真逆

常識

悟りとは世の中の常識とは全くの正反対です。真理とは常識とは真逆です。だから真理を伝える者は嫌われます、恨まれます。常識を守って守って守り尽くしてそれでも裏切られ続けた者が辿り着く場所が悟りです。一般常識糞食らえ、そんなことでは幸福になれないと悟ることが悟りです。世間の期待に応え続け、、結果的にそれが裏切られ、、どこにも答えがないと知った時に、、、導かれるのが悟りです。

これは守って当然だよね

社会で生きていますと、、これってどうしても増えていきます。。目上を敬うって当たり前、、飲みの席では上座に座ってもらって、若輩者がお伺いを立てる、、、色々色々これって当然だよね!!が増えていく、、、しかしながらそれと同時に苦しみが増える、、、have toと増やせば増やすほどに、、、苦しみが増えていく。。。。それが真実です。この真実と向き合う覚悟ができた者が悟りの挑戦権を得るのです。

常識人こそ

あいつは良識を持っている、大人だ、、、そのような人ほどに覇気がなく苦しんでいる、年老いていく。。。これが真実です。世間的には常識人、良識人こそが苦しんでいる。。。なぜ????そのルール全部宇宙には存在しないルールですから!!!!残念!!!地球人が勝手に考えた都合の良いルールです、、残念!!!!だからだからこのルールを重んじれば重んじるほどにこのルールによって苦しみます。

指摘ではなく受け入れ

柔道黒帯

柔道の黒帯有段者は、、白帯者の手技の全てを見切り、、一切駆け引きに応じません。つまりそれによってダメージを全く受けないのです。相手はあらゆる手技を披露するでしょうが、、それによってダメージを受けることが全くないのです。それが黒帯者と白帯者の違いです。だからこそ黒帯者は白帯者に全くダメージを与えずに、、黒帯への階段を指し示すことができるのです。これが理想的な人間関係です。

自我の動き

無自覚な自我の動きに対して、、自覚者は、、一切の駆け引きに応じません。そして無自覚な自我の動きによってダメージを受けることもない、、相手はめげずにあらゆる手技を披露するでしょうが、、それによってダメージを受けることが全くないのです。だからこそ自覚者は無自覚者に対し一切のダメージを与えずに自覚の道へ誘導できるのです。無自覚者の行動によってダメージを受けている期間は自身が目覚めるように努めるほうが先決です。

ダメージを受けたら

無自覚者のあらゆる技によってダメージを受けたならば、、それは自身にまだ無自覚な部分があるということ、、、そこを自覚するのです。自我の動きを見切っていないのです。こちらが相手の動きによって感情を揺さぶられてしまうということは、、まだ見切っていないのです。そこが問題なのです。そこから自覚に入ります。そこから気づきに入っていきます。

要注意人物

自我の指摘

自我による無意識の活動を指摘すると、、相手(自我)から要注意人物に指定されます。無意識の自我の活動の言語化は、、自我の活動を強く制限しますから、、生命活動の危機と自我は捉えるわけです。ゆえにその相手を徹底マークします、次にまた指摘を受ければ、、、自我が解体するダメージを受けると信じるのです。よってこの関係は緊張感が強くなり良好な関係にはなりにくい。

準備ができれば

周囲の自我活動の指摘は、、、危険なのでやらなくていいのです。自我解体をする準備ができた人間だけが勝手にそれをするのであって、、周囲から大きなお世話で、、それをやってもほぼ無意味です。無意味にも関わらず、、ダメージだけを与えればそれは争いになるに決まっています。そうではなく無意識の自我の動きを受け入れることで安心感を与える大いなる存在であるほうが平和です。

受け入れる

無意識の自我活動の受け入れは、、、大いなる存在でしかできません。無意識の自我の活動は、、損得、駆け引き、の人間ドラマですから緊張感が付きものなのです。つまり本当は苦しいのです、この関係は。にも関わらずそれを受け入れる、、それに反応しない、、ができれば、、相手の自我は救われるのです。相手の自我は緊張感のある関係を放棄できるのですから。そしてこの受け入れているのは誰だ????という疑問を相手に提示できます。

無意識の自我(寄生虫)の動き

指摘

無意識の自我(寄生虫)の動きを他人の中から発見した際に指摘をするとどうなるか???恐らく怒りを露わにしてくるか恐れ慄いて逃げます。どちらにしてもとてつもない緊張感を相手に強いることになります。なぜか????自我とは無意識活動であり、、意織してしまったら消えてしまうのです。ゆえに相手の自我(寄生虫)はそれを指摘(意織化)されることを強く強く避けるのです。つまり相手の自我(寄生虫)が暴れてその事実をうやむやにしようとします。

ドラマ

自我(寄生虫)は無意識下で、、人間ドラマを作るのが大好きであり作らなくては消滅してしまいます。そのため無意識に、、相手を挑発したり、マウントを取って苦しめたり、もしくは嫉妬妬みを誘導したりと、、、余念がないのです。そこを突く、、あなたは今私(寄生虫)にこのようなことをしてこのような感情を起こそうとしていますよ!!!と指摘すれば「本当だ!!!!」が起こってしまい、、つまり自我(寄生虫)の手技が見破られてしまうのです。これをすると今後将来この手技が使えなくなってしまいます。これを避けたいのです、やっていることは無意識下でこそ行われるのであって、、まさか自分が、、マウントを取ったり、相手に妬み嫉みを誘導したり、混乱させたりをしているとは自覚していないわけです。自我(寄生虫)の動きは全て無自覚なのです。

無自覚

自我(寄生虫)の動きは無自覚下で行われ、、全自覚とは、、自我の動きの解体を意味します。「私」が「あなた」に手技を仕掛ける、取引を行う、、のは、、、「私」と「あなた」の戦いであり、ドラマであり、、これによって、、、「私」が生存していくことこそが自我の狙いです。喧嘩を売って「私」を強烈に自覚したいのです。「私」はこうやって生き延びます。そしてこの世界に「私」が強烈に存在する以上、、生き延びれはしても幸福には絶対になれないのです。

自我(寄生虫)を殺す

自我の動きを指摘するとは自我の腕をもぎ取るようなものです、、ですからこれを自我は強く強く抵抗します。逃げる怒る、、なんでもします。実を言えば、、相手の自我を指摘する必要はありません。この指摘は多くの場合上手くいかないのです。そうではなく相手の中から無自覚な自我の動きを観察するだけで十分です、、他人の自我の動きから、、自らの自我の動きを理解し、、自我を解体していきます。それで十分価値があります。周囲の自我を解体するなど、、これは争いの種でしかなく、、意味がないのです。

自我(寄生虫)ゲームから抜けると

幼稚園の先生

幼稚園の先生は、生徒の誰が人気者で、誰がモテて、誰がスポーツ万能です、誰が勉強が得意で、、、ということで心が惑わされることはありません。別にどの生徒がある分野で秀でてようと劣っていようと全員が可愛いのです。自我(寄生虫)ゲームから抜けるとそのような感覚で人を見ることができます。見るというよりも感じるのです。自我(寄生虫)に振り回される人々を過ぎ去った過去のように懐かしく感じるのです。

寄生虫を自分と信じる

自我の動きは間違いなく寄生虫のようなものです。自我は不幸に依存しています、、不幸を自ら作り出すという動きは至福からすれば寄生虫のようなものです。これをベースに体を支配するのですから自我とは寄生虫です。この寄生虫に人生を牛耳られた状態は、自暴自棄の状態とも言えます。つまり誰しもが自身で自身を痛めつけながら生きているのです。その状態を見て、、恨むとか怒るとか責めるとかの感情が湧かなくなります。

優劣

自我(寄生虫)は優劣にこだわります、なぜか?????苦しいからです、、苦しいから人よりも幸せであるという盲信に縋りたいのです。比較の中でしか自分は幸福に違いないと信じることができません、ですが本当に幸福であるならば気にするはずがないのです。本当においしいラーメンを食べた時に、、、あのラーメンよりもとか、、他店の味を気にするでしょうか???しないです、、だって今幸福だから。つまり比較したいが起こっている時点で不幸なんです。

〇〇よりはマシ

今の仕事は辛いけど、、〇〇よりはマシだよね。。。この仕事収入少ないけど〇〇よりはマシだよね。。。比較の中で安心する自分が居たら要注意です。不幸です、、今不幸だから、、比較の中でしか安心できないのです。多くの方は比較の中でなんとか安心して生きます、これは不幸と不幸を比較して安心するというテクニックに過ぎません。本当の幸福とは比較をしようが抜けた状態です。

自我(寄生虫)が強めの人

綺麗事

自我が強めの人に大いなる存在があってとか、、神であることを忘れてたんです、とか、、、認識しているのが空なんです、、とか、、、全く通用しないです。それは全部悟った後に気づくことですから、、、気づきもしないことを延々と語られても意味不明です。その人にとって気付けるのはありありと存在する自我とペインボディでしょう、、、この二つは強烈に感じることができますからそこから悟りに入ります。

人の不幸

自我が強めの人は人の不幸が大好きです、、この事実から自我の存在に気づけます。自我が強めの人は過去を振り返って人を恨んでいます、そこから自我に気づきます。自我が強めの人は被害者になる時もニヤっとする自分の存在を知っています、そこから自我を認識します。とにかく自我が強いのですから、、自我を認識しやすいのです。そこを逆に利用します、徹底的に自我が強いことを利用して悟りに入ります。

自我活動

自我が強めの人は自我活動が活発ですから、、、自我観察は容易です。だから自我観察を毎日毎日行います、あれ???いまこんなこと考えてた、、あれ今ペインボディがこんな感情を発信したぞ、、それに対してこんな思考を回転して今ペインボディが餌にしたぞ!!みたいに。こうやって分かりやすい自我の動きを逆利用して自我を極めていきます。自我を極めるのは誰でしょう???本当の自分です。

自我(寄生虫)と自我(寄生虫)の会話

戯言

私を主語にした世の中の会話とは自我(寄生虫)と自我(寄生虫)の会話です。つまりこれは戯言です。つまりこの会話には一ミリも意味などありません。この会話を大切にする必要は一切ありませんし、重視する必要もない、気にする必要もないのです。むしろ自我(寄生虫)がどのような会話をするかだけ観察すればいいのです。あいつ(寄生虫)あんなこといいやがって、あいつ(寄生虫)俺がいないとこで影口言いやがって!!!みたいに気にしたら負けです。自我(寄生虫)が発する言葉を信じちゃだめです。

心配も期待もしない

人生何にも面白いことないし、これから俺(寄生虫)はどうしたらいいんだろう????このような心の声を気にしないでください。心配も期待も何もしなくて大丈夫です。寄生虫がこのような不安を湧き起こすのは、そこから思考の渦を起こして、、その渦を餌にするのが目的です。自作自演です。だから無視してください。そこに意識を向けて解決方法を考えることこそが自我(寄生虫)の作戦です。

あなた(寄生虫)の将来が心配なの

親の自我(寄生虫)は言うでしょう、あなたの将来が心配なの、、、と。無視です、完全に無視です、、、自我(寄生虫)は幸福になる方法を一切知らないのですから、、そんな存在から将来の心配をされる筋合いがないんです。本人(寄生虫)が不幸だからこそ、、、、心配をしています。人の心配をしている暇があるならば本人(親)が幸福になる方法を知ったほうが良い、とアドバイスしてあげてください。憎むべきは親ではなく親の中の寄生虫(自我)です。

自我(寄生虫)の俯瞰

私を中心にしたストーリー

私とは寄生虫です、私がこうされた、私がこうした、、全て寄生虫のストーリーです。よってこれらが湧けばそのまま苦しみになります。私は寄生虫ではありません、私とは大いなる存在です。ですから私を主語にした瞬間に、もしくは私を主語にした思考が湧けば、、、そのままストレス、苦しみになるのです。この苦しみを解消するためにさらなる思考の渦が起こります。こうして人は苦しみから抜けられなくなります。

寄生虫(自我)を見抜く

つまり自我の活動の全てを見抜きます、、自我は無自覚下で動くので見抜けばそれで終わるのです。なぜ自我は無自覚下で動くのか????それはこのシステムは人を全くもって幸せにしないからです。システムが明るみになれば自我は確実に動けなくなります、完全犯罪、完全詐欺が行われているからです。

事実として反映される

「私はこの体である」この思考はそのまま事実として反映され、、不足感、分離感が生まれます。これが苦しみのメカニズムです。この思考は真実ではないのですが、、そのまま反映されます。このままでは苦しいので、、この解消方法として、、、私がこうなればこの苦しみは解消されるはず、、、という思考がさらに起こります。この思考が事実として認識されることでさらなる「苦しみ」が起こるのです。

何ものかになろうとする自我(寄生虫)を無視する

なったところで

自我(寄生虫)は何者かになろうとします、、基本的に不幸ですから何者かになることで不幸を脱却できるとそう囁くのです。まんまとこれを信じて盲信したところで、、、何者かになるのも自我(寄生虫)ですから、、苦しみが終わることは絶対に絶対にないのです。自我(寄生虫)が大きくなってより不幸になるのです。

何者かになろうとする自我(寄生虫)

自我が呟く、、こうなったら幸せになれるかもよ!!!は全部嘘です、、、なぜならばそうなるのは自我(寄生虫)だからです。寄生虫はこの体の中で絶対に存続しようとしますからあらゆる提案を持ちかけます、、ああなったら、あの家を手に入れれば、、あの車を、、あの彼女を、あのポジションを、あの名誉を、、、、しかしそうなるのは自我(寄生虫)ですから絶対に幸福にはなれないのです。

寄生虫の駆除

至福に至る唯一の方法とは、、寄生虫(自我)の駆除です。この寄生虫を大きく大きく育てても、、何にもならずむしろ、、、この寄生虫(自我)を駆除する以外に方法がありません。ではどうしたら駆除できるか????自我に餌をあげないことです、、、、餌とはネガティブな感情、ネガティブな思考なのですがこれを発生させない。あらゆる出来事、感情、ニュースなどを利用してこれを発生しようとする自我(寄生虫)の企みを見抜くのです。

相手の自我(寄生虫)を相手にしない

本当の思いやり

本当の思いやりとは相手の自我(寄生虫)に迎合するのではなく、、、自我を無視して、、その奥に潜む本当の相手に話しかけることです。自我を形成している大いなる「存在」に向かって話しかけるのです。あらゆる取引を無視して、、その先に居る本当のその人と話をします。これこそが優しさです。自我(寄生虫)は右往左往するでしょう、、ですがそれに無視で応えます。自我の動きを完璧に見切って自我を観察する存在としてお互いに接するのです。

どうすれば????

こんなことが最近あって本当に困っちゃって!こんな感じでこちらの自我(寄生虫)に向かって相談が来ても、、それも全部自我(寄生虫)観察の練習問題です。二人でこの寄生虫(自我)の扱いを学んでいくのです。店員から馬鹿にされて怒っている、、そのような相談ならば先ずは話を聞いて、、、、その店員さんの自我の動きを解説します。すると自我の動きを見切ることになり、、その方をその地点に導けるのです。

自我の見切り方を教える

相談には全て自我の見切り方を伝えていきます。その人の自我は恐らくこういう目的でそれをしてきましたね!!ならば簡単には引っかかってはダメですよ、もしもそれに反応したら、、向こうの思うツボです。といった解説になります。自我解説黒帯保持者のように、、その練習問題を自我見切り稽古のようにするのです。相手はそうか、、そんな見方があったのか、、と感動するはずです。