意識の体体験が動物、意識の体・思考体験が人間

動物と人間では意識の同一化が異なる

意識が体体験をしているのは動物です。意識が思考体験をしているのが人間です。思考体験は人間でしかできません、なぜならば思考は人間にしかないからです。思考の基本は言語です、言語を使いこなす脳を持つのは人間だけです。人間は言語を操ることで思考というものを使いこなすようになりました、これにより意識は思考に同一化したのです。思考が湧くと意識はそこの成り切り思考が見せる世界の中に入り込んでいきます。我々人間が見ている世界は実は思考が作り出しています、その証拠に人間は名前をつけたモノに意識をフォーカスし、名前が付いていなものをフォーカスできません。渋谷駅で知り合いを見つけた時、知り合い以外が見えなくなります。知り合いとは名前がついた存在です。

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることで新しい体験を積むことに成功する

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることでそれに成り切ることに成功しました。人間が見る世界は思考が作り出した分裂した世界でありその中を人間を通じて生きるという体験を積むことに成功します。意識が意識そのものであることでは絶対に味わえない経験をすることに成功したのです。人間が見る世界は実は全員違います、それは思考が違う、そしてモノに対する名前の付け方も違うからです。名前が違うということは見ている世界が違うのです。人間は名前がついたものをよりフォーカスして見るようになっています。

どの思考の世界を生きようとこの世界が苦しいことに変わりはない

人間は一人一人独自の思考を持つので、独自の世界を生きています。誰一人同じ世界を生きていないというのがこの人間の特徴です。全員が違う世界を生きているのですが、全員が生きるのが苦しいという点は共通しています、皮肉にも。なぜならば自分はこの心身、人間であるというこの考え方認識が勘違いだからです。具体的にはどういう勘違いかと言えば大いなる存在、全体がこの心身に同一化しているという勘違いです。広大無辺な全体がこの有限の体、思考を自分自身であると勘違いすればどうなるか??強烈な閉塞感に苛まれることになります。これが人間のスタンダード、地獄、苦しみ、生きずらさ、孤独感の根源です。

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