全ての構成要素としての私

私のパラダイムシフト

なぜ人は評価されたり多くを得たり、、あらゆる向上を得ようとすれば、、、、全構成要素全てが、、この体の中に居る自分であるという勘違いを起こしたからです。この勘違いは凄まじく、、違和感どころではないのです。自我がまだ曖昧だった頃にはその違和感は少ないのですがその個人に責任という大きな十字架を背負わせた瞬間に急激にストレスは高まります。動物園全体の私が、、猿一匹にの中に閉じ込められて「私」と勘違いが起きた状態です。狭い、おかしい、苦しい、がエンドレスに出るのです。これが人間の苦しみの本質です。

我々の本質は

我々の本質はこの体が引き起こす五感を作り出す全要素です、このコップもコーヒーも、朝日も音楽も全部です。この全部とこの体が二人三脚で五感の全て経験の全てを創作しているのです。なんという奇跡、なんという偉業でしょうか。ところが突然その全てを所有する存在が現れます、それが「私」です。この私が誕生してからというもの、、常に「苦しい」が湧き上がるのです。全体全てがこの私に閉じ込められた瞬間です。私は常に苦しので、、ああやったら、こうやったらと日々動き回りもしくは部屋に籠り、、、この苦しみを少しでも解消するよう努めるのです。

この「私」も私の一部

勘違いしてはいけないのはこの「私」という感覚も全構成要素の一つだということです。私は決して全体の中に現れた突然変異ではなく、、、それもまた私の一部です。ですから突然の気づきとはこの「私感覚」が全体に再吸収されたことなのです。もしくはこの「私」を中心にした全てのストーリーが完全に虚像、ファンタジーであるという観念の崩壊が起こった時に気づきがおきます。

気づきの後

全構成要素、全構成因子こそが私であるという気づきが起きたのちも勿論この人生ストーリーは続きます。分離していたものは完全統合されたビジュアルに変わるわけではありません。ですが本当は一つであることが分かっています、ただ今たった一つのエンルギーが分離しているように見えていることがわかるのです。その時にこの体の中の「私」が何かを得て幸福になろう、何かを恐れる、、というドラマが起きないのです。何かに不安になるためには今ここに真の安らぎがない時にだけ成立するのです。

子供にもっと不安になれと言っても

小さな子供に、、もっと将来を心配しろ!!!と言っても無駄でしょう、、将来を不安に思うことができないのです。だって今真の安らぎの中に居て、、それがこのまま続くならば何を不安に思うのか???という話です。つまりこういうことです、、、自我というものが形成され、、、「苦しみ」に襲われ続けていない限り将来を不安に思うことも不可能ですし、過去を憂うこともできないのです。

(Visited 11 times, 1 visits today)