自我

なんでそんなことやったの??

この問いで自我が形成される

コップを割る、、、なんで割ったの???注意をされます、母親から。本当は勝手に手が動き勝手に割れたのです。でも母親からはなぜ???と問われる、、それで、、不注意で、他のこと考えてて、、、という思考が湧きます。この流れです。本当は勝手に手が動き勝手に割れたのが事実です。コップを割った犯人は居ないのです、この体が勝手にそれをやりました。

なんで万引きしたんだ????

スーパーの店長は万引きした人に必ず聞き出すでしょう、、なぜ????すいません出来心で、、、こうなるでしょう。ですが本当は勝手に万引きしたい、、が湧き、、勝手に手が動く、、、この流れです。そこにそれを扱う自我は存在しないのです、、勝手にそれが起こったのです。だから無罪放免した方がいい、ということではありません。真実と概念は違うということです。

相手に理由を聞く無駄

なぜ浮気したの?なぜ学校をさぼったの??なぜ????この質問には、、相手の中にその人の行動を決めることができる自我が存在することを大前提にしています。ですが本当は自由意志はないし、その自由意志を扱う自我は存在しません。ここを理解しないと365日架空の自我を考えて生き続けなくてはならなくなります。人間ゲーム、自我ゲーム、渡る世間は鬼ばかりゲームになっていきます。

一日中の思考を観察する

ほぼ自分ありきの思考が湧き続ける

1日の思考を観察してみてください、ほぼ自分ありき、相手ありきの思考が湧き続けているはずです。自分という存在、相手という存在が実在しているかのような思考が湧き続けています。これはもう完全にストーリー、ゲーム、幻想の中に入り込んでしまっている証拠です。マリオがマリオありき、クッパありき、ピーチ姫ありきの悩みを抱えている状態です。マリオ、クッパの中に自由意志を所有する自我が存在するかのような悩みです。本当はマリオもクッパもノコノコも自動運転です。

自由意志はない、を徹底する

我々は何十年間も自由意志がある、、、を前提に生き過ぎてきました。ですから相手が何かアクションを起こせば相手の中の自我が自由意志を行使したと思うわけです。そして私がそれに反応した時も「自分」がそう判断したと思うわけです。この思い込みが全てです、本当は自由意志も自我もなく、、ただ思考が湧き上がっているだけなのです、そしてその思考は湧き上がると同時に気づかれます、気づきの意識に。

あいつ、こんなことやりやがって!!、、、いや待てよ。

あいつこんなことやりやがって、、、、待てよ、、、、そうか自由意志はないわけだから、、あいつの体を通じてそれが起こっただけだ、、、それをあいつはコントロールできないし、、そもそも自由意志がないのならばあいつすら存在してない、、、、こうなります。全部の行動がこのように再構築されるのです。これはトレーニングです。何度も何度もこれを練習するといつか相手の中に自我を想像しなくなります。

物理的成功時に気づくこと

本質が全く癒されていない

将来安泰の会社に勤める、個人として売り上げが最高潮になる、周囲から多大な評価を受ける、、、このような時ってあります、実際に。なんかよく分かんないけど上手くいっているなーです。ですがその時にも本質レベルではいつもソワソワしています、いつも何か違和感があるのです、、コレで終わり???です。こんなもんなの??です。これが最高だとしたら、、、これ以上はないの??です。

個人が成し得る成功に癒しはない

個人という存在が成し得ることで究極の癒しが起きることは絶対にありません、なぜならば成し遂げた個人という存在が苦しみ発生器、孤独発生器だからです。高級車を乗り回すのが個人ならば孤独と苦しみを発信しながら乗っているのです。いやそんなこと言ったってこの体を持っている以上個人ではなくなるのは不可能では???違います、この体の中に自分が居るというのは後天的に作り出した概念、感覚なのです。人間以外の動物は自我がありません。

動物のように生きろと?

動物には自我が発達しないのですから動物にはなれません、、我々人間は一旦自我が発達します、、そしてこの自我と共に生きる期間があります、次に自我とは何だ?と疑問に思う時期が来ます、、次に実は自我とは思考でしかないのだからそれに振り回されて生きるのは馬鹿らしいと俯瞰する時期が来ます、次に自我が出しゃばってこない時期が訪れます、全体としての活動が始まります。

孤独感は思考が作り出した産物

本質は孤独ではない

一人では何もできない、いつも友達と一緒に居たい、、、なぜならば孤独だから。これは思考が作り出した孤独感です。本質はこれ全部です、いつもこれ全部、、全部が全部、、これが本質です。この中に自分という存在が居るという感覚が生まれ(現象化)ることで分離感が生まれ(現象化)し孤独感が生まれ(現象化)したのです。本当はコレしかないのでそこに孤独などないのです。これは全部です。

なぜ鳥は孤独ではないのか?

一匹の鷹が北海道の大草原の上を飛びます、、人間であれば孤独を感じることもあるでしょう、、その鷹から孤独を感じませんね。鷹には自我がありませんから鷹にとって自分とは見える景色全てです、この全てに気づくしか起きていないのです。鷹のボディを自分という概念がないということは見える世界全てが自分です(自分という概念はないが)朝目覚めて寝るまでに気づかれる現象の全てが自分です(自分という概念はないが)

悟りとは

悟りとは自他が無くなることです、見える世界、聞こえる世界、全てがここにある、以上です。それを見る私も存在せず、それを聞く私も存在しません。ただ現象が起き気づかれる。この感覚が分かってきますと孤独感が湧いてこなくなります、誰も私に注意を向けてくれない、誰も私に構ってくれない、、という思考が湧かないのです。それは真実ではないからです。真実は孤独を払拭します。

至福に至ろうとするエネルギーがあるがままを隠す

探求の先にはない

どこに至福はあるのか??どこにあるがままはあるのか???この探求は自我のエネルギーの特徴です、探求者です。私がそれを見つけ出すんだ、、ですがこの見つけるというステージは確実に幻想の世界で行われるがために至福は見つかることはありません。マリオが必死になってスーパーマリオゲーム本体を探している状態です、画像の中で。画像の中にゲーム本体は存在しないのです、むしろ画像全てが本体の投影です。

探求を諦める

マリオが画面の中で至福(ゲーム本体)を探すのを諦めた時実は最もそれに近い状態にあります。マリオが必死になって探している間は絶対に絶対に見つからないわけです。探すという行為が自分(マリオ)以外を見てますからそれはもう分離のエネルギーしかないわけです。分離(マリオ)が分離を探している状態です。我々が唯一できることはこの仕組みを理解すること、ゲーム内での行為によって至るではなく仕組みを理解しゲーム本体にマリオが再吸収されるのを待つだけです。

あるがままへの誘い

今ここで感じる苦しみはあるがままへの帰還、誘いです。今苦しみを何十年間もこのゲーム内で解決しようと懸命に努力し、物理次元では解決できないと思うと情報空間、スピの世界で解決しようと努力しました。ですがそれらの努力は報われません、、この自分が何者かになろうとする努力自体がゲーム本体(あるがまま)への帰還を妨げるのです。この苦しみは自分という存在が起こしている、この事実に向き合うことです。自分という存在が苦しみを作り出すのです。

私が居てあなたが居る、この大前提は苦しみの始まり

全ては一つの生命現象

私というものを強く強く意識しますと、相手のことも当然意識します。私を尊重し相手も尊重する、、尊い行為のようでいて実は苦しいのです。実は全く一つのエネルギーがただ動き表現されているだけ、私とあなたを遮るものは実は全くないのです。にも関わらずあると思う思考が起き上がっているのです、そしてそれを気づきの意識が気づきます。

あの人はこうだ、あの人はこうに違いない

周囲の人を批判の対象にするのはその人の中にその人を統率する自我が存在していると信じているからです。だからこのような行動、仕草、言動をするからにはこんな性格の自我が存在しているはずだ、、という思考が湧き上がっているのです。そしてその大前提にはこの体の中に強烈な自我が居ると信じる思考があります。これは強烈な分離意識ですからその時点で苦しいのです、たった一つのエネルギーが分離していると信じることで緊張が生まれます。

真実に戻る

本当はたった一つのエネルギーがただ揺れ動いているだけです、その動きの一つが今いる相手から言葉として現れます、そして次の瞬間にまた他の人間から言葉として現れます。ただそれだけです、そしてこの私の体からも言葉が現れます、、ただこれが起きるだけです。もしかしたら嫌味な言葉が相手から起きるかもしれませんがただ起きただけ、そこから推測をしなくていい。もしかして推測が起きればただ苦しくなります、なぜならばそれは分離意識を強化するから。真実はたった一つのエネルギーが揺れ動いているだけです。

霊的進化もどうでもいい

それはストレス

進化しなくては進化しなくては、向上しなくては向上しなくては、、、これらは実は全く自由からかけ離れています。全くもって楽しくない、ストレスでしかない。向上した方が良いって誰が決めたんでしょうか????誰も決めていませんよね、、そんな独特ルール無限の存在の表現、あるがままの表現に一切ありません。本当はただあるがままの表現があるだけ、その中で向上しようが湧いてきただけです。

重要なこと、それは楽になること(解放)

とはいえ解放を目的に生きれば今度はそれが素晴らしいことという概念を作ってしまいます、ですからそれを目的にしてはいけない、、そうではなく、、ただ気づきを得ること、そしてそうなったら楽になれるかもと俯瞰すること。そしてそれまでの道のりも完全に意図した生き方はできず完全自動運転であることを悟ることです。自我の動きに振り回されて十分にこれまで苦しんできたのですからこれからは苦しまないで生きていくだけです。

自我を主語にしないこと

軽々しく扱われた、、私をこんな扱いするなんて!!!と自我を主語にしたストーリーを辞めるのです。ただそれが自然現象として起きました、そしてこの体の中のは自我、自分は存在しません。にも関わらず怒るのはおかしい、、です。本来だったら怒るのでしょうが、、自我自分私がこの体の中に居ないことを分かっているので冷静に対処します。

被害者になっても受け入れろ、ではない

お金を払ったのにサービスが出てこない、、もしかしたらこの体(私)が軽く扱われたのは事実かもしれない。ですが残念ながらこの体の中には私は居ないので軽く扱われることはできない、ただ事務的にサービスをお願いするだけです。相手は嫌な気持ちにさせるためにそうしたかもしれない、ですが相手の体の中には自我は存在しないのです、、ただの自然現象です。だからハードドラマになり得ないのです。

自我の役割を剥がす

五感からの情報収集

自我の役割の一つ、それが五感から得たあらゆる情報を整理することです、、、例えばテニスプレイヤーであれば相手の顔色、息遣い、動きのキレ、顔色、筋肉の張り、、、、全情報をインプットして整理して、、、今日のプレイスタイルを判断していきます。100パーセントの力で戦うか、80パーセントぐらいにしとこうか、、などです。自我はこれをやっていると思っています。ですが実際には全部気づきの意識が気づいています、、その全ての情報を。そしてその気づいた情報に基づいて作戦が湧いてきます、、その作戦に気づきの意識が気づくのです。

思考を練り上げる

自我の役割の一つが思考を練り上げることにあります、、右に打とうか、左に打とうか、もしくは浮かせるか、もしくは接近戦か、、、よし接近戦にしよう!!!と、、作戦隊長的な役割を自我が担っていると思っています。ところがその全ての思考は勝手に湧いてきています、そしてどれを選ぶかも勝手に湧いてきています。そして湧いてきた思考に気づくのは気づきの意識です。

行動を起こす

練りに練った作戦を通じて実践するのも自我の役割です、、実際にこの体をそう仕向けなくてはならない、、、ところがこれも違います。実際にはその行動が勝手に起きています、勝手にその行動を起こしているのです、この体が。作戦とは全く違う行動を起こすこともあれば作戦通りに動くこともあるでしょう、、その全ては勝手に起きています。そしてその動きに気づくのは気づきの意識です。

あれ、自我は何もしてない

そうなると自我は何もしていないではないか!!そうです、何もしていないのです、、何もしていないのならば自我って本当は存在しないんじゃ、、、そうです、存在しないのです、残念!!!え、、じゃあ、、みんなはこの体の総合責任者、CEOとして自我を持ち上げているけど、、その席には実は誰も座っていないということですか????その通りです。誰も居ません、、、マリオの中には誰も居ないように、この体の中にも誰も居ないのです。じゃあ自我が消滅する、自我が再吸収されるという言葉も幻想???そうです。本当は最初から誰も居ないのです。居ると思い込む感覚、エネルギーが消え去るのです。

引き寄せるのは誰だ?

引き寄せる自分は居ない

引き寄せの法則が一時期流行りましたが、、引き寄せる自分は実在しませんからこの法則は無理があります。ですが自我が緩んで緩んでいくことで究極のリラクゼーションが訪れ見える世界が輝いていくことはあります。ストレスという固い固いエネルギーの塊が緩むことで、、見える世界、触れる世界が変わることはあるのです。例えば1億円の宝くじが当たったとしましょう、、その瞬間世界は輝いて見えるはずです。一時的に自我の緊張が緩むからです。

究極のリラクゼーションを目指して

仕事で大活躍している人に会えば私も頑張らなくては!!!と思ってしまうし、、、輝いている人に会えば、、私もあの人のようになりたい!どうしたら???となるでしょう。ですが本当はそうではなく、、、デフォルト「苦しい」を解除することが一番重要なのです。信じて疑わない「自分」という存在をもう一度解析し本当は居ないことに気づくこと、自由意志を行使する自分など存在しないこと、、、

主人公が居ない生活

五感は全てこの体が担っていると思っているので自動的にこの人生の主人公はこの体になります。ですが本当は気づきの意識が全ての現象に気づいています。そうなると主人公はもうこの体ではない、、この体ではなく気づきの意識が気づいているだけ、、、、主人公は気づきの意識です。主人公がこの体だったからなんとかこの体を大切にしなくては、となるのですがそれももうどうでもいい、、、体なんて小さな物じゃなく気づきの意識が我々の本質なのですから。これが解放です。

幼少期はそうだった

自分がやったなんて全く思ってなかった

幼少期は、、ただ昆虫に触り、目に映る花を触り、話しかけられれば反応し、お腹が空けば何かを探し、、、そこに自分などという存在は皆無でした。。。両親から、、、名前を何度も呼ばれ、、、茶碗を落とせば注意され、、徐々にこの体の中に「自分」が居るという概念を学習させられていったのです。そしていつしか常に名前で呼ばれるようになり、友人も名前で呼び、、、自我同士のコミュニケーションが完成していきます。

無視されるのが辛いのは

学校では無視するというイジメがありますが、、これが卑劣なのは、、、自我にとって存在を認知してもらえないというのが一番辛いことだからです。なぜ辛いのか????それは本当はないからです、、他人に呼びかけられてようやく存在を信じることができるだけ、、、本来ないのだから、、、、他人に存在しているように扱われて初めて存在を信じることができるのです。だから学校ではみんなか声をかけてもらいたい、それが人気者。

ずっと人気者は無理

社会に出ると、、人気者の意味が変わってきます、、、男性ならば職場で良い仕事をして認められることだったりします、、家に帰れば良いお父さん、、、本当は存在していないのだから常に他人からの承認を求め続けるのです。これは辛いし苦しいのです。いつまでこんな風に頑張り続けなくてはならないのか?です。

自我の卒業

自我のメカニズムが理解できてきますと、、自然と何かを求める欲求が減っていきます。自我が無いことはもう分かっていますから無理して誇示する必要が全くないのです、、ないのが基本ですから。頑張って頑張って自分はココに居るよ、、というアピールの必要がない。存在が嘘なんですから。自我が嘘だということがハッキリとわかった時に自分の奥にある何かがそれに気づき自我を最吸収します、それが解放です。