思考

思考の否定

宗教改変

これまでキリストを信じてきた人に明日からは仏教徒になってください、、と言ったら自害する人もいるでしょう。会社に全身全霊を注いできた人に、、明日から来なくていい、、突然首を言い放てば、、、その人は自殺すら考えるかもしれません。人間とはその人の信じること(思考)を自分自身と同一視するのです。ですから信念の否定は自身の否定です。信念が突然崩れ去れば、、自分が突然崩れ去るのです。

では何が「自分=信念」を支えてきたのか???

「自分=信念」を支えてきたのは誰でしょうか?????それは自分ですよ!!!!自分が信念を自分そのものと思っていたのならば、、信念がそこから崩れ落ちても自分は残りますよね!!!だったら、、自害しようなど思うわけないじゃないんですか????自分はしっかると残るのだから。そうなると自分が信念を抱えていたのではなく、、信念を自分と捉える思考がそもそもあってそれが崩れたのです。「信念がなくなる=自分がなくなる」という思考が芽生え、同時に恐ろしい喪失感が生まれ、、自殺に至るのです。

自分が居ないからこうなる

信念が朽ち果てようと、、思考が朽ち果てようと、、「自分」という存在が実在しているならば、、全く傷つくわけがないのですが、、、そもそも自分というものがないので、、信念が崩れ去った時にとんでもない感情が湧いたのです。自分が居ないことは誰かが知っています、、本当は居ないことは「自分」の奥の何かが分かっています。だからこそ「自分=〇〇」という思考で囲いその真実から目を逸らしていたのです。

私は頭が良い

頭の良さをアイデンティティにしている人は、、頭の良さを否定されると烈火のごとく怒るでしょう。美貌を自身のアイデンティティにしている人は美貌を否定されたら烈火のごとく怒るでしょう。キャリアを自身のアイデンティティにしている人はキャリアを否定されると怒ります。本当は自分なぞ存在しないからこそ社会的に評価される「何か」を組み合わせ「自分は居る」強く錯覚したいのです。だからそれを否定されちゃうと自分が居なくなってしまうのです。

思考と感情を無視する

「個人」とは思考感情発生機

個人が何かをやらなくてはならい時「思考感情」が大発生します。なぜか????個人としての何かをするということが既に苦痛を生み出すからです。個人というのは苦痛発生できであり、、だからこそその個人が何かをやらなくてはならいということこそが実はストレスなのです。ですから個人が何かをしなくてはならない時の思考感情は本当の苦しみとは種類が異なるため相手にしなくていいのです。

本当の苦しみは「個人」こそが作る

本当の苦しみは、、個人の活動ではなく、、、、個人という概念、感覚こそが作り出しています。ですからここといつ折り合いを付けるかが重要になります。個人とは何か???私とは誰か????という疑問に向き合うことこそが最重要になります。それをしないで、、活動のストレスを快楽で一時的に解消し続ければ、、本当のストレス解消には絶対に辿り着けないわけです。

便宜上作り出した「自我」を

生きていくために便宜上作り出した「私」というアイデアがまさかの真実であるかのように感覚としてこの体に染まり切り、、なぜ今苦しいかさえ分からずに陥っているのが世の中の「大人」です。無意識の自我の染色、無意識の自我の潜伏をもう一度、、有意識に戻します。自我という存在を意識的に意識するのです。自我を意識的に意識するのは意識「本当の自分」ですから、、ようやくここで「本当の安堵、本当の安らぎ、本当の平和」が訪れるのです。その時人は、、救われます。一筋の光を見るのです。

エゴ(自我)の研究とは???

これはウイルス対策

ウイルス対策ソフトは、、ウイルスのプリグラムパターンを予測し、、それに反応するようになっています。予めウイルスのパターンをPCにインストールしておいてそのパターンが起動した時その時点でそれに反応します。PCがウイルスに対し自動反応を起こさないように予め予測したソフトこそがウイルス対策ソフトなのです。悟りとはエゴのパターン、自我のパターンを予め学びこれを自動増殖させないためのことです。

エックハルトトールは自我(ウイルス)の動きを見破った

エックハルトトールは書籍の中で再三に渡ってエゴの動きを解説します、、、なぜか????PC(全体)にエゴの動きを学習させエゴの自動増殖を防ぐことを覚えさせているのです。ウイルス(エゴ)は動きを予測されてしまうと自動活動がやりにくわけです。水面下(無意識)に動きを強化し気づいたら染まっていたという状態が安定状態です。一方エックハルトトールはその動きを再三に渡って詳しく説明し要所要所でPC(全体)にこれを気づかせる仕組みを作ったのです。

全てが繋がる

悟りとは覚醒とは解放とは、、この仕組みを完全に理解してしまうことです。プログラム(思考)の異常増殖阻止、PCと言語の関係、ウイルス対策とは????完全に完全にこの仕組みを理解できますと、、、勝手に思考(プログラム)が立ち上がり、、イメージの世界から出れない、、、なんてことはないですよね????とはいえこれを理解してしまったら、、もう思考の世界、偽りの自我(洗脳プログラム)が幅を利かせることができなくなりますから、、そう簡単ではないのです。

映画「マトリックス」のプログラムコード

あれが思考

映画間トリックスのポスター、主演のキアヌリーブスの周りに緑色のプログラムコードが描かれています。あれが言語、思考です。我々の本質はPC本体です、その中にプログラムコードが流れますとPCがそれを読み取りイメージ化します。我々の思考も湧き上がりそれを全体が読み込みイメージ化するのです。朝起きると「この体この思考この感情が私」というプログラムが起動し偽りの自分がイメージ化されます。と同時に体に反応し「憤り」を感じます。苦しい、、「だけど会社行かなきゃ!!!」が思考として湧くのです。そして「生きていくには働かないとダメなんだ、私が」という思考(プログラム)が湧き上がりそれがイメージ化されます。そして同時に憤りが湧きます。

プログラム(思考)の連鎖

「今から仕事行かなきゃ!」というプログラム(思考)が湧き上がりますと、、同時にそれは体に反応し(面倒くさい!)プログラムが湧き上がります。すると「それでも行かないと生きていけない」という思考(プログラム)が湧き出しそれと同時に「憤り」というプログラム(感情)が湧く。会社辞めちゃおうかな????という思考(プログラム)が湧き出しまた「憤り」(感情)が湧き出す、、、これをエンドレスにやるのです。プログラムがエンドレスに起こり続けている状態です。

起こっていること

起こっていることは実は超シンプルでPC内で湧き上がるプログラムに対しさらなるプログラムが起こり続けているだけ。PCがプログラムを読み込むことでイメージ化されそれを読み込んだ時点で反応(プログラム)が起きそれがイメージ化されてまたプログラムが起きます。これしか起きていません。これが今ここで起きています、それえがこの世界です。

重要なこと

PCとプログラムがあり、、、、いまここと思考があります。ここに時間は存在しますか???空間は存在しますか???ないですね。そうです「私」という存在も登場しません。PCとプログラム、いまここと思考しかないのです。覚者は言います「何もない」と。「私は悟りこれだけがあった」「ストリーが突然落ち平安だけが残った」なんとなく分かりました????プログラム(思考)が全く起きなくなった時PC(平安)だけがあったのです。

体、思考、感情を私とする

私とは誰ですか???体、思考、感情です

「あなたって誰ですか????」「私はこの体であり、この思考であり、この感情のことです」これが今の西洋文明の一般的な答えでしょう。この回答、この回答をした時に我々は同時に憤りを感じています。ワクワクしないんです、平安が湧いてこないんです、歓喜が湧いてこないんです、目がドライになるんです。なぜですか????真実ではないからです。この思考に対し体(今)が反応してるんです。

私とは誰ですか???この全てです、経験を生み出す全てです。

私とは誰ですか???私とは今この瞬間に起こる経験の全てです。この体、この思考、この感情のことではなく、、この体、思考、感情を生み出す大元でありそれに気づく大元であり、「五感」と呼ばれるものが指す経験の全てを作り出す存在です。この回答を聞いた時にスッとしませんか???この思考に対し体が反応してるんです。

中学生ぐらいから

中学校に通う頃になると子供たちがどんより重くなっていきます、笑いが乾いてきます、会話が乾いてきます、なんとなく大人の冷めた感じに近づいてきます。目が死んでくるんです、目から輝きが無くなってくるんです。それがこの「体、思考、感情こそが自分」の落とし込みです。これを真剣に一生懸命に信じるようになるんです、、、それと同時に憤りを感じるようになります。なんか重い、、が起きるんです。

見た目を異常に気にする人の心理

見た目=自分自身

「この体この思考が自分」という思考を真実だと勘違いしている人は、、、見た目を異常に気にする、、という可能性が高くなります。この体=自分自身ですから、、この体の評価=自分自身の評価です。つまり見た目を異常に気にすることが起きるのです。そして見た目を否定されるということは同時に自分自身の存在そのものを否定されることになり生きていけない、、となります。年齢を重ね自身の見た目に自信が無くなってくると途端に老け込む、、という場合もあるでしょう。

見た目の誹謗中傷、賛否が異常に多い理由

SNSでは可愛い!!キュート!!神!!!と見た目への評価が異常に多いのはなぜか????皆この体を自分自身と定義しているので、、そこを評価したくなるし評価されたくなるのです。SNSで自身の写真が評価を受けると自分自身の自己評価が上がり、、酷評されれば死にたくなるほどに自己嫌悪に陥るのです。「この体が自分」という間違った固定観念がそうさせるのです。

大いなる存在=自分自身

大いなる存在=自分自身とアイデンティティのシフトに成功した場合、、、もう見た目の評価で一喜一憂することがなくなります。見た目の否定=自分自身の否定にはならないからです。見た目は大いなる存在の表現の一部になります、その時評価は遊びの一つになるのです。小さい子供が見た目を気にしないのは「この体が自分自身」という概念が強化されていないからです。大いなる存在の表現としてまだそこに居るのです。

思考の否定は「偽りの自分」の否定

絶対に負けられない戦い

人と議論をする際に、、、負け戦になりそうになると瞬時に逃げ出してしまうか怒り出してしまうか、、とにかく冷静な話し合いになれない人っています。こちらはただ議論を重ねて整理したいだけにも関わらずこのまま行くと自分の意見が否定されることになるという雰囲気を感じた途端に怒りだすか逃げ出すのです。結局重要な部分を話し合えないがために問題が解決しない方向に行くのです。なぜ、、、話の内容、意見を否定されることを極端に恐れる人が存在するのでしょうか????

思考=自分自身

「この体この思考が自分」という固定観念を持っていますと、、意見を否定される=自分自身を否定されるになります。自分自身の存在そのものを否定されることになることから、、負け戦には参加しないとなるのです。自分自身の存在(意見)を否定されるぐらいならば、、この場からは撤退させて頂きます、、です。意見を否定されると生きていく自信すらなくなる、、当然です、その人の全て(思考)を否定されてしまったら何を頼りに生きていけばいいのか???です。

偽りのアイデンティティ(思考)の過剰防衛

「この体この思考が自分」これが真実ならば、、、議論で負けたぐらいでは自分の存在はビクリともしない、崩壊しないはずなんですね!!ところがなぜ過剰防衛をしなくてはならないかと言えば、、それがフェイクだからです。フェイクだからこそ思考を否定されてしまうと存続できないのです。偽りの自分(体と思考)を維持していくためには「私=思考」を否定されてしまっては困るのです。急所をナイフで刺される前に怒り出して撤退するかそのまま撤退すかになるのです。

本当のアイデンティティに居る場合

「この体この思考が自分」という概念から脱出できて、、大いなる存在こそが自分という境地にいる場合、、この体この思考が否定されても全くダメージがないということになります。なぜならばそれは大いなる存在(真の自分)から湧き出た現象でしかなく全体の一部でしかないからです。そこ(体と思考)にアイデンティティがないからこそどれほど攻撃を受けても傷つくことができないのです。

疑問が消えるその瞬間まで

疑問が一つ残らず終わるその瞬間

子供が迷子になり必死に探す母親、、、母親の中には様々な疑問が起こり続けます。「あそこにいるかな???」「あれ、、もしかしたらエレベーターに乗ったのかも???」「もしかしたら勝手に帰っちゃった????」そして30分後、、駅員に発見されて再開。。その瞬間思考が止まる、、よかった、、安堵。。。。疑問とは答えに遭遇すると止まるんです。疑問が起きようがないんです。

私って本当は誰だ?????

人類全員に起こっている疑問「本当の私って誰????」です。この疑問が実は常に湧き上がっているんです、、、そしてこれに答えてくれる人もいないんです。だから常に憤りを感じているんです、、実は感じているんです、、この憤りを。「この体と思考があなたよ!!!!」これを一万回聞かされても憤りが晴れないんです。

では答えましょう

本当の私とは、、この憤り、この疑問を湧き起こす存在です、そしてその疑問そのもの、その感情すのものです。全ての現象を起こすスペース、スクリーン、空間であり、、、同時にその現象の全てに気づく存在です。さらにその現象そのものです。ここ以外では何も起きていなくここが全てです。起きる現象の全て、それに気づ口全てです。その中に「この体この思考が私」という思考がやはりこの「本当の私」から起こり、、それに気づくがおきました。「この体この思考が私」という思考が湧く度に起こる「本当の私は誰???」が憤りという感情を起こしその解決のためにさらなる「私はどうしようか???」が起こるのです、、これが偽りに自分劇場です。

そして疑問が消える

「この体この思考が私」がもう湧いてこなくなりますと、、「本当は誰???」も湧いてこないため、、それを解消するための「私は何をしたらいいの????」も湧いてこなくなります。疑問の連鎖が終わるのです。疑問がもう湧いてこない、、、これが悟りです、覚醒です、解放です。夢から覚めた後に、、、夢から覚めただろうか????は湧いてこないんです!!!

真実を知るだけで思考が湧かなくなる

分からないから思考の連打が始まる

なぜ????苦しいんだ??なぜストレスが溜まるのか????考えても考えて思考が止まらないのは?????本質は至福を求めてうるからです。至福生まれ至福育ちの本質は、、そこをしっかりと覚えています。幼少期の至福に包まれた感覚これをしっかりと覚えています本質が。その本質の中にこの私(体と思考)が突如誕生し、、急に雲行きが怪しくなってきました。なんだか知らないがストレスが溜まる????

イヤだイヤだ病

おもちゃをあげても直ぐに捨ててしまう、、全部イヤだイヤだ、、、が始まる。。子供のこんな光景みたことありますよね????お母さんもどうしていいか分からない。。。。至福しかしらない本質に自我が芽生えていくことで、、同時に憤りを感じるようになるのです。自我とは思考です「この体この思考は自分」という思考です。この思考が湧き上がるたびに、、それは体に反応し「憤り」を感じるようになっているのです。星飛雄馬の強制ギブス、、これが自我です。

本当は誰だ????

このドラマ、この映画をみているのは本当の私なんです。本当の私が今このドラマを見ているんですから、、「本当は誰なんだ????」という疑問は常に実は起き続けています。ですがそれが深い深い場所で起きているから気づかない、、だから憤りだけが起こり続け、、その憤りがあらゆる感情に変容しているのです。幼児のイヤだイヤだ病、中学生の反抗期、高校時代の酒、タバコ、大学時代のギャンブル中毒、、などなど。

「この体この思考が私」という偽情報を信じる本当の私

世界80億人が「この体この思考が私」という思考を信じていようと、、この夢を見ているのは本当の私ですから、、、「本当の私は誰だ???」は常に常に起こるのです。本当の私は「この体この思考が私」になる前の感覚をしっかり覚えていますから、これがフェイクなのは分かっているんです。だから思考が湧き出し湧き出し次のアクションを求めるのです。

本当の私とは???

本当の私とは「この体、この思考が私」という偽情報が起こるスペース、スクリーンです。そしてその偽情報に気づく存在です。そしてこの体、この思考を起こす場所です。そしてこの体、この思考以外の現象の全てを起こす場所です、そしてそれに気づく存在です。この大いなる存在の中で私劇場が起きているだけなのです。「この事実を理解する」が起きた時に、、思考の荒波が止まります。「憤り」が消えるのです。

私とは本当は誰だ????という憤り

中学生ぐらいになると

中学生ぐらいになると、、、どうやら大人になると、、社会人にならないといけないようだ、、、どうやらどこかに勤めていかないといけないようだ、、とこの自分を社会にぶち込んで社会に順応させ生きていかなくてはならないことを悟ります。ですが同時にこの「自分」とやらが本当に自分なのか????という奥深くに憤りを感じています・両親から周囲の大人から「この体この思考が自分」と学びはしたが、、、なんかしっくりこないモヤモヤが残るのです。

憤る

このモヤモヤに対し正しく教えてくれそうな大人皆無であり、お坊さんはなにやら死生観について語ってそうではあるが近付き難い、、、新興宗教も近寄り難い、、とこのモヤモヤを抑えて生きていくことになるのです。このモヤモヤは憤りになり、、、、あらゆる感情にシフトしていきます。学生時代から暴力映画、暴力漫画、攻撃的な音楽などに興味を持つのは根本にこの憤りがあるのは間違いないでしょう。

従順にならざるをえない

とはいえ大人に順応していかんければどうやら生きていくのは難しそうだと、、、悟り、、憤りをなんとか誤魔化しながら生きていくことになります。ですがエックハルトトールのようにその感情はどんどん増えていき、増殖しコントロール不能な状態にまでなることもあるのです。それが鬱や体調不良、アレルギー症状、アルコール中毒、、、などなどでしょう。

私とはこの体、この思考ではない

表面上、社会でこの体この思考を生き伸ばせるようになったのならば、、、もう「この体この思考が自分」という思考を信じるということを辞めてしまっていいのです。本当の自分は誰だ???に真剣に向き合う時です。「この体、この思考が自分」ではないのならば「今在る」という感覚は一体何なんだ????となります。答えを言ってしまえばまさにその「今在る」という感覚こそが自分自身であり、、それがこの体、この思考に気づいているのです。そして周囲の現象の全てにこの「今在る」は気づき続けます。つまりはこの現象の全てに気づく存在こそが自分であり、、この現象の全ても自分です。「この体この思考が自分」は間違いであり、、全部含めて自分なのです。