マリオ

朝起きた時に過去の記憶が蘇り、我々は夢に戻る

我々は記憶の中、夢の中で生きている

マリオがなぜ毎回大冒険を継続できるか?それは記憶があるからです、毎回よし今日もクリアー目指して楽しむぞ、、と記憶に支えられた目標が蘇るからです。我々人間も全く同じ、朝起きると自分の名前、職場、環境、兄弟関係、友人関係、配偶者、、、、全部が蘇ります。これによって今日も仕事に行こう、、となるのです。記憶に完璧に支えられた生活です。もしもこの記憶がなければ、、まずこの身体の中に自分が居るという設定が外れます、職場も友人も何もかもゼロです。この身体の中に自分が居ると思えないので、、、ただ経験だけがあります。全経験を自分がやったという認識がありません。マリオに成り切るプレイヤーがいなくなるように、人間に成り切る存在がいなくなります。経験する個人が抜け落ち、ただ経験だけがあるという状態になります。

記憶によって毎日自分劇場に戻される

朝記憶が完璧に抜け落ちていれば、、、自分という存在を忘れています、ただ動く体が目の前にあるだけです。自分の手柄、自分の名誉、自分のお金、、、そんなものは存在しません。自分とは記憶によって成り立って居るからです。ただ動く体があり経験だけがあります。昨日も明日もありません、ただ今目の前の景色が変わるのみ、これが真実です。人間はこの体に名前を付け、身体の中に自分という確固とした存在しているという暗黙のルールを設定しました。これによって自分が今日も職場に行くということが起きるのです。

記憶に支えられた自分が完成すると、、、

記憶に支えられた自分が完成しますと、全体の中に全体とは完全に分離した別物体ができることになります。本当は分離できませんが、、、完璧に分離しているという勘違いが完成します。プレイヤーがマリオに成り切るように、全体が人間に成り切るのです。プレイヤーがマリオに成り切るということはあの小さい画面に閉じ込められるということ、突然戦うしか能がなくなるのです。何もしなければ退屈至極です、結果動き出すということになります。全知全能の全体が無知無能の人間に成り切ります、何もしなければ退屈至極です。結果人間は全体によって活動を余儀なくされます。

自由意志の存在場所

自由意志はマリオにも体にもない

スーパーマリオをやっていてマリオに自由意志があると思っている人は皆無です。なぜならばマリオはプレイヤーの思い通りに動かされる存在だからです。ですがもしもプレイヤーの自由意思がマリオの中で同時に変換され起こり、その自由意志をマリオの中で起こったという思考がマリオの中で起こったら事態は変わってきます。自由意志を持っていると勘違いするマリオが誕生します。このパターンがこのリアリティーで起こるとどうなるか?マリオではなくこの存在こそが人間、自分です。

マリオに自由意志がないのは明白だが、、、

この体は湧き上がる自由意志を所有するという思考が湧き上がる存在です。ややこしいですね。全体、気づきの存在、ワンネスから湧き上がる意志をこの体が所有するという思考が同時に湧き上がり、人間=自分=自由意志という方程式が成立します。自分には自由意志がありますからこの人生を自分で切り開くという感覚が湧き上がってきます。これでもう自分劇場、人間ゲームは完璧にエキサイティングになっていくわけです。自由意志を所有していると勘違いするマリオがゲームに没入するように、自由意志を所有したと勘違いする自分、この体はこの人生に没入していきます。

自由意志はない、、、は人間関係をシンプルにする

なぜ人は人を責めるのか?それはその人の中にある自由意志が誤ったと判断した時に責めるということが成り立つからです。その体に自由意志があると信じるからこそなぜそのような判断をしたのか?と問い詰めます。ですが実際にはその体の中に自由意志は存在しません、そうなると相手を責めるというのが無意味に感じます。なぜそのような行動を取ったのか?この質問は全て相手の身体の中に自由意志があるという前提で成り立ちます。もしもこれがないのならば対応は変わってくるはずです。

我が人生に悔いなし

我が人生は本当は無い

我が人生に悔いなし、、、自分劇場、人間ゲームとしては最高の言葉です。ですがこの我が人生、、実はありません。マリオの人生も、この体の人生も実は存在しない、なぜならばマリオにも、この体にも自由意志は存在しないからです。自由意志は存在します、ですがマリオ、この体の中はその自由意志を所有しません。所有するのはマリオであればプレイヤーであり、この体であれば神、全体、気づきの意識です。いやそんなことはない、、今も自由意思がこの体の中で起こっている、、、それは違います。その自由意志は全体、神、気づきの意識から起こっていてそれをこの体の中で起こったという思考が同時に湧いているのです。マリオの中でどんなに自由意志が湧いていると認識が起きても自由意志を発動しているのはプレイヤーです。

自由意志が発動していると錯覚し続ける各身体

自由意志は確実にあります、そしてその自由意志は全体から湧き続けています。そしてそれをこの体の中で起こってるという思考も湧き続けます。これがこの体のカラクリです。この体はこうして自由意志を所有し続けるという認識を維持し続けます。最終的には「我が人生に悔いなし、、、」という名言が生まれる始末です。マリオの人生が錯覚のように我が人生も錯覚です、、、マリオには実は時間が存在しません、そしてこの体にも時間は存在しないのです。だから人生はありようがないのです。

我が人生にはだいたい悔いがある

我が人生は本当は無いのですが、、、、もしも我が人生があると信じると、、この人生は悔いだらけです。この体の中に自分というものが在ると信じますと、、、突然居心地の悪さが湧いてきます、それは全体がこの体の中に存在するという誤認識こそです。全体は全体です、その全体がこの体であると誤認識をするわけですから苦しいのです。プレイヤーがマリオに成り切ると途端に苦しくなるのと同じです、マリオは戦うしかできないのでその時点で苦しいのです。ということで全体がこの体が自分であると勘違いをすると途端に苦しくなり人生には悔いがたくさん残るようになります。

キャラ目線かクリエイター目線か

マリオが経験を回収するか、ゲームクリエイターが経験を回収するか

今この瞬間我々はこの二択を選択できます。スーパーマリオをプレイする際にマリオになり切ってマリオ体験をすることはできます。マリオに成り切るわけですからこのゲームは半端なく怖いことだらけです。ゲーム中敵しか出現しません。さらにジャンプに失敗すれば死ぬ可能性がある溝がやたらと多い、、、、心臓は常にバクバク、血圧は上昇、顔色は常に青ざめます。これがマリオ体験です、マリオ目線です。次の選択はゲームそのものがマリオを操作するという視点です、ゲームがマリオをプレイしますから正直怖くもなんともありません。マリオはゲームのキャラでしかなく何度でもコンテニューできます、ゲームそのものですからコンテニューしたい限り何度でもコンテニューは可能です。マリオではなくゲームとしてマリオの操作を経験し、マリオに起こるドラマをひたすらに経験していきます。怖さは強烈に少なくなりただ楽しむという感覚になります。

自分が経験を回収するか、全体が経験を回収するか

この自分劇場、自分ゲーム、人間ゲームもどの視点でこれを経験するかが重要になります。この体の中にいる自分がこの人生を経験していくという視点、この視点は非常にエキサイティング、TVニュースを観ればあらゆる事件が自分を襲いかかってきます。コロナ、戦争、人種差別、北朝鮮問題、直下型地震、、、全部が自分を襲ってきます。常に不安、恐怖、心配に支配されるのが自分視点ゲームの特徴です。一方これを全体が自分を経験しているという視点で捉えてみます。全体が体を使って何かアクションをする、全体がこの体を使って何かを考える、、、起きる経験の全ては全体の経験です。TVのニュースを観ても全体がそう発信しています、この体に起こる衝動は全体から起こりますから先のことを考えるという発想も起こりません。将来を心配しようとこの体が何をするかは全体が決めます、全体が何をこの体に起こすかは全体しか分かりません。将来に対し心配するという感覚が起こらなくなります。心配しようと5年後何をするか全く分からないからです。

この体が行動を選択できるという勘違いはエキサイティングだが苦しい

マリオが、この体が行動を選択できると考えるのは大きな勘違いです。マリオは今までもそしてこれからも何も決定権はありません。そしてこの体も今までもそしてこれからも何も決定権はないのです。マリオ、そしてこの体が行動を決定してきたと信じることはできます。ですがそれは事実ではありません。マリオの行動を決めてきたのはプレイヤーですし、この体の行動を決めてきたのはプレイヤーであり、クリエイターでもある神、全体、ワンネスです。これからもマリオ、この体が行動を決めていると錯覚し続けることは勿論できます。ですがそれは事実ではありません。

マリオが経験する感覚の全てはその場で回収される

プレイヤーはマリオの経験を瞬時に回収する

マリオがジャンプしてクリボーを倒す経験はマリオがクリボーを倒すその瞬間にプレーヤーが回収します。マリオがクリボーを踏んで倒す時効果音「ポン」という音が聞こえますがその音はマリオの聴覚に頼らずにそのままプレイヤーが回収します。この人間ゲームをこれと同じでして私が食事をする時に食事が喉を通る感覚を私の喉から脳にかけての電気信号を経験すると同時に食べた瞬間にその感覚を全体が回収します。体の中で起こる電気信号に頼らずにそのまま全体はそれを回収します。音楽を聞く時にもBGMが流れればその音を全体はその場で回収します。音楽が鳴っている振動そのものを全体がそのまま回収します。その際に人間の聴覚からの脳への電気信号には頼りません。頼るを経験することもできます。

自分の経験の全ては人間の脳の電気信号に頼らずにその場で回収されている

道で誰かに話しかけられた際に、人間は聴覚が働き次に視覚が働き脳の中の記憶部位が作用してその人を誰か認識するというメカニズムが体内で起こりますが、、、同時に全体はその登場人物を認識し、話しかけられるを全体が認識し、話している内容を全体が認識します。自分の脳の介在を必要としません。自分(全体)と全体のダブル認識が起きているのです。自分(全体)が誰かを認識する経験、全体がそのまま誰かを認識する経験が起こります。

池に石が落とされる時、、、

音が鳴ります、この音の振動を全体はそのまま認識します。気づきの意識がこの音を音として認識します。気づきの意識はこの音が現れる源であり源が源としてそのまま音を認識します。禅の老子が扇子を「パシ」と叩く音を鳴らす時にただそこに音があると表現するのはこのことです。全体がそのままこの音を認識します。気づきの意識がこの音を認識します。人間はこの音を私の聴覚が察知し、脳への電気信号が起こったと解釈します。ですが自分がこの音を認識したという認識はこのドラマへの入り口になります。自分劇場への取り入れです。

マリオが経験した、自分が経験した、、、これらはドラマ、劇場への参加

マリオ、自分は起きる全てを自分ごととして捉える事は可能です。ですがそれは自分ドラマ、自分劇場への創造になります。本当は全体がそのままその経験を認識できます。なぜならばマリオ、自分の経験の全てはこの全体の中で行われているからです。全体の中の経験です、全て。ですからマリオ、自分の経験をそのままマリオ、自分の経験として捉えるか、全体の中にその経験が起こったとして捉えるかで全く意味が変わります。これまで人類はそのすべての経験を私の経験として捉えてきましたが全体の中で行われる経験は全体の経験として捉えることが可能です。

マリオのプレイヤーはどこに居る

マリオではプレイヤーは画面の外に居るが、、

スーパマリオゲームにおいてプレイヤーはどこに居るか?TV画面の外にいます。TV画面の近くにファミコンがありそこからコントローラーが伸びそこに人が居る。この人間こそがプレイヤーです。ではこの人間ゲームでは人間をプレイするプレイヤーはどこに居るのか?この視界の外に居るのでしょうか?答えは外には居ないということになります。ではどこか?ここです。今ここに居ます。目の前に広がる、花、テーブル、机、窓、空間、これらを形成するたった一種類のエネルギーこそがプレイヤーです。つまり目の前の全部ということになります。これが神です。

だからこそ人間の中に湧く感情は全部、全体から湧いている

人間ゲームにおけるプレイヤーは今目の前に広がる全部です。この全部が人間を操り、経験させ、感情を湧き出させ、思考を湧き出させます。そしてそれらを自分の中で湧いているという思考も全体から湧いてきます。これによって人間の体(自分)はそれを全て所有するという体験が生まれます。視界に見えるこの全体がプレイヤーですからそこから感情が生まれるのも当然です、思考も生まれます、そしてそれをこの自分が所有するという思考が生まれます。これが人間ゲームのカラクリです。この体が自分であるという思考が固定化していくと、分離感、不足感、居心地の悪さがやはり全体から湧いてきてそれを解消したいという欲求がそこから湧いてきます、これも全体から湧いてきます。ここから人生ストーリ、大冒険が生まれるのです。

神は画面であり、OSであり、ゲーム本体であり、主人公(自分)でありプレイヤーでもある

この人間ゲームでは神がプレイヤーであり、OSであり、ゲーム本体であり、このゲームの主人公(自分)です。そしてその全てが今ここに在ります。それぞれがバラバラに分離してして存在などせずに今ここに全部があります。だから神とは全体、全存在なのです。全ての感情、思考はこの全体、神から生まれ、それを自分のモノとするのも人間扮する全体、神です。神の自作自演、制作総指揮、自分劇場のカラクリです。

ランナーズハイとは?

人間扮する神が、、マラソン中にランナーズハイという状態を経験したします。走っていて全く疲れない状態、気落ちよくもあり、恍惚感が湧く状態。これは人間が走り続けている過程でこれが自分であるという思考(全体からの)が湧かなくなることで自分という存在を忘れてしまった人間の状態です。つまり全体、神が走っている状態なのです、この状態はだからこそ歓喜、安堵、平和そのものなのです。歓喜、安堵、平和を感じるランナーが居ない状態です。

友人からの裏切り、この時自分の中に何が?

自分の中で起こったことを精査する

例えば友人から裏切られたとしましょう。例えば彼氏を寝取られたと、、、この時自分の中からどのような感情が湧いてくるか、、、、前から怪しいと思っていた、彼氏を奪うとは本当にゲスな人だ、、幼少期に何か不幸があったのでは?これが一度では無いはず、、あの髪型も服装も全部男を誘惑するためのものだ、、逆に友人の彼氏を狙ってやろう、、、、まあこんな感じであらゆる思考、感情が湯水のように湧いてくるでしょう。この全てを自分は自分の体から湧いてきたと勘違いします。この思考、感情はこの体無くしては絶対に湧いてこない、だからこれらの思考、感情は私のモノだ。誰がこれを疑うことができるか?ということです。ですが実際は違います、これら全ては気づきの意識、全体から湧いてきています。それをあなたの体がキャッチしただけです。そしてさも自分がこの感情、思考は湧き出したのだと勘違いします。そしてそれを脳に記憶させます。

思考と感情をテーブルに出してください

もしも思考と感情が本当にあなたのモノならばそれを今すぐにこのテーブルの上に出してみてください。当然出ません、、、思考も感情もテーブルの上に載せれるような物質ではないからです。あえて言えばエネルギーです、そのエネルギーは体の中に物質として蓄積されるわけでもなくただ脳に記憶されます。このエネルギーを作り出したのは自分自身だというこの錯覚がこの人生劇場、自分劇場をエキサイティングなモノにします。ですが実際はこの思考、感情は気づきの意識、全体からただ湧いたのであってそれを自分が所有したと錯覚しただけです。

この自分ゲームをすると、、、

このメカニズムを理解することができても、、、これからも当然あらゆる感情、思考は湧いてきます。ですが一旦この事実を腹落ちすることができれば湧いてきた感情を自分のモノにするというコレがなくなります。この体(自分)と湧いてくる感情、思考を切り離すことができます。そしてこれからもこの体を使って活動すればまたあらゆる思考、感情が湧いてきます、ですがそれは自分のモノではありません。ただ気づきの思考、全体から湧いてきただけです。マリオのプレイ中に湧いてくるあらゆるプレイヤーの感情とマリオが一切関係ないように、実はこの体と湧いてくる思考、感情は何も関係がないのです。

全体験、全感情、全思考を自分のものにしていくマリオは固定観念が形成される

マリオの固定観念

マリオはゲームをスタートしてあらゆる敵キャラに出会います。ノコノコ、パタパタ、メット、ゲッソー、、、などなど、、、これらの敵と対戦していくことでマリオは独自の経験、湧いてくる感情、湧いてくる思考を自分のモノとして取り入れていきます。脳にある記憶機能でそれらを積み上げていくのです。ノコノコは軽い相手だかが階段で出会うと厄介、パタパタは上から降りてくる時が危険、ゲッソーさえいなければあの時クリアできたのに、、、とゲーム中の経験、感情、思考を全部まとめていきます。これが重なり合って一つの固定観念が形成されていきます。

人間の固定観念

人間の固定観念も全く同じ原理で形成されます。出会う人々によって様々な経験を積みそれを自分のモノにする、出会う人々によって経験がありそこからあらゆる感情が湧いてくる、そしてそれを自分のモノとする。出会う人々によってあらゆる思考が湧いてくる、そしてそれを自分のモノにする。経験、感情、思考の全てを自分のモノとする。これによって自身の固定観念、価値観が形成されます。この固定観念、価値観はそれゆえ人によって全く異なります。価値観が全く異なる人同士がコミュニケーションをするわけですから当然理解できない部分が発生します。

全く異なった固定観念によるトラブル

人間とは固定観念を所有する動物です。人間とは自身の経験、感情、思考を全て自分のモノとして蓄積していく動物です。それによって固定観念が形成されます。この固定観念はそれゆえ人によって全くことなるのです。この全く異なった固定観念を所有した者同士がコミュニケーションをとるわけですから常に分かり合えない部分が発生しそこがトラブルになります。世の中から人間関係のトラブルが決してなくならない理由とはここです。

固定観念自体が錯覚

話を最初に戻しますと、、、人間が独自に所有する経験、感情、思考、、、これらは実は人間のモノではありません。人間が何かしらの行動を起こすと経験、感情、思考が発生しますがこれらの全てはただ湧いてくるのであって決して人間のモノではないのです。マリオが動いた時の経験、湧いてくる思考、湧いてくる感情はプレイヤーから湧いたモノです。これをマリオが自分のモノと勘違います。人間も全く同じで動くと湧いてくる感情、思考は気づきの意識、全体、神から湧いたモノです。これを自分のモノとすることから錯覚が生まれ、固定観念が生まれるのです。固定観念とは大いなる勘違いから発生しています。固定観念の相違によるトラブルとは大いなる勘違い同士のトラブルでありだからこそ解決が難しいのです。

セミリタイアしたマリオは絶望する

マリオはセミリタイアを夢みるが、、その後絶望する

マリオは毎日の大冒険に疲れてきます、毎朝起きれば毎日クリボーやノコノコ、ブクブクとの戦いの日々、これからの人生これが毎日続くと思うとゾッとするわけです。そこでマリオはゲームクリアーを夢見てセミリタイアを本気で考えるようになるのです。セミリタイアすることが一番の目標になります。そして無事ゲームをクリアしてセミリタイアに成功すると、、、、あまりの退屈にびっくりします。。マリオがただ毎日ソファーで横になっている時、それを眺める人間はどう思うか?退屈至極です。この退屈至極が、、、湧いてきて、、、それをマリオが所有します。。びっくりする事件が起きます、長年の夢だったセミリタイアを達成した翌週には退屈が湧いてくるのです。。。。。マリオは自分の感情を疑います、、、どういうこっちゃと。

湧いてくる感情を自分のものとするからおかしくなる、、、

長年の夢だったセミリタイア、、、ところがそれを達成した翌週から退屈という恐ろしい感情が湧き続けます、、、これは本当に自分の感情なのか?あれだけ苦しかった戦いの日々が終わりようやく安全な毎日を送れるようになったのに、、、まさか翌週から退屈の感情に襲われる、、、この感情をマリオが自分の感情だと思えば大変なことになります、自分という存在が理解できない、、、ですが本当はこの退屈という感情はプレイヤーから湧いています。プレイヤーはマリオがソファーで寝ているのを一緒になって楽しむようにはなっていないのです。なぜならばプレイヤーはマリオがどれほどの傷を負いながら大冒険をしている最中も全くの無傷、無傷、、命の危機など皆無だからです。多くの体験を積んだマリオはこの感覚を本能的に知ります、どうやら自分は活動していないのが一番苦しいようだと。ですが本当は違います、マリオを経験してるプレイヤーが退屈なのです。

マリオは常に恐怖心が満ちている、だがそれを経験するプレイヤーは恐怖心ゼロ

マリオは常に恐怖心が満ちています、クリボーもブヨブヨも、クッパを当たれば傷つきます、痛いです、、ダメージを受けて死んでしまいます。ですがその経験を回収するプレイヤー、気づきの存在は安堵そのもの、、、、むしろ恐怖心を積極的に回収したいぐらいに余裕があります。ですからマリオは恐怖心を抱きながらも冒険を続けることになるのです、そしてその方が充実感が湧いてくるから厄介です。この充実感は勿論、プレイヤー、気づきの存在から湧いてきます。

神はこの人間活動の経験の全てを回収する

自分が経験している全ては神が回収する

この体を自分とするならば、、、この自分が経験する全ては神が回収します。マリオの経験の全てを人間が回収するようにマリオの全経験を人間が回収します。これは神と人間の関係も同じで人間が経験する全てを今神が回収します。喜怒哀楽、寒い暑い、怖い楽しい、最高、最悪、、全感情、全体験、全五感を神は回収します。外で鳥の声がする、、、声を回収するのは人間であり神です。神は鳥の声を人間の聴覚を通じて回収し、さらに声そのものから回収します。マリオをプレイするプレイヤーはスターの効果音をマリオの聴覚、スピーカー同時に回収します。

朝から晩まで頭の中で思考がぐるぐる、、

朝から晩まで考え事を自分がしている、、、、その全てを神が回収します。朝から晩まで苦しみ悩み、鬱積する感情の全てを神が回収します。もしも神が回収できない人間の経験があるならば、、神は神でなくなります。神は全経験を回収するから神なのです。全体なのです、ワンネスなのです。マリオがピーチ姫を救うために大冒険をすることができるのは記憶力があるからです、もしもマリオに記憶がなければ当初の目標であるピーチ姫を救うことを忘れます、すると冒険をしようという気持ちもなくなります。大冒険が破綻します。人間も記憶という機能があるゆえに今日起きると昨日の続きを行うことができます、だから人間は自分劇場、ドラマを生きることができるのです。この劇場経験、ドラマ経験こそが神が人間を誕生させた理由です。動物にはドラマがありません。

マリオの大冒険は動物ではできない

マリオが未知の世界に冒険をできるのはマリオの記憶力ゆえです。一般の動物は未知の世界に進むことを怖がりますし、冒険をしていたことなど寝ると忘れます。ところがマリオは記憶力がしっかりしているので冒険を辞めることをしません。この経験はマリオだけのものです。人間もこれと同じ、人間には記憶力があるために自分の存在、昨日までの経験の全てを覚えています、だからこそ今日また人生を続けることができるのです。これを神は大歓迎するのです。人間の未知への大冒険は神の大好物です。