こうやれば上手くいく

こうやらなければ上手くいかない

これは夢です、完全に夢です。この夢の中で「こうやれば上手くいく」を確信しますと、、その思考、概念、観念がこの夢でそのまま投影しそれが現実であるかのように見えるようになります。逆に言えればこうやらなければ上手くいかない、、、も同時にこの夢の中で投影されていくのです。「都会に行けば上手くいく」この観念が強固になれば「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化するのです、そしてこれがこの夢で投影されます。

「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化すると

田舎をありのままには見れなくなります、田舎に行くことになればネガティブな感情が湧くようになります。もう田舎が光り輝いてはみえなくなるのです。子供のころは全てが光り輝いていたのが、、観念が投影された世界(夢)を見るようになるのです。その夢はもう輝きを失っています。そして輝きを失わせたのは観念です。

観念に観念を重ねていく

「都会に行けば上手くいく」「高収入を得れば良い生活を送れる」と大人になればなるほどに観念を重ねていきます。これは同時に「都会に行かなければ上手くいかない」「低収入になれば良い生活を送れない」という観念を積み上げていくようになるのです。そしてこの夢でその観念が確実に投影されていきます。本当にそのように見えるようになっていくのです。もうこの世界はありのままで輝く世界ではなくなっていきます、子供の頃に見た世界ではなくなっていきます。

夢からの脱出

子供の頃に見ていた世界があるがままの世界ならば、、大人が見る世界は観念が投影された夢です。世界からはすっかり輝きがなくなりドライで暗い世界(夢)が広がります。そうさせたのは自身の観念です。だけど思考なしに、観念なしに生きるなんて不可能だよね?????が本音のはず。子供の時みたいに何も考えずに無邪気に生きるのも不可能なのです、、、そこで何が必要になるか????超観念です、観念を超えるのです。観念を超えた視点で、、観念を方便として使うのです。

超観念、超自己、自己超越、超常識

観念、自己、常識を持つことで我々は生きていることができます。それにも関わらず今更全部捨てるなんて不可能です。そうではなく全てを超えていきます、観念、自己、常識をさらに大きな視点から眺めていくのです。観念、自己、常識から縛られることなく、、方便として使いこなしていく。。これが悟り、解放、解脱の本質です。

勝利の方程式は不自由の方程式

コレは夢です、完全に夢です

夢の中で「勝利の方程式」を本気で信じれば確かに勝てるようになるでしょう!!!ユダヤの法則、ランチェスター戦略、帝王学、、なんでもござれです。もしも勝利の方程式でこの夢の中で勝利を掴んだ場合、、デメリットがあります。それは方程式で否定する行動を今後取れなくなるということです。コレは完全に不自由なんです、自由という本質である我々が不自由に縛られるのです。これでこの夢の中の生活が一気に不自由になるのです。

もっと豊かになれれば

不自由の方程式である程度の勝利、豊かさを得ても、、不自由ゆえに満足できないにも関わらず、、、、この違和感をさらに豊かになることで埋めようとする動きが起こります。ユダヤの法則で勝利できたのだから次は孫正義の方程式だ!!となります。よりダイナミックによりスピーディーな法則を手に入れ、、、さらに豊かになることができました。ところがユダヤの法則+孫正義の方程式に縛られた生活はさらなる不自由に縛られることになるのです。自由という本質そのものである我々が不自由に縛られるのです。

最終的に、、

益々不自由になっているにも関わらず外見上豊かであるためにそれに気づかず、、違和感、不足感を感じた結果、、ユダヤの商人、孫正義の方程式に、、イーロンマスクの鉄則を加えて、、さらに豊かになることを図るのです。これによってこの夢の中で確かに豊かになることができました。。ところがやってはいけない行動がありすぎるため、、、不自由極まりないのです。自由という本質である我々がこの夢の中で不自由極まりない生活をすることになります。

もういいや、、

もういい、どんなに豊かになっても不自由な行動制限はまっぴらだ、、、ここまで開き直れると、、人は本当の豊かさに興味を持つのです。自由そのものである我々の本質は「やってはいけない!!」が大嫌いなのです。こういう人とは付き合ってはいけない!こういう行動はとってはいけない!なんぼのもんじゃいです。

夢の中でのサバイブ術

自らルールを作っていく

これは夢です、完全に夢です。本屋に行きますと、、棚にびっしりと各種書籍が並んでいるわけですが、、これらのほとんどは、、、この夢の中でのサバイブ術です。女性にモテるには!収入を増やすには!目標高校、大学へのノウハウ本、副業100選、ファンションの手引き、、、結局はこの夢の世界で豊かになる方法が書かれているわけです。ところがこの夢は同時に自身の観念が投影された世界ですから、、、ノウハウが増えれば増えるほどにやるべきことが増えていくというジレンマを抱えているのです。

高収入がモテる!!!というノウハウ

高収入がモテる!というノウハウを学べば、、、高収入でなくてはならなくなり、、やるべきことが山のように増えるのです。高収入になるためには????国家資格を取り、有名企業に勤め、その中でサバイブし、、とエンドレスにこれが続きます。モテメイク!を学べば、、毎日出勤前の準備が増えるのです、そしてサボればモテなくなる。なぜならばそう信じているから。その観念がこの夢に投影されるのです。

観念という牢獄からの脱出

高学歴、高収入、高身長がモテる!!と学び信じれば、、、、そうでなければモテない!!!というドラマが生まれます、この夢の中で。コレは夢ですから観念、信念がそのまま投影されるのです。観念、信念が増えていきますとやることが極端に増えていくのです。この観念のカラクリを見抜かないと、、観念という牢獄に閉じ込められたままです。

今全体でなければ孤独を感じることはできない

孤独とは非孤独が感じるものだから

1億円を所有したことがない人間が1千万円を少ないと感じることはできません。暖かいを感じたことがない人間が寒いを感じることはできません。寂しいを感じることができる人間とは寂しくないを感じたことがある人間だけです。我々が孤独、不足感、違和感を今感じることができるのは今非孤独、満足、非違の状態だからです。主語が非孤独、非不足、非違和感だからこそ今、、孤独、不足、違和感を感じることができるのです。なぜ今かと言えば、、今しかないからです。時間とは思考が作り出したファンタジーです。

孤独を感じることができるという事実が自身が非孤独、つまり全体である証拠

全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今孤独を感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体(豊か)が今貧しいを感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今違和感を感じることができるのです。

ネガティブな感情は全体でなければ生まれない

虚しさは実でしか生むことができない感情です。主語が実だから虚しいを生むことができるのです。この私が虚しいを感じることは不可能なのです。なぜならばこの私は思考であって実ではないからです。実とは存在のことであり存在だけが虚しいを感じることができます。つまり毎日感じる虚しい、寂しい、苦しいという感情は全存在だからこそ感じることができるのです。全存在の中に「この体の中に私が居る」という思考を湧き起こすことで虚しい、寂しい、苦しいを今感じているのです。

究極の孤独を作り出すことができるのは究極の存在だけ

非孤独とはなんでしょうか????一人では非です、、非一人です、、、、つまり二人のことでしょうか???いや二人で居ても孤独感て生まれますよね???何十人と一緒にいても孤独感って感じるものです。非孤独とは全体のことです。我々は全体だからこそ究極の孤独を感じることができるのです。今全体だから今孤独を感じることができます。過去に全体だったから今孤独を感じているのではありません。過去という存在は思考でしかありません。

池に写った姿を自分と思うか?

鏡すらない時代に

鏡すらない時代に、、、池に写った姿、、これを自分自身と思うのかどうか????思わないはずです。確かに池には何か動くものが映るでしょう、、ですが同時に違う景色も映るはずです。つまり池を見て動く何かを見たところでそれが自分という発想は湧かないのです。私たちは鏡に映る何かを「これがあなたよ!」と何度も繰り返し言われることで、、そう学習したのです。そこからこの体が自分という概念のみが生まれたのです。これは私というのは概念です。

だから私はしょっちゅう居なくなる

我々は一日の中で何回自分というものを認識するでしょうか???会話中、挨拶をされた時、、何かきっかけがないと自分を意織しないはずです、、なぜか???それは自分とは概念だからです。他人から挨拶されて始めて、、、挨拶されたのはこの自分だよな!という思考が湧き上がり、、自分が居るを思考します。つまり他人から全く相手にされなければ自分が居るという思考は湧かないはずです。

この体に自分が居るという思考

もしも人間が無人島で生まれたった一人で育ったならば、、寂しいという感情は生まれないでしょう。寂しいとは、、自分が居るという思考とセットで湧く感情だからです。見える世界の中のごく一部であるこの体の中に自分が居るという思考が寂しいを生み出すのです。この体の中に自分が居るという思考は思考概念であって真実では全くないのです。

城としての自由意志はない

自由意志のカラクリ

我々は浮かんできた思考を自由意志と思っています、、そうだ、マック行こう!そうだ、スタバ行こう!そうだ公園行こう!!!あらゆる選択肢の中からそのアイデアをチョイスなどしているわけはなく、、、浮かんできた思考に乗ることでそれを自由意思と言ったりします。そして厄介なことに自分にも自由意志があるのだから他人にも当然あるはずだと固く信じるわけです!こうして自由意志と自由意志の関係性が始まったという大誤解を始めるのです。

独立した城であるには自由意志は必須

砂上の上の城を自分自身と信じるためには自由意志は超重要になります。これがあることで俺は存在しこの城の主人であると思うことができるのです。ですが上記のように自由意志はないのです、、そしてこの城には自分が居るという思考も勝手に湧き起こったものなのです。そしてこの城には自分が居るのだから相手の城にも誰かがいるに違いないという夢を見ているのです。

砂とは何か???

全部の城は砂でできているわけですが、、この砂は何でできているのでしょうか????それが空の現象化です、空が現象化したのが砂であり、、その一部が城として現れたのです。そしてそこには思考というものも現れこの砂を思考という観念で見るという現象が現れました。観念という現象を通じてこの砂を除けば、、あらゆる夢が広がっていくのです。時間があるという現象、空間があるという現象、、、これらが混ざり合いドラマが生まれます。

主役(体)と脇役(全体)を入れ替える

多くの方は逆をやっている

多くの方はこの体が主人公で体を取り巻く環境が脇役だと思っています。ですが本当はこの環境こそが主人公、本当の私です、そしてこの体は脇役なのです。環境とは何か???この夢そのもの、、この夢は空、絶対、ワンネスの顕現そのものです。そして我々の本質はそれなのですから。その中にこの体が夢の一部として顕現したのです。そしてこの体がいつもこの夢に登場することから序列が一気にトップに上がりその中に「自分が居る」という思考が固定化されたわけです。

体と環境はいつもセット

生まれてきてこの方、、この体そしてそれを取り巻く環境がセットで登場し続けてきました。そうです環境+この体でこの夢は成り立っているんです。環境だけでもなくこの体だけでも成立しないのですからどっちが重要ということはありえないのです。ところが我々はこの体の方が重要と信じることで同時に虚しいを感じるようになってしまったわけです。

今見ている世界

今見ている世界、夢そのものが私です、、だからその夢の中で人と競り合ったり、人よりも偉くなったりしても、、何の意味もないのです。この夢自体が自分自身ですから。鏡に写ったこの体の中に自分が居るとやはりこの夢の中で教わりそうだと信じてきただけです。鏡もその中に写る姿も全部夢です、、そしてもう一度そのことを思い出しますと平和至福が蘇ってきます。私たちは何も手に入れる必要がないのです、なぜならば見る世界全てが自分自身だからです。

砂でできたお城

それを自分と思い込む思考

多くの悟り本で例えられる話、、砂でできたお城を自分であるという思い込み、、そして我々の本質は城ではなく砂そのものである。砂でできたお城は自我意識が芽生えることでこのお城を維持しようと努めるわけですがどんなにしっかりとこのお城を維持しても不足感が消えないわけです。それはそのはず本来は見渡す限りの砂そのものですから。ところが自身をお城と勘違いした自我は隣のお城を屈服したり、、周囲のお城から評価されることを望んだりと全く見当違いのことをするのです。それが人間です。

砂でありながらお城を守ることは可能なのか????

お城は自身をお城であると思い込むことでお城の維持に成功したわけですから、、、いまさら自身をこの広大な砂そのものであると思い出すことで、、、二つを両立することは出来るのでしょうか????できます、なぜならば砂でなかった時など一時もなかったからです。砂でありながらお城をやっていただけで砂であったことには何も変わりはないのです。お城であるために砂ではなくなっていたのならば再び砂にシフトすることで城ではなくなってしまいます。ですがそうではないのです。

城をやるのは演じていただけ

砂として城を演じる、、、これをやるのです。本当は膨大に広がる砂だけど、、便宜上、、城をやるのです。本当は西田敏行ですが便宜上ハマちゃんをやるのです。ハマちゃんと呼ばれすぎて西田敏行であったことを忘れていただけ、、、西田敏行が再び自覚的にハマちゃんをやればいいのです。その時西田敏行は釣りバカ日誌の映画の中で苦悩することはできなくなります。我々人間もこの夢の世界で苦悩することができなくなります。

この体の奇跡

夢の中で消えないこの存在

この体だけがこの夢の中で一切消えない存在です、この体だけです。それ以外は常に入れ替わり立ち代わりしていきます。何かに没頭している時この体はこの世界から一時的には消えるんですが気づけばこの体は元の場所に収まっています。この体は常にこの夢の中心に居座り続けています。

ただしこの体も夢の一部

ただしこの体もこの夢の一部です、、この体があるように見えているだけです、、画像です。勿論触ればこの体は反応しますし、食べれば味覚を感じます、、ですがこの体が実在するという証拠はありません。どこまでいってもこの体は夢の一部でしかないのです。移りゆく夢の一部としてこの夢に鎮座し続けています。

その中の私

一方この体の中に居ることになっている私は、、忘れてしまえばずっと出てきません。例えば忙しさで忙殺されているときなどしばらくは出てきません。一旦落ち着き我に返った時に「あー今日は私は忙しかったなー」と我に帰るのです。この体がこの夢から消えないから、、この私も存続できているのです。そこら辺が分かってきますと、、覚者がいう「私って本当は居ないんです」という言葉が入ってきます。

私が居るという前提の観念

この体が存続されているから「私が居る」は成り立つのであってこの体がこの夢から消えれば「私は居る」は成り立たないわけです。この私が居るという思考、この思考を前提にした観念は、、そこが崩れますと変わって行きます。常に私は居る、あなたの体にも「あなたが居る」という前提の観念が構築されており、、ここが崩れていきます。するとこの夢は観念が投影された世界ですから見える世界が変わっていくのです。

あの人は今

TV番組企画でたまにあるやつ

あの芸能人は今????そんなTV番組ありましたよね????10年前20年前のアイドルが今は何をしているのか?????というやつです。多くの場合は主婦になったり事業家になったりラーメン屋やってたりとなって番組に久しぶりに登場します。本当のことを言えばその人はこの宇宙に何十年間居なかったんです、、番組が探したからこの世界、この宇宙に再登場したのです。もっと言えばその人はTV画面上にだけ再登場したんです、画像のみです。TVを消せばその人はこの世界、この宇宙から居なくなるんです。

芸能界から干され、、なんとか生きてきました、、、

そのアイドルは番組では言うかもしれません、、、「人気がなくなり、、なんとかパン屋で食いつなぎ、、、」嘘です、、完全に嘘です、、、この世に居なかったんです。コレは夢ですから、、この夢を見ている人が居ない場所では、、存在できないんです。だから全く心配しなくていいんです。

一方この私は、、、

周囲の人が居なくなっても、、、この私だけは、、、ずっとこの夢の中に居続けることは可能なんですよね?????残念!!!!!!この体は常に返ってきます、、、ゲームに飽きたら、、TVに飽きたら、、映画に飽きたら、、、この体は返ってきますよね!!!この夢に。。。そしてその後に、、、この私がTV、映画、ゲームをしていた、、、という思考が登場するんです。この体がこの夢に確実に返ってくるから、、、私は存続できるんです。この体が返ってこなかったらとうの昔に私なんて消えてます。

じゃあ、、私って本当は居ないんですか???

居ないんです!!!!この体が夢に確実に戻ってくるから、、、私は再登場できるんです、、、この体が100%この夢に戻ってくるから、、、この私も、、常にこの夢に戻ってくるんです、思考として。体あるじゃん、、じゃあ私もいるじゃん!!!です。その後付けの私が、、、偉そうにのさばって生きているんです、思考として。映画にどんなに没頭しても、、この体は絶対に戻ってくる、、だからこの私も絶対いる!!!になるんです。これは思考です。