心の雑音が視界を濁らせ居心地の悪さを生み出す

心に雑音があることに気づく

我々は思考を使うことに対し一切の違和感を感じません。思考は自分のモノですからどれほど使い倒しても問題はない、思考を使うのはタダですから使い倒さないと損、とばかりに思考を使い倒します。特に自身の思考に絶対的自信を持つ人ほどに思考を使い倒すでしょう。ですがこの思考活用こそが心に雑音を生み出しそれが視界を曇らせます。思考が行う決めつけはそのまま我々の現象界を歪ませそのように見せます。思考が行うレッテル張りは現象界にその部分を浮かび上がらせそれ以外を見えないようにさせます。思考そのものが悪い存在なのではありません、思考の使い方が人生を苦しくさせているという話です。

思考を使えば使うほどに自我を強固にしていく

自我とは自ら我と書きます。この全体が存在する世界に自我という全体とば別個の意識を持った存在が生まれました。この自我はどのように形成されたのか?先ずこの自我は体というモノと大きく関係します。体という生命体が先ずありそれをこの全体とは全く違う個別の意識が宿った存在とみなすことを自我と言います。人間の体には脳が存在しその脳が思考を使ってそれを持続させるのです。この体からみる世界にはただ全体だけが映るのですが映る世界にレッテルを貼り付けることでそのレッテルに意識が集まりそこを集中して見るようになります。すると他は見えなくなるのです。我々人間は全く同じ景色を見ているようでいて実は全く違う世界を見ているのです。だからこそ生き易い人と生きにくい人が存在するのです。住んでいる世界が実は違うのです。

居心地の悪さを自ら作り出す

自らを全体から完全に分離した存在であると錯覚することで、全体に在る人間、モノ、植物、動物も完全に分離した存在であると見えるようになっていきます。全てはバラバラ、、と誤解が進んでいきます。ですがこれはどこまで行っても誤解ですからこの誤解は苦しみを生み出します。たった一個のエネルギーしかないこの世界を別々分離したモノの寄せ集めであると誤解すればそれは事実は違いますからおかしなことが起きるわけです。それが負の感情です、得体の知れない負の感情が湧いてくるわけです。負の感情とは誤解の強さが生み出しているだけなのです。この人間の体がどこまで強く誤解しているかがそのまま苦しみの深さになるのです。

所詮誤解だから誰でもどこでもこの誤解は解ける

人間の苦しみとは誤解の強さです、ここに頭脳、能力、体力などは一切関係がありません。どれほどまでにこの体を全体から切り離して見るかが苦しみの強度になります。本来はたった一つのエネルギーしかなくこの体も全体も何も分離はしていません。分離していると思い込むエネルギーが存在しているだけです。分離していると思い込むエネルギー(自我)をいかに弱めていけるかが幸福、安堵、平和を日々感じていけるかの鍵になります。自我にとって厄介なのはこの自我の行動を見抜かれることです、だからこそエックハルト自我の動き、思考の動き、感情の動きをひたすらに観察せよと言うのです。

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