悟り(非二元)解説

神は何を望むのか???

何も望んではいない

神は何を望みこの世界を誕生させたのか?????何も望んではいません。神が何かを望むということは神には何かが足りないというとになりますは神は最初から全知全能です、、、全てを知っているのですから今から何かを知る必要はないのです。何かを知るためにこの世界を作ったとしたら神は全知全能ではなくなってしまいます。そして神が何かを手に入れるためにこの世界を作ったのならば、、神は全能でもないくなってしまうのです。

無限の存在

神は無限の存在であり最初から無限です、、、この世界は無限の存在の神が、、自身が無限であることを鏡に写った自身ん姿を見て、、、認識します。空は無限であることを自覚しない存在であり、、神とは空の一部であって無限であることを自覚する無限の存在です。無限であることを自覚するのですから、、最初から無限なのです。ですから我々が今見る世界とは無限の現れです。

常に新しいが

今目の前に広がる世界は完全にフレッシュであり、、これからもそうです。そこで起こる体験は完全にフレッシュであり、、これからもそうです。新しい体験をするためにこの世界はあるのか????いやいや神は最初から無限の存在であり神が知らない世界はありません。そうではなく無限の表れの再確認です。神を鏡に写すとそうなるということです。

求める

悟り、お金、地位、名誉

人間は求めます、、求め続けます、悟り、覚醒、目覚め、お金、地位、名誉、結婚、パートナー、家族、マイホーム、マイカー、学歴、、、、、、求めるのが人間の性です。この求める何かは全部「家に帰りたいという衝動の代替物」です。だから求めていいのです。そしてこの個人が何かを求め続ける限り、、家には帰れません。そこに気づきます。個人をやっているから「苦しくて」家に帰りたくなるのです。

何もしていない

個人とはとんでもない代物で、実は何もしていないのです。自動反応、自動反射で全思考、全行動、全感情がただ起きては消えているのですが、、、この全てを自分がやっているという思考が起こりそれが定着したのが自我です。ですから自我とは裸の王様、、何もしていないにも関わらず全部やっていると勘違いする存在「自我」です。この存在の登場によって「違和感」が常に起こり、、この「違和感」を消し去るための思考感情行動こそが「求める」という動きです。

達成

「自我」はあらゆるものを違和感解消のために手に入れ、達成していきます。物、地位、名誉、お金、称賛などなど。ところがこれによって、、、自信をつけていきます。。自我という存在に尾びれ背びれが付いていき、、大きく大きく成長します(錯覚として)これによって益々違和感が大きくなり得なくてはいけない対象(代替品)が大きくなっていくのです。ギャンブル中毒者が、、、少しの勝利では満足しなくなる、、アル中が少しのお酒では満足しなくなる、、全く同じ現象です。

気づく

全く満足できないどころか対象が徐々に徐々に大きくなっていくことから、、もうこの先には満足がおき得ない、、という気づきが突然起こります。このまま満足に向かって歩いても満足は起きない、、、という気づきです。そこで照準を悟りに向けるのです。悟りとは自我の終焉です、自我の実態を暴き自我に執着できなくなる流れです。自我とは実は何もしておらず、、そのことを暴くのです。

完璧の勘違い

自ら

この世界をもしも自分が作っていると想像してみましょう。太陽、雲、空、ビル、マンション、車、、、、、もしももしも自分が作っていると思ったらとんでもないことです。太陽が出てると思ったら月だった、、、車に乗っていると思ったら、、自転車だった、、、雲がでていると思ったら生物だった、、、が起こらない。。生まれてこの方とんでも現象が全くないのです。これを退屈と捉えるか完璧と捉えるかです。

実際

実際のところ我々の本質は空『不変の自己』です。つまりここから全現象が起こっています、、この現象にはとんでも現象が起きないのです、なぜ??????完璧だからです。そのことに皆気づいていません。毎日毎日完璧な太陽が昇っていることに気づいていない。温暖化と言って大騒ぎする前に、、、毎日毎日地球が自転してういることに気づきましょう。それだけでとんでもないことです。

この私

この体の中の私だけが「ジャッジ、審判、判断」を下し、、この環境に優劣良否成否をつけます。この私にとってどうかを考えるのは、、この自我エゴだけです。これだけがこの完璧な環境に文句をつけて、、、不機嫌になります。この私とは完全に不幸依存症でしょう、、不幸の種を探し回る不幸依存症です。そこに気づきます、、実は何にもしていない自我がジャッジをつけて、、文句を言い続けているのです。

自我の濃淡

調子

調子が悪い時、、相手の体の中に自我を強く感じます。調子が良い時、、相手の体の中に自我を感じません。取引、駆け引き、さじ加減がない。。。不幸な時、、相手の体の中に自我を感じ、、こちらの自我も強く感じます。幸福な時は相手の体に自我を感じずこちらの体の中にも感じない。自我とはイメージであり、、こちらの体調、調子によってイメージを強化するか弱化するかが決まるようです。

守る

こちらの調子が悪い時、、この体を守ろうという強い意識が生まれるために、、相手の体の中の自我(イメージ)をしっかりと捉え、、格闘技のようになります。こちらの調子が良いと守る必要が少ないために相手の体の中に自我というイメージを作る必要がなく、、スムーズです。ですが調子の良い悪しがなぜ起こるのか????自我があるというイメージを植え付けられて、、これを守ろうとうとする努力が、、疲弊を生み調子の良し悪しが生まれます。これは負のスパイラルです。

調子が悪い時

調子が悪い時、、、自我が収縮し、プラスのイメージを持てないわけですが、、その時に、、決して居心地が悪いだけではないことに気づきます。自身が小さく小さくなってしまった時に、、、とんでもなく居心地が悪いわけではない。。ここに気づくのです。日本人はお辞儀、会釈など、、小さく小さく振る舞う文化を持っていますが、、これは自己卑下ではなく、、その居心地の良さを知っています。

出張らない方が楽かも

出しゃばる、出張る、、、実はこの方が苦しいのです。自分というイメージを大きく大きく見せてそう感じる時の方が苦しいのです。このセルフイメージ自我は、、イメージゆえに大きく見せ感じることもできますが、、その時の方が苦しいわけです。逆に、自我が出しゃばることができないような状況、、緊急事態、緊急要請時、、実は居心地が良いのです。

気づく

自我とはイメージであり実在ではありません。この体の中の全行動全思考全感情を自らが起こしているという勘違いが起こり、、その自らとは「私」のことであるという勘違いが続きます。勘違いの大ホラ吹きこそが自我です。実際には全部が全自動全反射です。ここに気づきますと、、自我というセルフイメージが消えていきます、、役職を失います。本当は何もしていなかったという気づき、事実は自我の存在を消します。

子供

幸せ???

子供の頃に「俺って幸せだろうか?????」などと考えることすらしません。なぜか?????お気楽に生きている時に「幸せ」という言葉すらも嘘くさいのです。幸せって言葉は恐らく不幸を感じるようになって使う言葉でしょう。そうです、幸せを意織する時点で不幸なんです。大人は幸せかどうかを気にしますが既に不幸だということです。

個という概念を実在と信じればそこには「争い」「奪い合い」「取引」「損得」が発生します。生きていくには、、競争に勝たなくてはならない!!!になりますね。ですが野生動物は本当にそこまで争いを起こしているのでしょうか????野生動物に奪い合いという感覚はあるのでしょうか????恐らくないですね。。。個という概念を作って初めて奪い合い、取引、競争が生じたはずです。だから個は実在ではなくアイデアであることにもう一度立ち返る必要があります。

責任

人間を苦しませている大きな大きなアイデアの一つが「責任」です。これがないと社会が回らないのは仕方がないのですが「自由意思」がないという真実から説明すれば「責任」というアイデアは酷いアイデアです。誰一人明日の私の行動は一切分からない、見当もつかない、ノーコントロールなわけです。そしてそのことを心の奥では「全員が知っている」わけです。だから苦しい、明日は我が身、明日は我が身、、、全員が全員知っているのです。文春砲という言葉が流行っていますが、、全員が文春砲の標的になり得ることを分かっています、だから過剰に反応するのです。

個というアイデア

必須のアイデア

個というアイデアはこの現代社会で生きていくには必要なアイデアです。名前がなければコミュニケーションが取れません。そしてこの世界ではその個が自由意志を行使してこの体の全ての言動を決めているという「概念」で動いていますから、回っていますから必要です。犯罪が起こった時はこの「個」が責任を背負いますしそうしなければ便宜上社会は回らないわけです。ですが実際にはこの体の動きは完全に反射、自動運転、縁起です。

使い分け

マリオの世界では完全にこの動きは自由意思でありそう感じます。ですが真実ではこの動きは完全自動反射、縁起、自動運転です。花がどのタイミングで咲くかに意志の動きはなく、、それはこの人間の動きと同意です。人間社会においては自由意志は100%あるように感じますから使い分けが必要になるのです。むしろ「自由意思」「自己責任」を強く意織した方がこの社会ではちゃりやすいでしょう。根本の部分では自由意志がないことを自覚していれば「方便」として上手く使えます。

個を実在として捉えると

個はアイデアです、概念です、素晴らしい??発想です。ですがこれを実在として捉えると途端に「苦しみ」の渦に巻き込まれます。病気になれば「私」は死んでしまうのか????経済不況時には「私」は生きていけるのか????常に常に悩みの中心にはこの「私」が居ます。全てはこの個を「実在」と捉えるから起こる問題です。個は便利です、ですが実在ではありません。この使い分けができるか否かが人生をお気楽にできるか深刻にするかの瀬戸際です。

社会通念

ごもっとも

「自由意思」これを認めることは民主主義の根底であり、、正義のような扱いです。そして自由意志は100%あるように感じますからこれを社会が認めるのは至極当然です。子供、大人、老人100人に聞けば自由意志はある!!!と100%が答えるでしょう。ですがないのです。我々は外部環境に対する「反応」を自由意志と呼んでいるのです。

中華屋の前で

中華屋の前を通ります「ニンニク、ごま油、香辛料の香」が香ります。。。。「ラーメン食べたい!!」がある人間の中で生まれました。。。。これを「自由意思」と呼びます。。。。これ反応です、、外部からの内部反応です。自由意志でしょうか?????本当に自由意志ですか????我々は生まれて死ぬまでこれを連続で行っているのです。

反応

我々は外部によって刺激された内部の反応を自由意志と呼びます。TVを見て何かが反応する、、Yahooニュースを見て何かが反応する、、友人との会話を通じて何かが反応する、、、これを延々とやっているのです。これを自由意志と呼んでしまったことから、、、責任と呼ばれる重い重い重りを背負わされ、、生きています。

誰も何も決めていない

環境からの刺激に内部環境が反応し内部環境の反応に外部環境が反応する、、ただこれだけが起こっています。本当は何も起こってもなくただ反応反射だけが起こり続けているのです。自分が居るという思考すらも外部環境からの反射であって悟りとは「自分が居る」という思考の反射が起きない状態に至ることです。そのために真実の認識に至るのです。真実の深い認識が「私が居る」という思考の反射を止めます。

情報断捨離

要らない

情報というのは入れれば入れるほどに起こる現象、目の前の現象をその情報越しに見るようになります。例えば〇〇ホテル倒産か?!というニュースを見れば、、、そのホテルを見た時に「これがあの倒産するかもしれないホテルか!!!」となります。そのホテルのありのままの景観ではなく、その背景を見るのです。つまり余計な情報はありのままの邪魔になるのです。

不倫騒動のボクサー

ボクサーの試合を見る前に、、そのボクサーの不倫疑惑のニュースを見ます。。。するとそのボクサーがそのように目ます、試合中に。ところが後日、そのニュースはフェイクだった!!!が起こった場合、、困惑します、、あれ、、そうだったの????です。そう見えていたにも関わらず違ったのでこちらが困惑するのです。つまり真実以外の情報はその人の人生を貧しくします。その人の人生が情報の量だけ貧しくなるのです。

豊かに生きたいのならば

豊かに生きたいのならば、、入れる情報を精査した方が良いのです。余計な情報はそのままありのままを貧しくします。必要な情報は勝手に入ってくると腹をくくりこちらからはあえて入れない、、そのぐらいの気持ちでちょうど良いのです。それよりも真実に触れます、全く情報を削ぎ落とした真実に触れていきます。真実についている余計な思考、情報を意識的にシャットアウトします。人間を貧しくするのは真実にくっついてくる余計な思考情報だと見切るのです。

現実が変わり始める

真実に触れる

真実を真実と見抜き触れていきますと、、現実が変わっていきます。景色からモヤが消えていきます、音がハッキリと聞こえてくるようになります。目の前の観葉植物を見るとそれがグワッと主張してきます。音が聞こえる時、音の余韻が残ります。お酒、タバコ、などの刺激物が要らなくなります。刺激過多に感じるのです。朝の目覚めが良くなり体に良い食事を求めるようになります。

欲が無くなることが気持ちが良い

どう見られるとかが気にならなくなります。友人関係などの執着が消えます。刺激を求めてはいたが同時に刺激に縛られていたことに気づきます。時間はいきなり多く持てます。達成すべき目的が消え、、まるで楽園に居るかのようにここに居ることに満足を得ます。周囲のストーリーへの誘いに敏感に気づくようになり、そこに騙されなくなります。

反応するかしないかを決めれる

人間関係においても相手はただこちらの発言態度に反応しているだけなのに気づくので、、そこに反応するかしないかを決める余裕が生まれます。つまりまるでゲームをやっているかのうような気楽さが起こるのです。クッパの動きはマリオに反応するだけです、、全く同じように人間関係を読めるのです。そこには深刻さが芽生えません。どこまでも意図があるように見えますが、、ないのです。。。なぜならばこちらもないからです。

「自由意思がない」に戻る

最強

結局のところ、、人間が「苦しみ」から解放されない一番の理由は「自由意思」です。この自由意志が100パーセント、100%あるように感じるところが大きな大きな壁なんです。この大きすぎる壁があるがゆえに人間は自己責任自己責任というビッグワードを振るって「事件」を毎日毎日毎日作り上げています。今日のYahooニュースを見てください「責任」に関わることばかりです。責任を負わされる人間は苦しみ同時に追わせている我々も苦しむのです。

早期退職

早く退職して楽になりたい、、、なぜ?????「責任から逃れたいのです」大きな大きな責任を背負わされそこから逃れたいのです。自由意志があるという前提で組み立てられた「責任」ってやつに牛耳られた状態から逃げたいのです。ですが本当は自由意志はありません、よって責任を負わされる「誰か」は居ないのです。ここに戻ります、会社員をやりながら戻るのです。すると何かが楽になります、首になってもしょうがない、部下がミスってもしょうがない、、深層ではそうなります。

誰も責めない

深層では自由意志がないことに気づくとYahooニュースを見ても何も思わなくなります。なぜこの人は???が起きないのです。だって自由意志がないのですから。ワイドショーの展開「なぜ??この人が????」に興味が持てない、、、だって「やらされただけ」を知っているから。そして誰にでも優しくなれます、誰も責める気になりません。責めてもどうしようもないから。表面上は責める形を取っても深層では全く責めていないという仏になります。