けてくれます。見かけ上は人間の体(雲)ですがそのメッセージは空から起こっています。

記憶の全ては雲(自我)を再生させる

ある記憶が、、、

記憶ってなんでしょうか???間違いなくその記憶には自分という存在がいて、、この自分の存在を確実なものにします。あの時自分はあんなこと言ったなー、こんなこと言ったなー、、、友人同士で集まればあの時のお前はあんなバカなことしたぞ!!!お前こそ酷かったぞ!!!、、、この中には確実に自分という存在が登場するのです、、これによって自我はやっぱり俺は存在する!!!という感覚を覚えます。

一人でいると、、、

一人で居るときは相手がこの自我の存在を認めてくれないですから、、自身で自我を維持しなくてはなりません。そのため過去の強烈な後悔、過去の強烈な怒りドラマなどを再現するのです。するとそこには自分が必ず登場し、そしてさらに感情も起こるのでリアリティがあるわけです。暇になると苦しくなるのは、、強烈に嫌な記憶が蘇り強制的に自我保存の法則は働くからです。

自我保存の法則を完全に頭に入れる

自我を保持するための動きを自我保存の法則と称せば、、、実はこの法則はそれほど複雑ではないことに気づきます。将来への不安、過去への後悔、憎むべき相手とのドラマ、愛すべき人とのドラマ、つまり感情が伴うドラマを思い出しもしくは妄想して、、自我を登場させるのです。関心が行くだろうドラマでなければ入り込めませんから、、その時その時一番感情が入るドラマが湧き上がっていきます。これによって自我は絶対的に保持されるのです。

空だという認識が時間と空間を消し去る

雲ではなく空ならば

もしも私の本質が雲ではなく空であるという認識に切り替わりますと、、もう時間という概念は消え去ります。なぜならば空は一ミリたりとも微動だにしない存在であり、、時間がもしもあったとしても全く同じ状態が続くだけになるからです。その状態で時間という概念は消え去るわけです。さらに空間という概念も消え去ります。なぜならば雲は変幻自在に移り変わるので雲の大きさに応じて毎瞬ごとに空の大きさも変わるわけです。空間という一定の大きさという概念は空の前では崩れ去るのです。

徐々に起こるパラダイムシフト

私たちはあまりに長い期間この体この思考を自分自身と捉えてきたがゆえに、、このパラダイムシフトは簡単には起きません。常に記憶からあらゆる事件やストーリー過去の友人等との人間関係が思考として湧いてきてこの私を保持しようとします。記憶が自我の保持に強力にことを起こすのです。何かを思い出した瞬間、それは間違いなくこの私と誰かのストーリーであり再びドラマに引きずり込まれるわけです。過去とはこの自我の絶対的存在肯定です。

ああやられた、こうやられた

特に被害にあったという感覚は自我を強烈に再生させます、悔しかった、むかついた、怒り、後悔の感情は、、自分の存在を思い出させるのは効果的でしょう。だからこそあらゆる悔しい記憶が起こり自我の存在を強烈にアピールするのです。この手口に気づきましょう、気づけばそこに引きずり込まれなくなっていきます。

自我の嘘を見破ってなぜ自我に固執できるか

自我とは完全に虚構

この世界に存在するものは全て幻です、現れては消えていく幻です。現れている時のみ幻想化し消えれば何もなくなります。ですからこの体もこの思考もこの感情も常に現れては消えていくのです。そしてこの体の中に存在すると言われている自我も例外ではありません。これは幻想です。あるという感覚が起こった時のみ現れ忘れ去られているときは消えています。

ところが、、、、

この社会では自我を正式に実在している存在と認めていて、、これも幻ですが、、自我には責任が重くのしかかっています。その証拠に何か犯罪を起こせばその動機を確認されつまりコントロール能力があるという前提で話が進むのです。だからこそこの幻の自我は、、永続する連続する存在という想定でこの社会は成り立っているのです。ところが実際には自我は起きたり消えたりを繰り返す非連続性であることも間違いないのです。

自我の嘘を見破ると

自我はこの現象界に存在しますんで自我は100%幻想です。そのことを完全に理解できてきますと、、もう自我に固執するという発想が起きにくくなります。絶対に存在すると信じて生きてきたにも関わらずそうじゃなかったという大どんでん返しは価値観がひっくり返る事件です。ですが自我を信じて生きている人々のメカニズムも理解できていますから社会的には問題は起きないのです。

救うべき人は誰もいない

全ては開放性の表現

この世界は開放性による開放性のための開放性のドラマです。このドラマに個人というのが居るように見えるのは非開放性という自我を見かけの上で作ることに成功したからです。ですが実際には開放性の中で起きるドラマですから真の非開放性は存在できないのです。そしてそのドラマに出てくる見かけ上(非開放性)の人々は開放性の上に立つ見かけ上非開放性の人々です。このドラマでは見かけ上非開放性に映る人物しか出演はなくよってその本質は全員が開放性の中に居るのです。

私(非開放性)を含め最終的な運命は全員が決まっている

この舞台は開放性の舞台です、、その舞台の中で非開放に見える存在が現れました、それが私あなた、、その他大勢の人々です。私そして彼らは見かけ上非開放性ですがこの開放性の世界の中に真の非開放性は存在できません。よってこれは全て見かけ上、錯覚に過ぎません。ですから救うべき人は実際におらず、、何も問題がないのがこの開放性の世界の特徴です。勿論ドラマ上は救うべき姿に一見見えますが、それはそう見えるだけ、そう感じるだけです。

かといって

かといって目の前に車に轢かれそうな子供が居れば助けるでしょう、、それで勿論問題はありません。ですが不幸にして助けることができなくても、、それはこの開放性の中のドラマでしかないことに気づかなくてはなりません。非解放に見える全てのキャラクターは実は開放性でしかなくつまり最初から救われているのです。

自我に関心が向かないと

概念であっても

概念であっても知識であっても、、自我は幻、思い込みであることを頭で理解できますと、、自我の欲求を叶えることに関心は向かなくなります。そして今まで自我の欲求達成に向いていたエネルギーが真理探求に向かうのです。事実上自我に関心が向かない、、という状況になっていきます。すると、、自我は痩せ細っていき活力を失い、、益々真理の探求に意識が向くようになるのです。自我の欲求をいかに達成しても成就しても意味がないことは既に分かっているからです。

観葉植物

自我は観葉植物のようなものです、そこに関心が行けば行くほどに大きく成長しそのため欲求も大きくなる。ところが関心を向けなければ痩せこけていき、最終的には枯れて大地に再吸収されるのです。我々は自我を観葉植物として大切に大切に育て上げてきたのです。あらゆる敵から守り箔を付け最重要アイテムとしてこれまで扱ってきました。ですがその方法ですとほとほと疲れ果てたわけです。もう関心を自我に向けなくていいのです。

観察観照者になる

心の声が上がればこれまではその声を最大級大きく扱ってその声を満たすように動いてきましたが、、これからはその声をただ観察者、観照者として見ます。今思考が起きたな、、という感覚です。この声をしかり聞いて欲求を満たしたところで植物としての自我がより大きくなるだけなのです。大きな植物としての自我は多くの水を求めますから飢餓状態に突入します。

願いが叶ったその瞬間

何も得る必要がない状態

受験勉強に成功し志望校に受かった瞬間、就活に成功し志望企業に受かった瞬間、最良のパートナーを得た瞬間、、これらの瞬間人は、、、もう何もいらない、、という満足感を得ます。お腹がいっぱいという感覚よりも真の安らぎをその瞬間に垣間見るのです。その感覚が忘れられないがために人は次の目標に進むわけです。ですが実はこの手に入れた瞬間の苦しみから開放された感覚こそが開放性、真の自己の感覚なのです。

何も心配ない

多くの人は次々と目標を叶えていくことでこの真の開放性に出会う経験を実はしているのです。その経験は絶対に忘れることができない経験なので人は中毒になり次を追いかけるわけです。ですがそれは対象を手に入れるというやり方では常に一瞬、一過性のものであることも徐々に気づいていきます。すると人は対象ではなく真の自由、真の安らぎ、真の平和はどこにあるのか????という疑問を持つのです。

未来ではなく

未来に常にその対象を求めてきたのですが、、そのやり方では当然一過性の幸福を追いかけるだけであり、、そこに答えがないことに気づきます。すると初めて「悟り」という言葉を思い出すのです。そういえばそのような言葉があったなーです。関心が手に入れるではなく手放すに行くようになります。するとこのドラマ上でそれらに関する情報が集まり始め真の探求が始まるのです。

開放性が私(非開放性)を再吸収する

質問が消えるまで

この世界は開放性の中で繰り広げられる閉鎖性(自我)ゲームです。この舞台は間違いなく開放性でありですが自分とは閉鎖性、非開放性の存在です。開放性の中で非開放性(自我)が活動するのは矛盾しています、そのため非開放性(自我)は常に常に異分子扱いを受けるのです、この開放性の中で。つまり存在をイメージした瞬間に(お前は誰だ???)が湧いてきてそれがこの体に反応し違和感、憤りとなって発生します。その憤り、違和感を非開放性(自我)はこのストーリーの中で何を手に入れることで解消するという旅にでるのです。これが開放性が作り出した非開放性ストーリーです。

開放性が開放性に目覚めると

このカラクリが溶けて非開放性である自我が開放性の中に溶けてなくなった場合(開放された)、、質問が出なくなります。それまではなぜ?????がお前は誰だ????がエンドレスいに開放性の中で起こり続けるわけですが、、これがもう起きないのです。開放性が非開放性(自我)を認識できないからです。すると小さい子供のように真の安らぎの中でただ遊ぶが始まるのです。

開放性はいつ私(非開放性)を再吸収するのか????

私はこの開放性の中で存在する自体が苦しいのですから、、開放性を探しまくるわけです、、どこにあるのか???です。そしてどうやらこの世界(非開放性のドラマ)には存在しないことに気づきます、この気づきは開放性の中から起きます。すると関心が開放性に向かいます、、このドラマは関心が投影された世界ですから、開放性に関する情報が出現し始めるのです。そして開放性が開放性に関する情報を読み込み続け、、非開放性の自我の存在に関心が行かなくなることで非開放性の自我は感覚が薄れていき最終的には忘れ去られます。

開放性として、、

そこからは開放性の中でこの見かけ上の体が、、真の安らぎの中で活動します。そこにはかつての非開放性はこの体の中には存在せず周囲の非開放性に見える人間関係の中で生きていくのです。真の安らぎ真の平和の中で子供が遊ぶような活動が始まります。

なぜ子供の遊びには目的が必要ないのか?

勝敗の要らないゴルフ

子供が外で遊ぶ時に勝敗とか目的とか結果とかを聞くのは無駄でしょう、、子供が外で遊ぶのは「今真の安らぎの中」に居るからです。真の安らぎの中に居るから「遊ぼう!!」が起こるのです。今苦しみの中に居る時「遊ぼう!!」が起きない、、遊んでもいいですよ、、その場合はメリット、目的を教えてください、、です。ゴルフをする時に大人はハンディをつけてでも勝敗を付けて遊びますね、、そしてゴルフは人間関係の潤滑油だったり、商談だったり、、何かその後の目的があったりします。

自我が形成されてから

我々は自我の形成と一緒に目的、メリット、結果がないと動けなくなったのです。なぜならば今苦しいから、、何か嘘でもいいから見える結果が欲しいのです。何か見える結果を見せてくれないと動けない、なぜならば私は「今苦しい」からです。

これって変だよね

小さい子供が何のメリットも求めずに遊べるにも関わらず大人は何かメリットがないと遊べないって完全に退化です。実際にはこの体を守るための必要悪がこの自我ですから退化ではないんですが、、幸福度でいえば完全に退化です。この体を守ることには成功した、ですが幸福度は確実に下がっている、、というのが一般的な大人の惨状です。

自己形成から自己超越へ

子供とはまだ自我が形成されていない状態、自我未形成期、大人は自我が形成された自我完成期、そしてここからは自己超越期です。自己超越期とは自我の動き働きを完全に理解し、、、自我との同一を脱出し、、自我を観察する大いなる存在に自己を戻す時期です。自己超越しても勿論この自分というのは便宜上残りますがそれは便宜上です。もう「苦しい」という感情の湧き上がりが抜け落ち、、ただ全体、大いなる存在としての自分劇場を演じます。

全ての構成要素としての私

私のパラダイムシフト

なぜ人は評価されたり多くを得たり、、あらゆる向上を得ようとすれば、、、、全構成要素全てが、、この体の中に居る自分であるという勘違いを起こしたからです。この勘違いは凄まじく、、違和感どころではないのです。自我がまだ曖昧だった頃にはその違和感は少ないのですがその個人に責任という大きな十字架を背負わせた瞬間に急激にストレスは高まります。動物園全体の私が、、猿一匹にの中に閉じ込められて「私」と勘違いが起きた状態です。狭い、おかしい、苦しい、がエンドレスに出るのです。これが人間の苦しみの本質です。

我々の本質は

我々の本質はこの体が引き起こす五感を作り出す全要素です、このコップもコーヒーも、朝日も音楽も全部です。この全部とこの体が二人三脚で五感の全て経験の全てを創作しているのです。なんという奇跡、なんという偉業でしょうか。ところが突然その全てを所有する存在が現れます、それが「私」です。この私が誕生してからというもの、、常に「苦しい」が湧き上がるのです。全体全てがこの私に閉じ込められた瞬間です。私は常に苦しので、、ああやったら、こうやったらと日々動き回りもしくは部屋に籠り、、、この苦しみを少しでも解消するよう努めるのです。

この「私」も私の一部

勘違いしてはいけないのはこの「私」という感覚も全構成要素の一つだということです。私は決して全体の中に現れた突然変異ではなく、、、それもまた私の一部です。ですから突然の気づきとはこの「私感覚」が全体に再吸収されたことなのです。もしくはこの「私」を中心にした全てのストーリーが完全に虚像、ファンタジーであるという観念の崩壊が起こった時に気づきがおきます。

気づきの後

全構成要素、全構成因子こそが私であるという気づきが起きたのちも勿論この人生ストーリーは続きます。分離していたものは完全統合されたビジュアルに変わるわけではありません。ですが本当は一つであることが分かっています、ただ今たった一つのエンルギーが分離しているように見えていることがわかるのです。その時にこの体の中の「私」が何かを得て幸福になろう、何かを恐れる、、というドラマが起きないのです。何かに不安になるためには今ここに真の安らぎがない時にだけ成立するのです。

子供にもっと不安になれと言っても

小さな子供に、、もっと将来を心配しろ!!!と言っても無駄でしょう、、将来を不安に思うことができないのです。だって今真の安らぎの中に居て、、それがこのまま続くならば何を不安に思うのか???という話です。つまりこういうことです、、、自我というものが形成され、、、「苦しみ」に襲われ続けていない限り将来を不安に思うことも不可能ですし、過去を憂うこともできないのです。