気づきの意識

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

何かに集中し寝食を忘れる

無我に浸れば何も要らない

寝食を忘れて物事に集中する、、これは事実です。物事に集中するというのが究極の瞑想状態、無我状態、気づきの意識状態です。何も要らないわけです、、結果的に寝食を忘れます、、これは結果です。気づきの意識は何かに意識しているときこの個人への意識ができません、この瞬間はこの瞬間、何か一つにしか意識は向かないのです。ですから何かに没頭している時を無我と呼びます。気づきの意識そのものです。

今まではそこから自我に戻っていた

生活を無我で過ごすにはどうしたら良いのでしょうか??それは一つの作業をする際には一つに集中することです、、たった一つの作業を無我に切り替える道具にします。集中することが目的であって、作業を終わらせることには意味はないのです。こなすべき作業などなく、集中するための作業があります。そして作業に向かない意識に対して後悔しないことです、何をするかしないかに個人は全くの無力であり介在できないのです。

この事実を知るとまさに無我に入れる

多く人は一日中、後悔や反省もしくは改善、目標設定をしていますが、、、、無駄です。我々の言動の全ては川の流れのように、、次々に起こっているのみ、、その起こりに集中するのです、、今それが起きることに集中します、、、すると朝から晩まで無我に入れます、、、もっとこうしないと、もっとこいうやったら、、あの時これさえしなければ、、という雑音に構わないのです。見かけ上の脳が作り出した名前のある世界に思考によって戻らない、、脳が作り出した第六感の世界に入らないことです。

先ずは「苦しい」を終わらせる

悟りを求める人々の大勘違い

なぜ覚者と質問者との間のコミュニケーションは食い違うケースが多いのか???質問者は自分が幸福のなる方法を聞きたがります、、ですが覚者は、、自分が居ないということ回答し続けます。その回答を聞いて、、自分が居なるための方法を質問者は問いてきます、、覚者はもともと自分が居ないから自分を無くす方法が無いと答えます。質問者はでも自分が居る感覚は確実にある、、どうすればいいか?と問いてきます、、覚者はどうすることができる自分が居ないと回答します。

これは非常に難解な問答になる

今まで生きてきて、、この体の中の自分が居ない、、、などのメッセージを聞くことは皆無です。総理大臣、国連事務正長ですら、、体の中に自分が居ると信じて疑わないでしょう。だからこそこの世から苦しみを解消することは不可能なのです。つまり大前提の勘違い、、ここに全ての根本理由があるということです。ですがこれを理解するのは至難の技、、なぜならば一歩外のでれば今もその前提で世界は回っています。TVを観ても、小説を読んでも、映画を観ても全部が全部このパターンです。

気づきの意識がこのカラクリに気づくまで続く

このカラクリに気づくのは個人ではありません、個人が居ないということを個人が気づくということは不可能です。マリオにのめり込みすぎてしまった子供がハッとゲームを止める瞬間が悟りです。個人に意識し過ぎてしまいこの世界にのめり込むことに、カラクリを発見し気づき直すことが悟りです。悟りとは気づきの意識の気づきのことです。この気づきが起きますと「苦しい」は消えます、、するとこれからの人生の課題や、人生の目的、、など今まで重要課題がどうでもよくなります。今までくるしかったから色々な課題を見つけては改善していたことに気づくのです。

万引きで人生が壊れるという事実

〇〇会社の重役が万引きで書類送検

このニュースを見た多くの人は、、、この人は終わったな、、全部失ったなとなります、、、99%の人はそう感じるでしょう、、、、ですがこれってなかなか面白い事実を証明しています。つまり万引きという出来心でその人の人生が完全に壊れるほどのヤワなものであるという共通認識はあるのです。この共通認識で縛られている以上、、、我々の人生は常に綱渡りです、、、こんなヤワな人生楽しいでしょうか???

起こるが起きる

川の流れのように起こるが起き続けます、、、どれほど思慮深く生きようと起きる時は起きるのです、、このことを多くの人は実は知っています、、だから苦しいのです。。。次は自分の番かも、、、その通りです。。どこで何が起きるかは誰にも分かりません。。。気づきの意識も、大いなる一つも、神も分かっていません、、だからこの共通認識は苦しいのです。

唯一のルール、起こるが起きる

たったこれだけです、、、何が起きるかは誰にも分からない、、、これだけ、、、だから万引きを起こしてしまった重役も、、それが起きたのです、、、次は自分?かもしれません、、、俺は絶対に起こさない、、、違います、、これまでも全部起きたのです、、、、そこに個人は完全に無力なのです。このことが本当に腹落ちすると人への批判はバカらしくてできない、、自分への評価???全くどうでもいい、、が起きます。楽ですよね???

なぜ自分が好きなのか??

それは当たり前、、気づきの意識だから

多くの人が自分を大切にしようと思うのはこの私の中に閉じ込められてしまった気づきの意識に対する思いです。いつもこの全てを観察する存在、気づきの意識は、、、、いかなるときも気づき続けます、、、この存在がただこの体の中に入っているという錯覚が起きているだけで本当は気づきの意識の中で全部起こっています、それゆえ、、自分はこの自分が好きなのです。

どんなに役割に閉じ込められても

どんなに役割に閉じ込められても、、、父親、係長、男性、社会人、息子、、あらゆる役割がこの私にはついて回りますから、、気づきの意識もこの役割の中に閉じ込められていきます、、、ですが実際には閉じ込められるわけがなく、、、ただその錯覚だけが起きます、気づきの意識の中で。そしてこの錯覚が苦しみを増やしていきます。完全なる自業自得、気づきの意識の自業自得です。そしてだからこそこれは悲劇ではないのです、喜劇です、神の遊び。

気づきの意識として役割を演じる

全部は気づきの意識の中で起きている、、だからこの役割もただの現象です、、その役割をこなさなくてはこの現象界では生きていけないこともある、、、例えば車に乗れば、、ドライバーの役割を担わなくては死んでしまいます。。ということで気づきの意識は意識的にドラバーを担います、一時的に、、、そして私になります、それは一時的、、係長にもなります、、一時的に。。気づきの意識として、、このスタンスが崩れると、、役割に閉じ込められ苦しくなります。

全部に名前をつけたら苦しくなった

あれ、、便利かもしれないけど苦しい

私たちは毎日あらゆる名前を覚えていきてきました、、、学校に進み毎日学校では名前を覚えさせられます、、そして就職しても同じで毎日何かを覚えさせられるのです、、、これによって確かにこの個人は生きることができている???便利なのかもしれません、、ですが苦しいですよ、、、何か重いんですけど、、、になります。それはそのはずこの現象界ないは「これはこれ」という決まった名前など一切なく、、ただこの現象が移り変わるだけです、ですから、、、無理がわけです。

この私の体も、、、

この私の体という代物も、、見る物全部は変化していきます、、、それは当たり前のことで、、人間がこの移り変わる現象に勝手に名前を付けたのですから。。。植物が枯れる、、、冗談じゃない、、いつも変化を続けているだけです、、、、枯れて悲しい???冗談じゃない、、、ただ変化が起きている、、最初から最後までいつもこれです。

死ぬことは悲しいこと???

冗談じゃない、、、この人間と呼ばれる現象も、、変わることが当たり前、、いずれはなくなるです。。この現象界の存在は全部このパターンです。意識という絶対的な存在、、この変化に気づく存在が、、まさかのこの体の中に在るという錯覚が起きました、、これによって絶対的な存在が移りゆく現象の一部に宿っているという大錯覚が起きたのです、、これは大変なことです、、なぜならば意識はこの体という現象とは実は何も関係がないからです。これが苦しみのメカニズムです。

最初から名前など無かった、、に気づく意識

絶対的存在、決して意識しない時がない存在、気づきの意識は名前のついたこの体が所有しているという錯覚を作り、、その中に閉じ込められるという錯覚を作りました。そして名前が付いたあらゆる存在に取り込まれるというダブル取り込まれです。ですがこれらは全部後付けの名前でしかなく実体がないことに気づきます。あ、、もともとただの現象界だったに気づきます、この体と呼ばれる現象も実は実在してないや、、です。

朝は静寂、、、

名前のない世界

朝は静寂です、、朝4時、、、静寂の時間、、、違います、、、朝個人を意識するのが難しいのです、、名刺を意識するのが難しい、、、動詞もない、、、その時気づきの意識が、、、にょきっと現れ、、ただ在ります、、、名詞も動詞もない世界、、色の現れのみ、、、、ただ気持ちい、、、ただ静寂、、、求めていたのはこれだったという気づき、、、

これ以外いらない

ただ静寂とともに在るが起きますと、、、もう他に何も要らないが、、起きます、、、これ以上はないことに気づきます、、、そしてこれは誰も奪えないことにも、、、全員が知っているこの感覚は、、この感覚を思い出すためにあったんだなーという気づき、、早くこれを教えてあげなきゃもない、、なぜならいつだってここに帰れるから

こんな静寂ならば、、

こんな静寂がこんな近くにあるならば、、、個人をやり続ける方が難しい、、、だから必死にもがく自我、、間髪入れずに動き続けるのは、、、この静寂を知っているから、、、自我が焦っていたのは、、ちょっとでも動きを辞めたら、、、この静寂に包まれてしまうことを知っているから、、、この静寂に気づいてしまったらもう戻れない、、、自我のガツガツに興味が湧かない、、、だから自我は頑張る、、気づかせない、、、

ただ在る

動詞も名詞もない

本当は動詞も名詞もありません、、これは脳が勝手に作った感覚です、、本当は名詞も動詞もないを、、、意識していきますと、、、目の前には、、生命現象だけが在ること気づきます、、本当にそれでいい、、いつでも静寂に包まれることができます、、、これ以外要らないが湧いてきます、、、個人としてのこれがしたいが抜け落ちていきます、、、

明日は何をするの?

この質問で気づきます、、そうか個人は休みは何かをしたがるもんだったなーという気づきが起きます、、、そんな時もあった、、、ですが今はただ静寂に包まれているのがいい、、この自分が包まれるのではありません、、ただ静寂そのものになるのです、、、本当は名詞も動詞もない、、、、そんなものは脳が作り出したものです、、、

私が見る、、なんてなかったという気づき

私が見る、私が食べる、、、こんなことは元々無かったのです、、私など最初はなかったし、、見るという動詞も、食べるという動詞もあとから教わったもの、、、最初は何もなく、、、それだけで静寂にいつでも包まれる、、、全ての行為に動詞という名前がつき、、、静寂が落ちた、、、ただそれだけ、、、

名詞も動詞も無かった、、に気づきの意識が気づく

私がこの仕事のためにパソコン仕事をしている、、、全部名刺、動詞の世界です、、、私も、仕事も、パソコンも、全部後天的につけられた名詞、動詞です、、、何も無かったのです、、もともと、、、その何も無かったに立ち返ると、、、静寂に包まれます、、、なぜならばこれに気づいたのは気づきの意識だからです。

意識が昨日は無かった?

意識がない、、、

朝から意識がなくて、、、昨晩は意識の調子が悪くて、、、聞いたことがありません、、意識とは熟睡状態以外は必ず感じているはずです。本当は熟睡状態も意識はあります、ただ記憶がないだけ、、、調子が良いという認識、調子が悪いという認識、、、これぞ意識です、、気づきの意識です、我在りです、全体です、、、

この意識を、、自我が取り込んだ

この絶対的な認識、、気づき、、これを自分が、この体が意識している、、と思考する、、意識する、、のがこの自分劇場の始まりになります、、この自分が、、TVを見ていることに気づいている、パソコンを見ていることに気づいている、、アタッシュケースを見ていることに気づいている、、椅子に座っているのに気づいているとなります、、、違います、、、全部、、意識、気づきの意識、我あり、、が気づいているのです。

アタッシュケースを見ているだけなのに、、静寂

ただそこに在るアタッシュケースを見る、、その時にこの自分が見ているという思い込みを外します、アタッシュケースに気づきの意識が気づいているのを感じます、、気づきの意識としてアタッシュケースそのものになります、、すると静寂もそこに在るのに気づきます、、この体の手も視界に入るかもしれませんがそれはボヤけています、、焦点が合いません、、これは3D映像です。

アタッシュケースが在る、、、から

アタッシュケースが在る、、、このことに気づきの意識として気づく時、、静寂に包まれます、、そしてさらにそこにはアタッシュケースという名前すらなかったという気づきが起こります、これはこの静寂が導きます、、、ただ現象だけがあります、、空から浮かび上がる色です、、そしてそこに気づく空(気づきの意識)

天才画家は、、、

天才画家は空そのもの、気づきの意識そのものとしてアタッシュケースが在るに気づき、、さらにアタッシュケースという名前すらないに気づく、、そこにはただ生命現象、色が在ることに気づきます、、アタッシュケースとそれ以外の区別差別もなくなり生命現象そのものを画くが起きた、、そこには画家という存在は居ない、、描くという動詞も外れる、、色の生命現象としての動きが在った、、、

意識はたった一つにしか意識できない

意識は意識ゆえにたった一つのことしか意識できません、、今しかないこの瞬間は今何かに意識するのみです、、アタッシュケースをただ見る、、そこに自分を介在させないでいると、、アタッシュケースが在るに変わります、、主体客体が外れます、、そして本当は見る者など存在していません、、すると静寂そのものになります、、

五感+脳の感覚で六感

脳はあらゆる生命現象に名前をつけた

脳はあらゆる生命現象に名前を付けました、、これによって我々は、、、生命現象の中に独立区別した物を作り上げ、さらに自分を登場させ生きています。六感の世界で生きているのです。ここに良いも悪いもありません、結果的にこの自分は餌を捕獲しやすくなり生存確率が確実に上がりました。容易に生存することが可能になったのです。ところがこの脳の戦略には副作用があります、、それが苦しいです。気づきの意識(空)がこの自分に気づくことで閉塞感が湧いてくるのです、、

名前を消すことはできない、、、

かといって名前を消してしまうことは出来ません、、仮に名前を消してしまえば生存確率も下がります、、ということで我々ができることはこの脳が作り出したファンタジーの世界に閉じ込められてしまった気づきの意識に、、この世界の構築に気づいてもらう他ありません。気づきの意識は気づきの意識であってこの脳が作り上げた自分ではないということ、、目に見える世界に登場するあらゆる登場人物も名前を付けることでそこに登場しているだけだということ、、元々は気づきの意識(空)とそこに現れる現象そのものしかなかったということ。この自分もその現象の一つに過ぎないということです。

脳すらも気づきの意識が現象化させた

この脳も気づきの意識から現象化されたものです、脳が悪いのではないのです、、ですがこの脳が作り出した世界は苦しい世界であるということだけです、、、なぜ苦しいのかを気づきの意識が気づき、、この苦しみから脱出する他ありません。