明日震災で全てを失うかもしれないのに

形あるモノになぜしがみつく?

人間は形のある動物です。だからやはり形を信頼します。人は見かけが9割という本がありますがまさにそれ、、、内面を見る力がない人間はとにかく形にこだわるのです。日本人はロリコン、、これは最悪な評価しか日本人ができないことの証明です、形でしか判断がつかないのです。この状態は人間発達における機能不全と言っていいでしょう。西洋の文化がここ100年以上日本に流れ込んできて形あるモノへの関心がとてつもなく高くなってきました。これは同時に人間が人間として生きているとても苦しい状況なのです。

形が形に興味を持っている期間

人間という形あるものが形に興味を持つのは当然といば当然です。小さい子供は一日中オモチャで遊び倒すように形あるモノへの興味は尽きることがありません。ですが人間はある時この形あるモノの限界を知ります、それは自分自身の形への限界かもしれません、もしくは形あるモノをかき集めても満足できないという限界かもしれません。形あるモノの宿命とは形の限界に突き当たるということです。これが絶望であると同時に無への開眼なのです、無という広大無辺な存在への開眼が人間の絶望にあたります。

無は常にここにある、興味を示さないのは常に有(自分)

有(体)は常に有(物質)に興味を持ちます、有をかき集めれば幸福が続くと真剣に考えるのです。ですがその道中にあって何度も絶望的な体験を繰り返すことに、それは大失恋かもしれない、大失敗、倒産、投獄、大借金、裏切り、、、有を信じ切った有(体)の絶望体験です。もう有に頼る、依存するのは辞めよう、、、これをいかに早く気づけるかが無への入り口になります。形あるモノへの関心興味が壊滅的になくなった時に自分(有)の中にとてつもない偉大な無があることに気づくのです。有(自分)を常に観察し認識し続けてきた存在、、確実に私はいると言い切れる根拠こそが別次元の自分(無)です。全てはこの自分(無)の中でこの有としての自分ドラマが繰り広げられてきただけだったという驚異的な気づきが起こります。

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