思考

マリオのプレイヤーはどこに居る

マリオではプレイヤーは画面の外に居るが、、

スーパマリオゲームにおいてプレイヤーはどこに居るか?TV画面の外にいます。TV画面の近くにファミコンがありそこからコントローラーが伸びそこに人が居る。この人間こそがプレイヤーです。ではこの人間ゲームでは人間をプレイするプレイヤーはどこに居るのか?この視界の外に居るのでしょうか?答えは外には居ないということになります。ではどこか?ここです。今ここに居ます。目の前に広がる、花、テーブル、机、窓、空間、これらを形成するたった一種類のエネルギーこそがプレイヤーです。つまり目の前の全部ということになります。これが神です。

だからこそ人間の中に湧く感情は全部、全体から湧いている

人間ゲームにおけるプレイヤーは今目の前に広がる全部です。この全部が人間を操り、経験させ、感情を湧き出させ、思考を湧き出させます。そしてそれらを自分の中で湧いているという思考も全体から湧いてきます。これによって人間の体(自分)はそれを全て所有するという体験が生まれます。視界に見えるこの全体がプレイヤーですからそこから感情が生まれるのも当然です、思考も生まれます、そしてそれをこの自分が所有するという思考が生まれます。これが人間ゲームのカラクリです。この体が自分であるという思考が固定化していくと、分離感、不足感、居心地の悪さがやはり全体から湧いてきてそれを解消したいという欲求がそこから湧いてきます、これも全体から湧いてきます。ここから人生ストーリ、大冒険が生まれるのです。

神は画面であり、OSであり、ゲーム本体であり、主人公(自分)でありプレイヤーでもある

この人間ゲームでは神がプレイヤーであり、OSであり、ゲーム本体であり、このゲームの主人公(自分)です。そしてその全てが今ここに在ります。それぞれがバラバラに分離してして存在などせずに今ここに全部があります。だから神とは全体、全存在なのです。全ての感情、思考はこの全体、神から生まれ、それを自分のモノとするのも人間扮する全体、神です。神の自作自演、制作総指揮、自分劇場のカラクリです。

ランナーズハイとは?

人間扮する神が、、マラソン中にランナーズハイという状態を経験したします。走っていて全く疲れない状態、気落ちよくもあり、恍惚感が湧く状態。これは人間が走り続けている過程でこれが自分であるという思考(全体からの)が湧かなくなることで自分という存在を忘れてしまった人間の状態です。つまり全体、神が走っている状態なのです、この状態はだからこそ歓喜、安堵、平和そのものなのです。歓喜、安堵、平和を感じるランナーが居ない状態です。

本を読んだだけでは究極の気づきは起きない

悟りの本を一冊読んだら全部分かってしまった、、、はない

本を一冊たまたま読んだぐらいで究極の気づきが起きないのは、、、そんなことが簡単に起きるならばこの人間ゲームを作った意味がないからです。書籍一冊で用が済むならば大自然も、世界中の事件も、世界中の人間も、多種多様な動物も全部必要ない、、、こうなります。なぜ自分を取り巻く環境には多様性があり、夜空が広がり、空には星まで見えるのか?気づきの意識がこの体を使ってあらゆる体験を積み、感情を湧き出し、思考を湧き出し、、独自の気づきを作りたいからです。たった一つの真実がありそれを知れば究極の気づきが起きるならばたった一人それを経験する人間がいれば済みます。なぜこれほどまでに多くの人間が存在するのか?それはそれだけの各種気づきを気づきの意識が求めるからに他なりません。

100人いれば100人のマリオ体験がある

100人がスーパーマリオをプレイしますと100人の全く異なったマリオ体験があります。100人の人間がいれば100人の全く異なった気づき体験があるのです、100種類の歴史、固定観念、気づきがあります。これを気づきの意識は気づきたい。気づきの意識は気づきの意識のままでは何も経験できない。気づきの意識がたった一個の気づき体験を欲するわけがないということです。

上手くいかないを経験しなければ上手くいくを経験できない

上手くいった経験をするためにはその前に上手くいかなかった経験が必要になります。これを生み出すために人間は無知無能で生まれました。全知全能の神、気づきの意識が無知無能の人間(自分)を誕生させることで上手くいかない経験、上手くいく経験を作り出していきます。下手を経験し上手いを経験します。最低を経験し最高を経験します。そしてそこにはあらゆる感情、思考が湧き出しそれを自分のモノにしていきます。自分とは気づきの意識から湧き出る感情、思考を全て自分のモノにしていく自分所有体験です。感情・思考・経験・自分所有体験記ということになります。その体験があまりにもオリジナリティー溢れるからこそそこからの気づきもオリジナルなのです。

友人からの裏切り、この時自分の中に何が?

自分の中で起こったことを精査する

例えば友人から裏切られたとしましょう。例えば彼氏を寝取られたと、、、この時自分の中からどのような感情が湧いてくるか、、、、前から怪しいと思っていた、彼氏を奪うとは本当にゲスな人だ、、幼少期に何か不幸があったのでは?これが一度では無いはず、、あの髪型も服装も全部男を誘惑するためのものだ、、逆に友人の彼氏を狙ってやろう、、、、まあこんな感じであらゆる思考、感情が湯水のように湧いてくるでしょう。この全てを自分は自分の体から湧いてきたと勘違いします。この思考、感情はこの体無くしては絶対に湧いてこない、だからこれらの思考、感情は私のモノだ。誰がこれを疑うことができるか?ということです。ですが実際は違います、これら全ては気づきの意識、全体から湧いてきています。それをあなたの体がキャッチしただけです。そしてさも自分がこの感情、思考は湧き出したのだと勘違いします。そしてそれを脳に記憶させます。

思考と感情をテーブルに出してください

もしも思考と感情が本当にあなたのモノならばそれを今すぐにこのテーブルの上に出してみてください。当然出ません、、、思考も感情もテーブルの上に載せれるような物質ではないからです。あえて言えばエネルギーです、そのエネルギーは体の中に物質として蓄積されるわけでもなくただ脳に記憶されます。このエネルギーを作り出したのは自分自身だというこの錯覚がこの人生劇場、自分劇場をエキサイティングなモノにします。ですが実際はこの思考、感情は気づきの意識、全体からただ湧いたのであってそれを自分が所有したと錯覚しただけです。

この自分ゲームをすると、、、

このメカニズムを理解することができても、、、これからも当然あらゆる感情、思考は湧いてきます。ですが一旦この事実を腹落ちすることができれば湧いてきた感情を自分のモノにするというコレがなくなります。この体(自分)と湧いてくる感情、思考を切り離すことができます。そしてこれからもこの体を使って活動すればまたあらゆる思考、感情が湧いてきます、ですがそれは自分のモノではありません。ただ気づきの思考、全体から湧いてきただけです。マリオのプレイ中に湧いてくるあらゆるプレイヤーの感情とマリオが一切関係ないように、実はこの体と湧いてくる思考、感情は何も関係がないのです。

全体験、全感情、全思考を自分のものにしていくマリオは固定観念が形成される

マリオの固定観念

マリオはゲームをスタートしてあらゆる敵キャラに出会います。ノコノコ、パタパタ、メット、ゲッソー、、、などなど、、、これらの敵と対戦していくことでマリオは独自の経験、湧いてくる感情、湧いてくる思考を自分のモノとして取り入れていきます。脳にある記憶機能でそれらを積み上げていくのです。ノコノコは軽い相手だかが階段で出会うと厄介、パタパタは上から降りてくる時が危険、ゲッソーさえいなければあの時クリアできたのに、、、とゲーム中の経験、感情、思考を全部まとめていきます。これが重なり合って一つの固定観念が形成されていきます。

人間の固定観念

人間の固定観念も全く同じ原理で形成されます。出会う人々によって様々な経験を積みそれを自分のモノにする、出会う人々によって経験がありそこからあらゆる感情が湧いてくる、そしてそれを自分のモノとする。出会う人々によってあらゆる思考が湧いてくる、そしてそれを自分のモノにする。経験、感情、思考の全てを自分のモノとする。これによって自身の固定観念、価値観が形成されます。この固定観念、価値観はそれゆえ人によって全く異なります。価値観が全く異なる人同士がコミュニケーションをするわけですから当然理解できない部分が発生します。

全く異なった固定観念によるトラブル

人間とは固定観念を所有する動物です。人間とは自身の経験、感情、思考を全て自分のモノとして蓄積していく動物です。それによって固定観念が形成されます。この固定観念はそれゆえ人によって全くことなるのです。この全く異なった固定観念を所有した者同士がコミュニケーションをとるわけですから常に分かり合えない部分が発生しそこがトラブルになります。世の中から人間関係のトラブルが決してなくならない理由とはここです。

固定観念自体が錯覚

話を最初に戻しますと、、、人間が独自に所有する経験、感情、思考、、、これらは実は人間のモノではありません。人間が何かしらの行動を起こすと経験、感情、思考が発生しますがこれらの全てはただ湧いてくるのであって決して人間のモノではないのです。マリオが動いた時の経験、湧いてくる思考、湧いてくる感情はプレイヤーから湧いたモノです。これをマリオが自分のモノと勘違います。人間も全く同じで動くと湧いてくる感情、思考は気づきの意識、全体、神から湧いたモノです。これを自分のモノとすることから錯覚が生まれ、固定観念が生まれるのです。固定観念とは大いなる勘違いから発生しています。固定観念の相違によるトラブルとは大いなる勘違い同士のトラブルでありだからこそ解決が難しいのです。

神はこの人間活動の経験の全てを回収する

自分が経験している全ては神が回収する

この体を自分とするならば、、、この自分が経験する全ては神が回収します。マリオの経験の全てを人間が回収するようにマリオの全経験を人間が回収します。これは神と人間の関係も同じで人間が経験する全てを今神が回収します。喜怒哀楽、寒い暑い、怖い楽しい、最高、最悪、、全感情、全体験、全五感を神は回収します。外で鳥の声がする、、、声を回収するのは人間であり神です。神は鳥の声を人間の聴覚を通じて回収し、さらに声そのものから回収します。マリオをプレイするプレイヤーはスターの効果音をマリオの聴覚、スピーカー同時に回収します。

朝から晩まで頭の中で思考がぐるぐる、、

朝から晩まで考え事を自分がしている、、、、その全てを神が回収します。朝から晩まで苦しみ悩み、鬱積する感情の全てを神が回収します。もしも神が回収できない人間の経験があるならば、、神は神でなくなります。神は全経験を回収するから神なのです。全体なのです、ワンネスなのです。マリオがピーチ姫を救うために大冒険をすることができるのは記憶力があるからです、もしもマリオに記憶がなければ当初の目標であるピーチ姫を救うことを忘れます、すると冒険をしようという気持ちもなくなります。大冒険が破綻します。人間も記憶という機能があるゆえに今日起きると昨日の続きを行うことができます、だから人間は自分劇場、ドラマを生きることができるのです。この劇場経験、ドラマ経験こそが神が人間を誕生させた理由です。動物にはドラマがありません。

マリオの大冒険は動物ではできない

マリオが未知の世界に冒険をできるのはマリオの記憶力ゆえです。一般の動物は未知の世界に進むことを怖がりますし、冒険をしていたことなど寝ると忘れます。ところがマリオは記憶力がしっかりしているので冒険を辞めることをしません。この経験はマリオだけのものです。人間もこれと同じ、人間には記憶力があるために自分の存在、昨日までの経験の全てを覚えています、だからこそ今日また人生を続けることができるのです。これを神は大歓迎するのです。人間の未知への大冒険は神の大好物です。

いつから人間は自身の死を深刻に受け止めるようになったのか?

マリオの死を深刻に受け止める人はいない

スーパーマリオをやっていてマリオの死を深刻に受け止める人はいません、ですがこの体、この人間の体の死に関しては恐ろしく恐れます。それだけこのゲームにマリオとして没入している証拠です。もしも没入してなければこれほどまでに死を恐れることはないでしょう。それはそのはず、このゲームは神が作ったゲームですから超絶リアリティー、五感も半端なく鋭敏で、思考や感情も恐ろしくリアリティーがあります。ですからこのゲームに登場する人間はその五感で感じる経験、感情、思考を全部自分のものにすることができるのです。

もしもスーパーマリオがこの現実社会よりもリアリティーに溢れてたら、、、

もしもスーパーマリオというゲームが、人間の目を覆うゴーグル型になり、、圧倒的なリアリティーを再現できたならば人間は恐らくゲームばかりをやるでしょう。この現実よりもリアリティーに満ちさらに楽しかったらなおさらです。そのゲームの中でマリオが何かを達成すればマリオとして喜び、もしもマリオが失敗すればマリオとして悲しむことができます。もしもクッパに攻撃されればマリオとして腹が立ちます。もうその時には自身が人間だったことは忘れているはずです。これが今気づきの意識に起こっています。自分をこの体であるという大錯覚が起こり、全体験を人間として所有しているのです。

それでもマリオに愛着があるのはこのゲームは素晴らしいから

マリオが居なかったらスーパーマリオをプレイすることはできません。マリオ無くしてスーパーマリオなしです。この人間劇場も同じ、私無くしてこの自分劇場は成立しないのです。私無くしてこの人間ゲームは成立しません、ということで気づきの意識、全体はこの私に愛着を持っています。この私を無下にすることは断じてありません。もしも私にとって最悪最低の事件が起こったとしてもそれも気づきの意識が起こしています。その経験を愛しているのです。

マリオからゲームそのものへの視点の転換

自分はマリオだ、からの脱却

これは視点の転換です、自身をマリオとするか、ゲームそのものとするかの転換です。今まではゲームの中での効果音はマリオが聴いていました、ですが今はゲーム全体として聴いています。今まではマリオがクッパに出会いました、ですがこれからはクッパの登場をゲームが認識します。今までは失敗が続くとマリオが落ち込みました、ですがこれからはゲームがマリオの失敗を認識します。今まではマリオがピーチ姫を救い歓喜に沸きました、これからは歓喜をゲームが認識します。音楽、感情、キャラの登場をゲームとして認識します。スーパーマリオをしているプレイヤーは皆これをしています、違いがあるとすればプレイヤーは個別に存在せずゲーム本体がマリオを動かし様々なドラマが起こっています。

これまでは個人の行動の結果を個人が所有してきた

人間のほとんどは起こる事件の全部を個人が所有します、感情が湧けばそれを自分の感情と認識し、思考が湧けばそれも自分の思考と認識します。何かが目に入れば自分が見たと判断します、ですが実際はこの体を通じて気づきの意識が見ています。何かが聞こえれば個人がそれを聴いたと判断しますが体を通じて気づきの意識が認識しています。個人の人間が感じる全ては気づきの意識が認識しています。これを全部個人が所有してきたと誤解し続けただけです。マリオが体験した全てをマリオが所有してきたと誤解するのと全く同じです。本当はマリオは何も経験していません、プレイヤーが経験しています。

子供の頃はみんな全部の経験をゲームレベルで感じていた

子供の頃はみんな自身の経験をゲームぐらいに感じていました、自分を経験する経験者という概念すら無かったはずです。その証拠に昨日喧嘩したお友達との争った原因など次の日になればすっかり忘れていたはずです。喧嘩は起こったかもしれませんが次の日には何も無かったかのようにそのお友達と遊びます。経験を個人が所有していないのです、そして個人という概念も薄いのです。これって自分をマリオだという思い込みが薄い状態でゲームをしている感覚です。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。