ただ全てが起こっているという視点

目の前の現象をスクーリーから眺める

自身をこの視界のスクリーンという視点になって見ます。何が起きてもどんな感情が湧いても、どんな思考が湧こうとどのように話しかけれられても、どのようにこの体がリアクションを取っても全部この視界のスクリーンという立場、視点で観察します。本当はこの視界のスクリーンだったのだという感覚を持ってそれを行います。我々はこの視界の中の人間、そしてその中に自分が居るという感覚でこの視界の中を生きています。朝起きて目の前に視界が広がった瞬間からその視点で生きています。ですがそうではなくこの広がて居る視界のスクリーンなのだという感覚を持ちます。

起きたこと、目に入ったことに思考を使わない

我々の人間活動は目に入ったモノ、聞こえる音、口に入る食材の感覚に、、思考が働きそこに解釈が入り、比較検討が始まり、、それを「自分のモノ」にしていきます。完全にこのスクリーンの中に主人公という立場を取り続けるために目の前で起きたことを完全に自身の思考が解釈を与え自分のモノにしています。この行為こそが自分が居るを、、永続させるメカにジズむなのです。この行為を行わないと、、、実は自分が居なくなります。あり得ない話ですがこの観察からの解釈、比較、検討こそが自分を永続させていくプログラムだったのです。だからこれを普通に行わない、、全部スクリーン上でただ起きたのだというスクリーンの視点を完全に保ちます。

スクリーン上で起きることを自分ごとにしてきただけ

実は我々はこの視界、それを支えるスクリーンの中で起きたことをただ自分ごとにしてきただけです。例えば部屋でTVを観ているときサッカーが流れていると、、、ここで行われるプレイに対し私だったらここでこうするのに、自分だったらあそこはパスしたのに、自分だったらあそこで選手を替えないはず、、と観ているだけで「自分だったら」が湧いてきます。目の前で起きているプレイを自分ごとに取り入れていくのです。これが人間が一日中やっていることなのです。当たり前だろう、、なぜそれがいけないのか?例えな天気予報を見れば明日の自分のスケジュールを考える、コロナ情報が入手できればじゃあこう対策しようと考える、、、この何がいけないのか???違うのです、、いけないということではなく、、、このようにして起きることに対し思考がフル回転して自我が肥大化しそれが苦しみを湧かせているという事実をお伝えしているだけです。

起きる出来事に思考を介在させると、、、

我々は一日中起きる出来事に思考を働かせるということを無意識にやっています。何か情報が入った、、、そこで思考スイッチオンです。友人から誘われた、そこで思考スイッチオンです。これを朝から晩まで行っているのです。というよりも思考を使う中毒になっているのです。思考中毒です。思考をフル回転させることに対し全く抵抗がないのです。何か問題をこしらえてその問題解決のために一日中思考をフル回転させる、、、これが日常の日課なのです。この日課、悪循環、中毒を壊す行為がスクリーンの視点に立つです。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

思考が過去や未来に存在する意味

「今ここに在る」を過去未来に連れていく

意識、全体、今ここに在るが思考に同一化すると、、思考は過去を思い、未来を思い、、、意識を今から逸らせます。本来は「今ここに在る」は今に在るわけですがこれが思考に同一化することで過去、未来へと旅に出るのです。「今ここに在る」が思考を通じて過去を考える今に変わります。今ここに在るは今ここに在る時に本来のバイブレーション、振動で在るわけですが思考の同一化し過去や未来に旅をしますと波動が荒くなっていく、重くなっていくのです。これが居心地の悪さを生み出します。

「今ここに在る」は過去未来のストーリーを体験したかった

「今ここに在る」は思考との同一化を達成し初めて未来や過去に意識を向けるということを達成します。未来過去を行ったり来たりするスケボー、サーフィン体験です。時間という波の上をサーフするのは大変面白くエキサイティングです。意識にとって思考と同一化するのは本来の状態ではないですから非常に不安定、疲れるのもまた確かです。この状態はバイブスが低いのです。思考というのはこの自分の過去の体験に依存しておりそのため今という場所には居れません。そのため「今ここに在る」という意識にとって安心にてストーリーに浸かれるわけです。「今ここに在る」は今に戻ったら「今ここに在る」になってしまいます。思考との同一化から離れてしまいます。思考と同一化に成功している限り過去、未来という時間軸の中に居続けます。この場所はエキサイティングだが疲れる場所、負の感情を延々と湧いてきます。ですがこれを思考が解決を図ることでまたここの居続けることができます。

「今ここに在る」は思考が使えないような状態に陥った時だけ今に戻る

「今ここに在る」は思考と同一化すると「今ここに思考として在る」に変わります。「今ここに思考として在る」は思考に連れられて過去や未来への旅を続けます。熟睡時や、、思考も介在できないようなアクシデントに見舞われた時にだけ思考が壊れ、、「今ここに在る」に戻るのです。この状態は平和、歓喜、安堵と究極の至福状態で在るがゆえ、、、思考は直ぐに「今ここに在る」と同一化を図り思考の世界に引き込みます。これによって再び「今ここに在る」はエキサイティングだが疲れる過去未来旅行に出かけるのです。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。

心の雑音が視界を濁らせ居心地の悪さを生み出す

心に雑音があることに気づく

我々は思考を使うことに対し一切の違和感を感じません。思考は自分のモノですからどれほど使い倒しても問題はない、思考を使うのはタダですから使い倒さないと損、とばかりに思考を使い倒します。特に自身の思考に絶対的自信を持つ人ほどに思考を使い倒すでしょう。ですがこの思考活用こそが心に雑音を生み出しそれが視界を曇らせます。思考が行う決めつけはそのまま我々の現象界を歪ませそのように見せます。思考が行うレッテル張りは現象界にその部分を浮かび上がらせそれ以外を見えないようにさせます。思考そのものが悪い存在なのではありません、思考の使い方が人生を苦しくさせているという話です。

思考を使えば使うほどに自我を強固にしていく

自我とは自ら我と書きます。この全体が存在する世界に自我という全体とば別個の意識を持った存在が生まれました。この自我はどのように形成されたのか?先ずこの自我は体というモノと大きく関係します。体という生命体が先ずありそれをこの全体とは全く違う個別の意識が宿った存在とみなすことを自我と言います。人間の体には脳が存在しその脳が思考を使ってそれを持続させるのです。この体からみる世界にはただ全体だけが映るのですが映る世界にレッテルを貼り付けることでそのレッテルに意識が集まりそこを集中して見るようになります。すると他は見えなくなるのです。我々人間は全く同じ景色を見ているようでいて実は全く違う世界を見ているのです。だからこそ生き易い人と生きにくい人が存在するのです。住んでいる世界が実は違うのです。

居心地の悪さを自ら作り出す

自らを全体から完全に分離した存在であると錯覚することで、全体に在る人間、モノ、植物、動物も完全に分離した存在であると見えるようになっていきます。全てはバラバラ、、と誤解が進んでいきます。ですがこれはどこまで行っても誤解ですからこの誤解は苦しみを生み出します。たった一個のエネルギーしかないこの世界を別々分離したモノの寄せ集めであると誤解すればそれは事実は違いますからおかしなことが起きるわけです。それが負の感情です、得体の知れない負の感情が湧いてくるわけです。負の感情とは誤解の強さが生み出しているだけなのです。この人間の体がどこまで強く誤解しているかがそのまま苦しみの深さになるのです。

所詮誤解だから誰でもどこでもこの誤解は解ける

人間の苦しみとは誤解の強さです、ここに頭脳、能力、体力などは一切関係がありません。どれほどまでにこの体を全体から切り離して見るかが苦しみの強度になります。本来はたった一つのエネルギーしかなくこの体も全体も何も分離はしていません。分離していると思い込むエネルギーが存在しているだけです。分離していると思い込むエネルギー(自我)をいかに弱めていけるかが幸福、安堵、平和を日々感じていけるかの鍵になります。自我にとって厄介なのはこの自我の行動を見抜かれることです、だからこそエックハルト自我の動き、思考の動き、感情の動きをひたすらに観察せよと言うのです。

目の前に神(全体)が居るのになぜ居心地が悪いのか?

今目の前に神が顕現している

我々の目の前に広がる世界は神の顕現です。神が顕現化しそこに現れています。どのように見えていようとも神の顕現でないわけがありません。ですが我々は神の顕現を目の前にして居心地の悪さを常に感じています。不足感、孤独感、退屈感、喪失感などです。我々の前に神が広がっているにも関わらずこれらの感情が湧いているということ事実にもっと違和感を感じなくてはなりません。人間とは神を目の前にして退屈を感じる生き物なのです。

もっと先に満足できる世界が広がっているはずだ

我々は神の顕現を目の前にしながら、もっとこうなれば自分は幸せになるはずだ、もっとこういう家に住めれば幸福に、もっと良いパートナーが見つかれば充実するはず、、、と欲望を起こします。ですが今目の前に広がる世界は神の顕現です。神の顕現を目の前にしてなぜ不満が起きるのでしょうか?ここに今回のポイントが隠されています。我々の問題点は神の顕現を目の前にして自分はこの顕現とは違う存在であると確信していることです。なぜか神の顕現を目の前にしてこの自分だけは神の顕現とは別物であると宣言しているのです。これによって居心地の悪さが発生しているのです。

同級生全員の前で自分だけは違う学年である

同級生全員の中で自分だけは実は違う学年ではないか?こんな疑問を持った生徒がいたらその生徒はさぞかし居心地が悪いでしょう。なぜこの学年で一緒になって学んでいるのか?こういう気持ちが常に湧いてきます。これが全体の中の自分です。神の顕現を目の前にしてこの私だけは別物なのだと真剣に勘違いする存在、それが自我、エゴです。この勘違いが酷ければ酷いほどに生きづらい、、これだけです。この勘違いが少なければ少ないほどに生きやすい、、これだけです。エゴ、自我は自分だけは特別であると絶対的に思いたい存在ですがこれが苦しみを生み出しているのです。

目の前の存在が神でないとしたら一体何?

我々の目の前に映る存在、これが神ではないとしたら一体何でしょうか?宇宙、地球、空間、、、なんとでも名称をつけることはできますがではそれらは一体何を起源にして生まれているのか?そう考えると目の前に写り出す現象は唯一のエネルギーでしかありません。唯一のエネルギーを神、ワンネス、大いなる存在、無我と表現します。これが今私の目の前に広がっています。もしも目の前に広がる神が燻んで見えるとしたら燻んでいるのは神ではなく見ている存在の方でしょう、つまり私です。

自我は無我を感じることができない

自我は無我を感じることができないから苦しむ

目の前に心穏やかな至福に満ちた老人がいてその人が最高の師であるにも関わらず、多くの若者はその老人には見向きもせずモノ、ファッション、ゲーム、SNSに走っていきます。なぜ目の前に至福な存在がいるのに自我丸出しの若者はそこには興味を持てないのでしょうか?それは自我は無我を感じることができないからです。自我には目の前の至福な老人が理解できないのです、なぜ至福なのかを全くわからない、、、思考には至福を感じることができません。だから思考が求めるモノ、自我が求めるモノは常にピントがずれているのです。思考や自我、エゴが求めるモノは常に形あるモノなのです。それは自我には無我(安堵、平和、愛)を感じることができないからです。

むしろ失うことでの気づきが多い

大切な車を事故で失った若者は最初大いに苦しむはずです、自分のアイデンティーティーであった大好きな車を事故で失った若者はショックでしばらくは眠れなくなるかもしれません。ですが1ヶ月、2ヶ月もすればそのショックもなくなり今までの精神状態に戻ります。車を失ったという事実は変わらないにも関わらずなぜショックが癒えたのでしょうか?車を自我の一部として所有し自我が大きくなっていると感じるのが錯覚だからです。そもそもが錯覚で自我が大きくなっていただけのこと、車を失うことで実は本質は何も失っていないのです。むしろそれによって自我が小さくなったならばその分無我が大きくなるということです。

失って見たら実は平気だったという気づき

私は大学進学に失敗し一年間の浪人を経験しました、それまでは学校に順調に行っていたので学校に行っていないということ、同級生との足並みから外れることに怖さを持っていました。ですが実際に浪人を経験してみると非常に居心地がいい。ドロップアウトすることがこれほど肩の荷が降りるとは全く思っていませんでした。キャリアに傷がつくということを恐れ続けていた感情は一体どこから来ていたのだろう?自我の策略です。自我は順調にキャリアを積まなくては大変なことになると脅し続けていたわけです。ここが私にとっての最初に気づき、自我が恐れていたことを真に受ける必要はないということでした。

倒産、闘病、投獄、、、この三つを経験した成功者は多い

倒産、闘病、投獄、、、これらは現代社会においての地獄、全部を失う状態です。この状態を経験した人間がそこから成功するのが多いというのは理解できます。人間の自我が最も恐る状態を経験した人は、、、実はその状態でも何も失っていないことに気づきます。全自信、全信頼、全人間関係を失っても実は平気だということに気付いてしまうのです。失うと大変になるのが実は自我の策略でこれを失っても本質(無我)は何も失っていないのです。無我とは何もないということ、、、この状態が歓喜、平和、愛なのです。

口に出して独り言を言うか、頭の中で独り言を言うか

口に出して独り言を言えば精神病

例えば電車の中でひたすらに独り言を言っている若者を見たら精神病ではないか?と疑うはずです。なぜならば彼は自分が独り言を言っているのに気づいていないからです。独り言の多くは自身には自覚がなくそれゆえ周囲からは病的に見えるのです。病院で診断を受ければ病名がしっかりとつくでしょう。ですが頭の中だけでグルグルと回る独り言、これは周囲は気づきません。そうなるとその人は病院に行かない限り自分を病人だと気づかないと言うことになります。現代人はこの頭の中での独り言を半端なく言っているのではないでしょうか?悟りの観点から説明すればこれは機能不全、負の感情自然発生状態です。

独り言がグルグルと頭を回れば要注意

頭の中をグルグルと思考が回るのが何が悪いのか?その前になぜ頭の中をグルグルと思考が回るのか?と言う話です。結論から説明すれば負の感情を一生懸命思考で解消しようとしているのです。明日の仕事に行きたくないな、、、この感情が湧いてきたらどうしたら解決できるか?あの上司が悪いのか?自分が悪いのか?仕事のやり方を変えて見たらどうだろう?いっそのことを転職をしてみたらどうか?このように思考がグルグルと巡ります。昨日散々考え回したのだからなぜ今日もそれ行っているのか?これは絶対に考えません、なぜならば今日も間違いなく負の感情が湧いてくるからです。それをなんとか解決しようと精一杯なのです。思考がグルグルとめぐれば回る回転数に比例して負の感情が湧くという地獄のスパイラルに人間は簡単に陥ります。

口に出して独り言を言うまでこれは続く

思考の暴走を一旦許したら最後、、精神病になるまでこの思考回転は続いていきます。負の感情は延々と沸き続けそれを解消すべくさらに思考がグルグルと回転を始めます。回転数が増えれば増えるほどに自我が強固に肥え太りさらに負の感情が湧くという地獄ループです。真面目な人ほどこのループにハマりやすいのは考えて解決を図らなければという責任感からです。能天気な人、考えるのが苦手な人はこのループには入りにくいモノです。負の感情は思考の活動、自我の活動こそが湧かしているという事実をいかに早く見つけるか、そして一旦それが分かったらもうこのループに入らないことです。

幻の認識は幻の終わり

我々は真実をただ認識すればいい

「この自分は間違いなく居る」これは自我が作り出した錯覚のメカニズムです。このメカニズムをいかにしたら脱却できるか?探求者は自我の存在を知りながらもではそうしたらこれを脱却できるかに心酔します。幻の真実はそれを幻と見抜いた瞬間なくなるということです。つまりこれは幻であることを体現するほかありません。知識のレベルでこれをいかに知ったところでそれは知識であって概念です。お寿司とはこういう味だ、、、こんな情報を1万回聞いても本当のお寿司の味は理解できません。悟りもこれと同じ先ずは体感し自我が幻であることを理解するほかありません。

大ピンチの状態、、、自我が抜け落ちる

突然の交通事故、街での喧嘩騒動、隣家の火事、震災、、、こんな非常事態に実は人間は楽になっています。急に頭が軽くなり気分が晴れているのを知っているでしょうか?火事場の糞力ではないですが緊急時とは普段の数倍の力が出ます。この状態は思考が抜け落ち自我が抜け落ち無我、ワンネスの状態です。スポーツ選手ならば知っているはず、余談を許さないような試合中いつもは重苦しい頭が劇的に冴えている、、これが無我です。この状態は誰でも知っているのです、ただこれを意識的にできない。なぜか?それこそ自我の妨害です。

毎日積極的に無我になることで幻は消えていく

無我の状態の気づきとは、、普段は自我が気分を視界を重くしていたんだな、、です。自我がただ不平不満、負の感情を湧き出させていたのだなという絶望的な気づきです。この気づきを積極的に行っていきます。積極的に無我に入っていくのです。全ての作業、全ての仕事、全ての会話、全ての雑事に対し無我で取り組むのです。もしくは負の感情が湧いてきたらそれを集中して観察します、積極的に負の感情を観察する観察者になるのです。そこから無我に入ります。人間活動の全てを無我への入り口に変えるのです。その時に気づくのは自我こそが人間を苦しませていたのだな、、というジョークです。

思考が見せる世界の成れの果て

名前をつけた世界は生気がない

もしもあなたの前にある世界が曇っているならばそれは名前をつけた世界に生きています。もしも目の前の世界が生気を失っているならばそれは生気を奪っているのはその方の思考です。小さい子供が公園や家に居てもひたすらに楽しそうにしているのは見ている世界が輝きているからです。そこから少年は知識を延々とつけていき見える世界に名前がつけられラベルが貼られていくことで見える世界から生気が失われ行くのです。人は名前がつけられた世界にいると名前がついたモノしか見えなくなっていき本質から離れて行くのです。

例えば一日中ニュース番組を見ていてば

例えば朝起きてそこから一日中ニュース番組を見ているとしましょう、恐らく夕方ぐらいには目の前にある世界が曇っているはずです。どんよりと重苦しい世界が目の前に広がっているはずです。もともとどんよりしていたわけではありません、あなたの思考が世界を分裂させて生気を剥ぎ取ったのです。負の感情が湧く、それを思考で解決していく、、、この循環に陥っていきますと大人になればなるほどに世界は分裂していき生気を失っていきます。

本当に欲しいのは知識ではなく知恵

我々現代人に必要なモノは知識ではなく知恵です。この世の真実を照らす知恵が必要です、そうしないと知識ばかりが増えていき世界から生気が失われていきます。生気を奪うのはあなたの知識、思考です。知恵とは何か?知恵はこの世をシンプルに捉えていきます、シンプルに捉えていけば思考もシンプルで大丈夫になっていきます。必要な知識は徐々に減らせていけるのです。日経新聞の隅から隅まで読んでみてください、、恐らく見える世界から活気がなくなっているはずです。これは知識です。このブログを読んでもらいもしも視界に光が射してきたならばこの内容は知恵ということになります。