思考

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

思考、感情、体を観察し続けると、この三つと同一化できなくなる

思考が湧いたら観察し、感情が湧いたら観察する

思考、感情、この体を自分と思い込むシステムを自我と呼びます。思考、感情、体そのものであるという思い込みが自我ですから「これを観察する存在」を別に作り込むことで自我を観察する無我を強制的に作り出します。多くの人は思考が湧いてもそれに気付いてもいません、なぜならばそれが当たり前過ぎるからです。思考が湧いて何が悪い?終始このパターンです。何も悪くありません、ですがこの習慣を継続する限り苦しみのメカニズムを脱却できません。

思考、感情が湧くスペースになる

思考、感情は常に湧き続けます、この思考、感情が湧き出したらそれが湧くスペースになり切ってこの湧き出しを観察します。思考、感情が湧くというならば絶対にそのスペースがあるわけでこれに成り切るのです。これによって思考、感情が湧くことが同時に観察する無我を作りだすというとんでもない状態になります。これまで自我にのみ同一化してきた全存在が自我と同時に無我(全存在)になるという新しいメカニズムが誕生します。これによって無意識の感情フル回転、思考フル回転がなくなります。無我が意識的に観察する感情フル回転、思考フル回転にシフトします。

思考が湧けば平和(無我)が訪れ、感情が湧けば歓喜(無我)が訪れる

今までは思考が湧くと自我が肥え太り苦しくなり、感情が湧くと自我が肥え太り苦しくなっていました。ですがこれから思考が湧くとそれを観察する無我が湧き出し平和が訪れます。感情が湧き出すとそれを観察する無我が湧き出し歓喜が訪れます。思考、感情が苦しみの根源ではなくなりむしろ平和、歓喜、安堵(無我)の到来になります

大いなる存在は思考と同一化し過去、未来を泳ぐ

記憶の蓄積で振り返る過去が積み重なっていく

人間の脳が進化を繰り返し脳が思考をするようになり、言葉も覚え記憶力がついていきます。こうなるとこの人間としての人生が着実に記憶となって蓄積されていきます。本来は大いなる存在がこの思考、感情、体と同一化することでこの自分映画は始まるわけですが記憶がたくさん積み重なっていくことで「自分」は過去を振り返るようになっていきます。過去を振り返るということは記憶の中を探るということです。大いなる存在、一つの宇宙生命体が思考に同一化し記憶の中の過去を振り返るようになるとそこは今(大いなる存在そのもの)から離れていくようになります。大いなる存在がまさかの人間の脳の中に意識をフォーカスしている状態です。この状態は大いなる存在にとって非常に居心地が悪くなるのです。人間として今に在るならばまだ居心地の悪さは少なくても人間の思考に成り切りさらに脳の中の記憶、過去にフォーカスするなど大いなる存在の究極の遊びでしょう。遊びは遊びですが苦しい遊びです。

過去が苦しかったということで未来不安ばかりを思考する

人間の思考に同一化した大いなる存在は脳の中の記憶、過去にフォーカスし、、過去を悔やみ、過去を後悔し、過去を悲しむ経験を味わいます。そして次は将来不安です、過去がこれほど酷かったのだから将来も不安が尽きない、、こうなるのです、、将来とは想像の中でありこれも人間の脳の中に存在します。大いなる存在の過去、将来という脳の中のトリップを続けるのです。こんな狭苦しい旅はあるでしょうか。ということで大いなる存在の脳内トリップは窮屈、苦痛を極めるのです。過去を悔み将来を憂うという行為がなぜこれほど苦しいのか?その種明かしを今しました。宇宙全体、全存在が思考と同一化し脳内をトリップするという意味不明な遊びをしているのです。

新しいチャレンジをしない、、、脳内トリップジャンキー

大いなる存在が自我に完全に取り込まれ日々安定、日々現状維持の生活をし始めますと、、、今を生きているようで実は過去や将来のことをばかりを考える生活に入っていきます。新しいチャレンジをしようとすれば情報を取ったり、新しい行動をするのですがそれをしないということは過去を嘆き、未来を憂う生活に入る可能性が高い、、、この状態は大いなる存在が人間の脳内をトリップし続けるという地味な遊びに興じ続ける生活に入っていくのです。これが悪いわけではありません、そうではなくこれは今(本来)から離れる苦しい遊びです。

体、思考、感情という安定しない存在を自分とする危うさ

自我とは体、思考、感情という不安定な存在を自分とするメカニズム

なぜ人生は苦しいのか?それは自我のメカニズムそのものにヒントが隠されています。自我とはこの体、思考、感情という毎日揺れ動く、不安定な存在を自分とするメカニズムです。朝起きて何一つ自分でコントロールできなものを自分とすることは非常に苦しいモノです、明日の体調、心情、何もかもが未知でありこれほど不安定なモノを自分としていたら将来不安が起こるのは当たり前なのです。メカニズム的に危うさしかありません。ですから人間とは基本不安定、恐怖、不安に牛耳られた生物なのです。思考、感情、体という不安定なものを自分としているわけですから当然です。

不安定だからこそ取り込まれる

若者がサーフィンにどっぷり浸かるのはサーフボードというものに波の上で乗るのが恐ろしく不安定だからです。不安定だからこそ意識をそこに全集中できます。この人間も同じで体、思考、感情という恐ろしく不安定な存在を自分自身であると意識することは全集中しなければできません。だから気づきの意識、大いなる存在はこの「自分」に全集中できるのです。思考が湧くたびに、感情が湧くたびに、体調が悪くなるたびに、、全意識はこの「自分」に取り込まれていくのです、全集中させられます。

自分に全集中すれば全体に無集中

自分に全集中すれば全体には無集中になります。自分はこの自分だけがこの世で自分であるとし、その他を自分以外であると完全なる分離の世界に入り込んでいくのです。サーフィンに没入する若者が他の全部を忘れ去るのと同じです。体、思考、感情が不安定だからこそ「自分」に全集中するのです、全意識が。ですがこの揺れ動く体、思考、感情に全意識が意識を向け続ける状態は居心地が悪いのも事実、常に不安定なものに自身を同一化し続けるのは苦しいモノ、、そこで人間には睡眠という「自分」から離れる時間が必要になるのです。そしてこれだけ不安定な要素全開の自分を生きていくのはしんどいことなので途中からこの「自分」脱却に興味が出てきます。

湧いては消えていく思考が真実を捉えられるわけがない

思考は雲のようなモノ

湧いては消えていく思考はまるで雲のようなモノです。この思考が真実を捉えることなどできません。この思考が全く湧いていないときに真実が現れます。ですからこのブログで散々お伝えしているように思考のメカニズムを理解して思考がない状態を実感していく以外にありません。思考はあくまでも現れては消えていく雲であり真実はこの思考、雲がない空にあります。思考をグルグル回す行為は空に雲がたくさん現れて空を隠している行為であり思考・雲が湧けば湧くほどに空は曇っていきます。真実が隠れていきます。

思考・雲ができることはこれらがない状態が真実・空であることを伝えるだけ

朝から晩まで思考をグルグル回すことは空に雲がガンガンに湧いている状態のこと、、、思考・雲が出現すればするほどに空は曇っていき空が見えなくなっていきます。この状態は居心地が悪く辛くなっていきます。にも関わらずく空が曇れば曇るほどに思考・雲がフル回転することで空は真っ黒に曇っていくわけです。そして真っ黒になって意気消沈し疲れ果てて考えるんを諦めた時にまた空・真実が現れるという皮肉なことが起きます。ですがすっかり思考はそのことを忘れまた一日中考えるという行為を没頭します。思考中毒とはそのようなことです。

どうしたら思考が湧かないで1日を過ごせるかを考える

思考というものが雲ようなモノで出現すればするほどに空を曇らせる、そして曇れば曇るほどに真実の光が遮られ苦しくなることは理解できたと思います。そうなれば答えは簡単、1日を思考抜きでいかに過ごすかだけを考えればいいのです、何かに集中する時人は思考を忘れます、全作業を集中して行うことだけを考えす、集中して行えれば思考は湧いてこなくなるので空が晴れてきます。さらに負の感情が湧いてきた時に思考が自動反応で起きないように観察します。負の感情からの思考自動反応が起こったら直ぐにそれを観察することで思考の湧き出しを止めることができます。すると空は一日中晴れた状態を維持できます。空が晴れている状態を意識的に作れるようになりますとその状態が当たり前になり思考・雲の自動反応に鋭敏になっていきます。

思考は思考に力があると信じ込ませたい

引き寄せの法則の罠

一時期引き寄せの法則というのがスピ界でかなり流行りました。あれは何か?私からすれば思考の悪あがきです、思考にはそれだけの力があるということの証明をしかたかったということです、思考が。実際には思考がこの世界を作り出すというのは間違いではなく価値観がそのままこの世界を作り出します。思考は確かに影響力があり我が人生に影響を与えることに違いはありません。ですが問題は思考でいかに引き寄せたような感覚を得ようとそれで幸福になることはないということです。つまり人間がどれほど富や名声、人気を得ようともそれと幸福とは何も関係がないという点が抜け落ちているのです。

思考には力はある

思考には力があります、それは間違いありません。どのような思考を持つかは今見ている世界を変幻自在に変えていきます、それは事実です。ですがそれと人間の幸福とは何も関係がないという点が重要になってきます。自分というものが得れる幸福は全て一瞬のものであり時間の条件がついて回ります、要は一瞬の快楽を出れないということです。快楽を得るという意味で思考は確かに力はありますがあくまでそのレベルの話なのです。一瞬の快楽というレベルであれば思考は力があると言っていいでしょう。ですが一瞬の快楽など意味がないと思う方にとっては無意味です。

思考を手放すには思考の限界を早く知る

私は就職して思考の限界を痛感しました。社会的ホワイト組織、有名組織に就職が決まり大満足が待っていると思っていたらストレスしかない生活が始まりました。思考が提案していたアイデアは何も信用ができない、、絶望を早い時期で味わったのを覚えています。それからは思考の言うことに全く信用を持てなくなりそこに答えがないことを悟りました。どちらかといえば感情は正直です、感情を信頼する方が苦しみが少ないことを知りました。

「程々の幸せでいい」という思考すら自我の策略

並程度の幸福さえあればいいの罠

自我、思考は平均程度の幸福な生活ができればそれでいいじゃないか、平均以上の年収があるんだからもうこれ以上は求めずに平均的な幸せを謳歌すればいい、、このように一見謙虚なアイデア、メッセージを自分自身に囁きます。ですがこれは自我の策略です、今の生活を続けていく限り自我の存続は安泰なのです。例えあらゆる不満、不平、批判が湧いてきても私は十分平均的な幸せを得ているという思考の呟きで全てを封印していきます。ですがこの囁きの本心は自我存続のみです。

無理やり封印するのではなく、、

無理やり封印すれば負の感情が体内に蓄積されていきます。本心、本音が消化されずにただ隠されていきます。思考でむりくり押し殺した感情は体内に確実に蓄積されエックハルトが言うペインボディー、負の感情蓄積体になっていくのです。この負の感情を無視するのではなく観察していきます、私はこういう感情を持っているんだな、、ここにしっかりと向き合うとともにそこに思考解決を入れないようにしていきます。感情観察に集中するのです。

退屈だ、、、が湧いてきたら

退屈だなーが湧いてきたらしっかりとその感情を観察します。そこで思考を使いごまかすのをしないのです。しっかりと湧いてくる負の感情を観察しそこに集中します。退屈だなーが湧いてきたという事実のみをしっかりと受け入れるのです。思考でこの感情をうやむやにしないのです。思考は直ぐにこの退屈だなーを打ち消そうとしますがそれをさせません。思考に主導権を握られれば自我が肥え太り益々負の感情が湧いてくるようになります。多くの方はこの無理くり消し去られた負の感情が着実に体内に蓄積されていきペインボディーが肥え太っていきます。負の感情の噴出を助長させていくのです。思考でごまかすのではなくしっかりと観察し、、、そこから無心無我に入っていきます。そして主導権を観察する存在、大いなる存在に戻していくのです。

主導権を大いなる存在に戻すと

負の感情が湧いてきた際に思考でごまかすのではなく、、しっかりと観察していきますと観察する存在に自然になれるようになります。観察する存在とは大いなる存在のことです。負の感情から逃げるのではなくそのままそれを受け入れていくことで無心無我に入っていきます。この状態は安堵そのものですから負の感情は自然と無くなりなおかつ思考のフル回転を防ぐことで自我の肥大化を防ぐことができます。さらにこの安堵の感覚を一度でも感じることができるようになると目標達成においてもこのゾーンに自然と入れるようになっていきます。無心無我に入って集中して全作業に当たれるようになるのです。

意識の体体験が動物、意識の体・思考体験が人間

動物と人間では意識の同一化が異なる

意識が体体験をしているのは動物です。意識が思考体験をしているのが人間です。思考体験は人間でしかできません、なぜならば思考は人間にしかないからです。思考の基本は言語です、言語を使いこなす脳を持つのは人間だけです。人間は言語を操ることで思考というものを使いこなすようになりました、これにより意識は思考に同一化したのです。思考が湧くと意識はそこの成り切り思考が見せる世界の中に入り込んでいきます。我々人間が見ている世界は実は思考が作り出しています、その証拠に人間は名前をつけたモノに意識をフォーカスし、名前が付いていなものをフォーカスできません。渋谷駅で知り合いを見つけた時、知り合い以外が見えなくなります。知り合いとは名前がついた存在です。

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることで新しい体験を積むことに成功する

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることでそれに成り切ることに成功しました。人間が見る世界は思考が作り出した分裂した世界でありその中を人間を通じて生きるという体験を積むことに成功します。意識が意識そのものであることでは絶対に味わえない経験をすることに成功したのです。人間が見る世界は実は全員違います、それは思考が違う、そしてモノに対する名前の付け方も違うからです。名前が違うということは見ている世界が違うのです。人間は名前がついたものをよりフォーカスして見るようになっています。

どの思考の世界を生きようとこの世界が苦しいことに変わりはない

人間は一人一人独自の思考を持つので、独自の世界を生きています。誰一人同じ世界を生きていないというのがこの人間の特徴です。全員が違う世界を生きているのですが、全員が生きるのが苦しいという点は共通しています、皮肉にも。なぜならば自分はこの心身、人間であるというこの考え方認識が勘違いだからです。具体的にはどういう勘違いかと言えば大いなる存在、全体がこの心身に同一化しているという勘違いです。広大無辺な全体がこの有限の体、思考を自分自身であると勘違いすればどうなるか??強烈な閉塞感に苛まれることになります。これが人間のスタンダード、地獄、苦しみ、生きずらさ、孤独感の根源です。

「自我=思考」は人を見た目で判断する

人を見た目で判断しレッテルを貼る

自我は人を見た目で判断します。見た目とはこの大いなる一つの衣です。種明かしをすればこの世は全部大いなる存在が描く絵画です。我々の見た目はこの大いなる存在の上に衣を乗せその衣を自分自身と勘違いしたモノです。見た目とは大いなる一つの衣なのですがこの衣を自分自身で在ると全員で勘違いしているのです。ですからこの衣がそうなっているかを衣同士は最重要視するわけです。どこまでこの衣を重要視しても所詮衣は衣ですから衣同士のコミュニケーションにはトラブルが絶えないわけです。

衣を見た目で判断し思考が解釈を加える

人を衣で判断しておいてこの判断から思考がさらに解釈を加えていく、ああいう見た目の人はこうこうに違いないと、、、これはどこまで行っても衣談義、、なんの価値もないのです。究極的にはその衣の奥に大いなる存在が潜んでいてその価値は衣の数十億倍の価値があるわけです、ですからこの衣談議は無意味、遊びの範疇をでないわけです。ですが今日も人間は大いなる存在の衣の優劣で花を咲かせます。TVを見れば生まれつき衣の見栄えが良い人にスタイリストがついてさらに見栄えを良くして出演しています。雑誌を見てもいかに衣をより良く見せるかが興味の9割です。

人間関係は衣関係

人間関係とは衣関係です。どこまで行っても人間は自分も人も衣として扱います。本当は大いなる存在が衣を着て関係を作っているわけですが、、、衣だけを見て関係を築こうとしているのが人間関係なのです。この関係はどこまで行ってもトラブルは絶えず争いも妬み嫉みも絶えないというのが結論です。そしてこの人間関係、衣関係にほとほと疲れ果て、絶望し、無意味さを感じた人間から無我、無心、衣の奥の大いなる存在に興味を持ち始めるというわけです。人間関係とは実は絶望するのが目的です、何という皮肉でしょう。

思考が湧いてくると自我は安心する

なぜならば思考が自我の栄養分だから

自分とはこの思考のことです、大いなる一つがこの思考を自分と勘違いしてこの自分ゲームはスタートしました。ですから思考が湧いていないと自分が居ないことになります。思考が湧いている時だけ自分が居ます、思考が湧いていないと自分が居ないのです。自分がいつもいつも居る人は常に苦しみを味わっています。なぜならばこの自分の存在は大いなる存在という本来の自分ではないからです。本来の自分で1日のほとんどを過ごさない時人は人生を苦しいと感じます。なんとかしてこの自分を味わわないように家族を作ったり趣味を作ったりと常に何かしらの対象を外に作りそこに向き合うことで自分を忘れないように大いなる一つは工夫します。一人で部屋にじっとして居れば延々と思考のループがめぐり人は苦しみの中で過ごすことになるのです。

自分は存在していたい

自分というこの存在は大いなる存在にとって大変重要な存在にはあります。ですがこの自分という状態で居続けるのはとにかく疲れますからあの手この手を使って疲弊しないように工夫します。子供がゲームばかりをやりたがるのはゲーム中は思考が止まり無我になることで楽だからです。子供はゲームという武器を手に入れたらなかなか手放さないのは楽しいというだけではありません、苦しみが湧いてこないからです。ここに既に答えはあるのです。仕事がなぜ苦しいと言えば思考が止まるほどに集中できないからです、面白くないから。ですから思考が止まるほどに集中できる仕事を見つけてしまえばそれで終わり、そこからは無我でずっと居れます。ですがここでも注意点が、自我は思考がない状態で居続けると消滅してしまいますからなんとかして問題を生み出して無我から主導権を奪いにかかるのです。

自分はいいが周囲に問題がある

自分自身は無我に入れることで平和を手に入れることができた。だが周囲はそうでないから問題ばかりを作ってくる、これが第二の試練です。このまま無我の状態のままで居れば自我は消滅してしまいますからなんとかして主導権を奪い返したい、、こうなります。すると簡単な手口が、、、無我に入れない人間を見つけ出して問題化するということです。周囲に無我に入れない人間を探し出し問題視してそこから思考フルスロットルを作るのです。こうして自我は存続を図るということです。

優秀な社長が部下を問題視する

多くの場合社長になれるような人は仕事に集中することで無我に入り込める人です。集中できなければ結果など出ないですから当然これをできます。このまま行ってしまえば自我は消滅します、このため自我は次の手口を考えるのです、「部下に問題がある」このパターンを無理くり作り出すのです。自我は自身の存続のために周囲に問題がある人を無理くり作り出すことでその解決に思考をつかわせるのです。これで自我は延命措置に成功します。自分自身の中に問題がなくなってしまった人には周囲を問題化させて自我は存続を図っていくのです。

イチローはこのパターンに陥った

シアトル・マリナーズ時代のイチローでは活躍後周囲との人間関係がおかしくなっていきました、フロントに対する不満、チームメイトに対する不満を頻繁に話すようになりました。本来であれば自分自身があれだけ活躍できているのだから問題は特にないはず、、自身の存在自体がチームを引っ張っているに違いないからです。ですがそれでは自我は消え去ってしまいます。問題が何もないからです。ここで自我は周囲を問題視することで存続を図るのです、周囲の人間が何もわかっていないという判断を下しそこに注視することで思考フルスロットルを無理くり作り出します。そして周囲は周囲で自我との格闘があり思うようにいくわけがないのでそこから苦しむことができるのです。