至福

都会の喧騒で静寂を感じる

都会に静寂なんてあるのか??

田舎に行けば誰でも感じます、静寂を。鳥の声、虫の音、川のせせらぎ、全てが静寂を与えてくれます。不思議な物で虫の声が激しい場所ほどに静寂を感じるのです。おかしいですよね、虫の音が煩すぎるのに静寂を感じるのです。大自然からの音は全部静寂から発生しているのです。だからこそ田舎に行くと静寂を感じるのです。大自然の中に行きたい人は静寂に触れにいっているということです。では都会に静寂はあるのか??都会にも確実に静寂はあります、ですがこれは真夜中の静かな時間という意味ではありません、大都会の喧騒そのものが静寂から生まれているということです。これは言葉で説明しても分かるわけがありません、静寂に触れ続けた結果としてそれを感じることができるということです。

友人との会話の中で静寂を感じる

友人との会話の中で静寂を感じるなどできるのでしょうか??本当にお喋りな友人との会話で静寂を感じるなどあるのでしょうか、、答えはあります。なぜならばその友人そのものの現れも、言葉も全部静寂から浮かび上がっているからです。これを言葉で理解することはできません。日々静寂に触れ続けることでこのことが分かってきます、感じてきます。全部静寂から浮かび上がっているだけなんだなーが湧いてきます、静寂から。

言葉で理解したら実践に

悟り本を読み漁る、悟り系の動画を見まくる、、、これは全部意味があります。言葉で悟りを完璧に理解してしまう、、これはこれで大いに重要です。ですが悟りは感じるものです、静寂は感じるものです、至福は感じて初めて価値があります。至福を文字で理解して満足という人は居ないでしょう。悟りとは感じるもの、だとすれば日々どれだけ感じまくるかです。釈迦は突然木の下で悟った、、これも起こる可能性はあるでしょう、ですがそうでないケースの方が多いはずです。幼少期に何十万回と名前を呼ばれ続けて「自分」を身につけたように何十万回「静寂」に触れ続けて静寂になる方が現実的(静寂)です。

人に会えば会うほどに孤独感を感じやすくなる

相手は必ず自分感覚を強くする

人との会話とは「自分」と相手を生み出します。相手は必ずこちらの名前を呼んできますからそこには確実に名前が付いた存在を感じるわけです。自分という感覚が強化されるに決まっているわけです。だからこそ人は孤独になると人と会いたがりそして人と会うとでより分離感、孤独感を強めていくのです。友達は多ければ多いほどに良い、これは自分感覚が強い証拠になります。自分とは本来存在せずこれは感覚でしかありません、この感覚が強化されればされるほどに分離感、孤独感は強化されるのです。

一人の方が楽、、は至福と友達である証拠

一人の方が楽、、これは孤独感が強い人には無理な発想です。自分という感覚が強い人には信じられない発想です。ですが一人が楽というのは本当です、一人の時人は自分を意識しにくくなります、呼びかけてくる相手が居ないからです。そして何かに夢中になって静寂を知り、目を閉じて静寂に触れることができれば常に静寂(至福)が目の前にあることを肌感覚で知っています。静寂の場所、至福の場所がいまここにあることを知るのです。

至福が常に在るのに人に会わなければはない

自分から静寂、至福に会える人が、、人間という相手を渇望するということはありません。1日に何回か会話ができればいい、に切り替わっていきます。自然とそれが起こります。そして常に静寂の中に入りたいが起こってきます。常に至福に包まれたいが起こってきます。この衝動が起こり始めると悟りは近い、人間よりも静寂、至福への渇望が起こっているのですから。

孤独を感じやすいのは静寂を知らないから

人と居るよりも静寂が心地よい

人と一緒に居るのが好きな人は自分感覚が強い人です、自分感覚があれば分離感、孤独感は湧き出し続けますから自然と人と一緒に居たくなります。私は一人ではないを感じることが出来るからです。ですがこれは分離感自体を減らすことではありませんから常に誰かと一緒に居続ける必要もでてきます。静寂を常に感じることができる人は人を必要としなくなります。静寂とは根源であり根源とは至福です、至福に触れ続けれる人にとって人は逆に自分を意識する存在になりますから疲れるわけです。人と一緒に居て疲れるのは相手は話しかけて来ますから自分を意識しやすくなるのです。分離感と一人ではないが沸き続けます。

目を閉じて静寂に入る

人はいつでも静寂に触れることができます、それは目を閉じることです。目を閉じれば名前がついた物が消え去ります、物が消え自分も消えます、、熟睡中に孤独感を感じないのは当たり前でそこには自分という感覚が存在しないからです。起きるとなぜ孤独感を感じるのか?それは自分を意識するからです。目を開くと自分の所有物が飛び込んできますし、体も飛び込んできます。これによって自分とあらゆる物という幻想の世界が広がるのです。目を閉じると幻想の世界が消え去り静寂の中でただ音がする世界が広がります。これを1日に何度も行います、すると自分という感覚よりも静寂に触れる時間の方が増えていきます。孤独感が消え去り静寂に包み込まれていきます。

何かに夢中になる時

人は何かに夢中になる時我を忘れます、実はあの時間は静寂に包まれています。何かに夢中になっている時に雑音が凄まじかったという記憶はないでしょう、何かに夢中になれる人は体感で静寂を知っている人です。そしてこの静寂が心地が良いために人に会って孤独感を埋めるよりもより何かに夢中になることを優先するのです。静寂に触れる方法の一つです。

1日に何回も目を閉じる、ただそれだけ

目を閉じれば全部が消える

目を閉じれば私が今見ている世界の全てが消え失せます。目の前のパソコンも、カーテンも、観葉植物も、TVもソファーもそして自分も、、、本当にこの世から消えるのです。あるのは何か、それは音だけです、それとソファーに座っている感覚だけです、、、これ以外が本当に消え去ります、これが事実です。もしも目を閉じた状態での暗闇以外に何か物が存在したらこの世界は完璧ではなくなってしまいます。目の前に全てがあるから完璧なのです。もしも目の前(暗闇)以外に何かがあるならば目の前(暗闇)は完璧ではなく不完璧になってしまいます。これが事実です。先ずは事実だと思って目を閉じていきます。

何もない時に至福が襲ってくる

この世界は全部元々至福で構成されていますから目を閉じた真っ暗な状態も至福が構成しています。ならば目を閉じて自分を消してしまえば至福が襲ってくるはずです。いや音がするはずだ、、そうです音がします。それはただの音のみです、人の声がする、、それは声のみです。声を発する人は絶対に居ません、いてしまったら暗闇が完璧ではなくなってしまいます。それは音だけです。そして音を聞く自分も消え失せていますから本当に音のみになります。いや耳で聞いてるではないか???いいえ耳は存在しません、体が見えていないのですから。見えないものは存在できないのです。

至福に入るトレーニングをする

我々は幼少期に喜怒哀楽に入るトレーニングをされてきました、何万回という声かけによって自分が居るという感覚をトレーニングされてきたのです。3、4歳時には完全に自分という存在が湧き起こるようになり、、自分の物を取られた、自分が虐められた、自分が仲間はずれにされた、、と悲しくなるが湧き始めます。。喜怒哀楽のドラマにしっかりと突入していきます。その反対を行います、毎日いつでも目を閉じてこの見える世界を消してしまいます。そして自分という感覚も消してしまいます。音だけが湧き上がる世界にしてしまいます、すると至福が襲ってきます、なぜならばこの世界は至福で出来ているからです。

至福しかない世界でどうやって苦しむことができるか

この世界は至福で構成されている

信じられないかもしれませんがこの世界の構成材料は至福です。至福が原料でこの世界は構成されています。ですから我々はいつでもこの至福に戻れるのです、原料が至福ですから。だったら早く至福に戻してくれ、、、大丈夫焦らなくても、自分という感覚すら至福を原料に構成されていますから自分という感覚が消えれば即至福に戻ります。じゃあ早く自分を消してくれ!!自分という感覚を湧かし続けるのも至福です、苦しいの原料も至福です。自分という感覚が起こらなくなれば即至福になります。その時を待つしかありません。

1日の中で自分が居ない状態を作ってしまう

目を閉じれば自分が居なくなります、何を言っているのか??違います、本当に目を閉じると自分が居なくなるのです。目を閉じればこの体が消えてなくなります、あとは自分という感覚だけになります。人は視覚に頼る動物ですから目を開けば強烈に自分を感じます。そうなってしまっているのです。ですから意図的に目を閉じて体を消してしまうのです。この世界は五感が感じることができないものは存在できません、これは答えです。といことは目を閉じるだけでこの世界は半分消えたようなもの、この体も確実に消えます。その時に強烈に自分という感覚を維持することが逆に難しくなります。

積極的に自分という感覚を消していくトレーニングを

何十万回という究極のスパルタトレーニングで「自分」という感覚を作り上げたのですから「自分」を消すにも徹底的なスパルタトレーニングは有効です。その一つが目を閉じてこの体を消してしまうというトレーニング、つまり瞑想です。あとは何かに夢中になる時間を多く作ること、その時自分が居なくなるはずです。私はこのブログ制作を徹底的に夢中に行います、無我夢中でこれを行います。これは実は瞑想なのです。目を閉じて自分を無くすか、無我夢中になって自分を無くす、、目的は同じです。自我の終焉です。

目を閉じると自分が消える

目を閉じてみる、すると自分が消えて楽になる

我々が五感で感じることができない物は実在できません、目を閉じればこの体を見ることができませんからこの世界から自分が実際に消え失せます。目を閉じたときには音楽や香りは感じることができますからこの世にはそれだけが実在することになります。この体が消え失せ自分が消滅します。自分がはっきりと視界に入ったときにしっかりと分離感が湧くことを実感してみてください。この事実に触れていくと楽になっていきます。

熟睡中は完全に自分が消滅する

熟睡が至福なのは自分という感覚が完璧になくなるからです。自分という感覚が無くなったときにこの世界は完璧な至福になります。至福は常にいつも目の前にありこの至福を感じなくさせているのはこの自分という感覚です。夢を見ている時は至福ではありません、そこには自分がまた登場し世界が不完璧になっていきます。この事実をしっかりと認識してください。自分を感じると至福が消え自分が無くなると至福にいつでも包まれます。

消えると至福に包まれるならば自分という感覚を捨てたい

自分という感覚が消えたら至福に包まれるならばいつだってこの自分という感覚を捨てたいものです。ですがそうは問屋が卸さない、何十万回と名前を呼ばれ続けこの自分が居るという感覚が染みつきまくっているのです。両親から、先生から、友人からも名前を何十万回と呼ばれ続けることで自分感覚中毒になっているのです。自分を意識するトレーニングをスパルタ的に学んだようなものです。ですがこの事実をしっかりと理解することで徐々に徐々にこれが紐解かれていきます。

今が輝かなくなるのは先(思考)を自分(思考)が見ているから

いつからか世界の輝きが無くなった

小さい頃は世界が輝いて見えていたのがいつの間にか曇って見えるようになり重苦しい世界に住んでいるように感じるようになりました、中学生ぐらいになる生徒の表情から純粋無垢な輝きが失せ重く背負ったような表情をするようになります。将来のために勉強しなくては、将来のために我慢しなくては、将来のために良い学校に行かなくては、、、こうして自分(思考)は将来(思考)というファンタジーを見て生きるようになります。どちらも思考であり実在がない世界に入っていくのです。今しか生きていないのに将来(思考)を見て生きているのですから苦しいのです。そして将来を見ているのも自分という思考です。

自分というのはアイデア

自分という存在はこの世界には実在しません、自分という存在はどう考えてもないのです。あるとすればそれはアイデア、概念です。ですがこのアイデアに固執するということが根源から起きますと見える世界を「自分」が見ているということが起きます。アイデアである自分がこの世界を見ているが起き、起きる現象は全て「自分」にとって有益か無益かで判断する(思考)が起きます。完璧しかない世界が不完璧に見えるが起きます。それはありのままの世界を思考というフィルターを通じて見るが起こるからです。

苦しいが起きたときにそれがどこから起きたかを感じる

完璧が不完璧に見えるが起きた世界に居れば苦しいが起きてきます。この苦しいは根源の現れですからこれも根源の表現、愛の表現です。苦しいが湧けば苦しいのですがそれも愛の表現であることを感じます。こうやって事実を思考を入れずに観察していきますと常に根源の表現に触れていくことになります。一日中が事実の確認になっていきます、事実は全て根源の表現でありそこに至福があります。

自分という感覚を作っただけ

自分という感覚が湧いているだけ

結論を言ってしまえばこの世界は自分という感覚が湧いただけ、、それによって自分に向かった世界が湧き出しつまりファンタジーが誕生しました。自分という感覚が湧き出さなければこの世界は常に全体そのものでありパーフェクトです。パーフェクトでしかない世界を自分感覚が不完全に見せているだけです。完璧を不完璧に見せる装置こそが自分感覚です。ですからこの自分が感覚に過ぎない、実在しないことを気づくが根源から起きた時が悟りです、そこには根源しかなかったということです。

自らを分ける、自分

自分という言葉に解答があります、自らをす分ける、、、自らとは何か、、全体です。全体を分けた存在、感覚こそが自分です。自分とは感覚に過ぎず実在ではない。だから自分とはどこまでいっても自分なのです。自らを分けたという感覚が自分です。それはあくまで感覚ですからそれは事実ではないのです。この事実ではない自分が居るという想定に作られた世界こそがこの現実と呼ばれている世界です。事実はないことを根底に作られているのですからこれはファンタジー、空想です。

ファンタジーは苦しいぞ

事実とは根源、至福、愛です、そこからファンタジーを作り出すことで苦しさが生まれ出します。自分とは全体から分かれた存在が居るという感覚から生まれ出したファンタイジーですからそこは至福、愛から遠ざかった場所、苦しい場所なのです。自分が主人公のこのファンタジーは苦しいからこそここから抜け出したいという欲求が生まれこの主人公は右往左往する経験を積み続けます、この経験こそが至福全体にとって貴重な経験になるのです。ですがこの経験は苦しさを伴いますからそこから抜け出したいという欲求が湧き出したのならばそれは自分感覚が実在しないことを見破り全体に戻る時がきているかもしれません。

悟りへの欲求が無くならない理由

みんなどこかで気づいている

みんなどこかで気づいています、この世界に生きている限り本当の幸福には出会えないということを。どんな目標を達成してもどんな夢を叶えてもどんな称賛を得ても絶対にそれでは満たされないことを知っています。頭で考えて足を知るを実践しよう、欲張った生活をやめようと心がけてもそれで満たされることはない、、、私たちは本当の幸福にいつか出会えるのだろうか?と思うのです。

ストーリーの世界には至福はない

私が居る、これを認識しながら至福に至ることは絶対にありません。私が居る世界には至福はない、、ここは幻想の世界、妄想の世界、、息苦しい世界なのです。全員が息苦しいのですから争いは絶えず、競争も絶えない、奪いの世界、餓鬼畜生界になってしまうのです。もしも苦しみから解放されるには解脱しかない、、解脱とは「自分が居る」という記憶が抜け落ちることです。

先ずは無間地獄を理解する

どこまで幸福を追いかけても至福には絶対に至らないということを先ずは理解することがこの地獄を緩和する一つの方法です。このストーリーの中でこれを追いかけても幸福を手に入れるのは「自分」ですから難しい。この自分は記憶が作り出した思考であり幻想、実態がないのです。ですからこの自分を幸せにすることは不可能なのです。この自分が幻想であることを見破りこの自分に振り回されないようにする、この自分の幸福探しに付き合わないことが重要です。

自分の幸福探しはキリがない

自分の幸福探しは地獄の始まり、この自分を幸福にさせようと頑張れば頑張るほどに地獄に入り込んでいきます。この自分を幸福にしようと頑張ってもちっとも幸福にならない、むしろ苦しくなっていく、、なぜならばこの自分は実在しないからです。実在しない自分を幸福にしようなど不可能なのです。この自分が嘘であることに気づき五感を開いていきます。自分を作り出す思考主体の世界から五感という根源の世界を開くことで根源に近づきます。

何もないに戻ることに価値はあるのか?

最上級のワインを飲んでみる

価値があるかどうかが思考として湧くのはそれに触れたことがないということです。醤油ラーメンと味噌ラーメンどっちが好きかを考える人はいません、経験にすれば分かることです。これは悟りも同じこと、根源に触れることに価値があるかどうかは経験すればわかる、経験するまでは答えはでないということです。至福に一回でも触れた人間がそこに興味が失せることはないでしょう、価値があるかどうかの思考が湧いている期間はまだ至福に遠い場所にいます。

最上級のワインも最上級のヒレ肉も、、飽きる

なぜ最上級のワイン、車、ホテル、住居、異性、、、全てに飽きが来るかと言えば、、、それは全体の代替品に過ぎないからです。根源、全体そのものに戻らない限り、、「自分が居る」という思考に縛られている限りこの代替品を貪り続けることになります。代替品を貪るが湧いてきます。代替品を貪るから全体に戻るには代替品を貪ることが意味がないことを経験する必要があります。全ての代替え品には飽きがくることをいかに早く気づくかです。代替え品に飽き切った人がさらなる代替え品に興味を持つとは思えません。

根源、全体は飽きない

根源、全体に飽きることはありません、飽きるという思考が湧かないからです。思考と自分はセットであり飽きるという思考は自分が居るがあってこそです。ですから根源、全体に戻れば飽きはこない、それまではとにかく飽きに襲われます、人格者と呼ばれようが徳が高いと呼ばれようがそんな評価には一切関係なく飽きがきます。体の中に自分が居るという思考が湧き続ける限り全体の代替品を貪り続け飽き続けます。