雲の動きに因果はない

雲に名前をつけて

雲のある部分を犬、雲のある部分を猫、、、この二つの雲の動きは全く予想がつきません。犬がより大きくなったり、猫が小さくなったり、、時に犬と猫がぶつかって犬が壊れてしまったり、、これを因果で説明すれば、、あらゆる説明が付くことにはなりますが実際にはただ雲が動いていただけです。因果など全くないのです。因果とは流れの中に理由という解釈をねじ込んだに過ぎません。

雲の動きは因果ではない、、流れだ

雲の動きはただ変化していきます、、そこに理由はないのです、、その一部に名前をつければ犬が大きくなったり、小さくなったり、怒った表情になったり、笑顔になったり、、ですがこれは変化がそう見えているだけです。因果というような理由はないのです。犬の形をした雲が、猫の形をした雲に近づいたから、、犬が笑顔になった、、、違います、、たまたまです、、本当は犬も猫もいません。

何十年因果に縛られればいいのか???

私はこうやったから失敗した、、こうやったから成功したんだ、、次はこうやったら上手くいくのでは????何十年間こんなことをやれば済むのか????雲の動きはただの流れのように、、人間の形をした雲の流れがどうなるかは雲にも分かりません。雲の形の変化に人間はあらゆる理由を付けたがりますが、、、全部こじつけです。真実ベースで言えば、、ただ変化だけがある、終わりです。

時間はない

雲の動きはただ変化します、、ただそれだけ、、、変化はあるが、、時間は存在しません、、本当は。変化しているからそれを繋ぎ合わせ、、時間が存在するというアイデアが生まれただけです。本当はただ移り変わる雲が存在するだけです。移り変わることに気づくことができるので、、時間というアイデアが突然浮かび上がったのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。

全ての動きに自分を感じる

風が動く、、

風が動く、、この動きが自分です、、風を感じる、、この感覚を起こす力が自分です、衝動を感じる、、この動きこそが自分です、、森羅万象全ての動きを動かす存在こそが自分です、、どこまでいっても自分しか居ない、、、ただこの自分は最大限偉大な存在、この自分以上に偉大な存在は居ない、、そして自分以外も居ない、、全動きを起こす全存在が自分だということを意識して生活します、、、すると、、人間関係が変わる、生活の全てが変わる、、全現象に気づきが起きます。

自分がやっているという絶対感覚

子供は川で魚を見ると興奮します、、、なぜならば魚を動かしているのは自分であることを知っているからです、、魚を魚たらしめているのも自分、川を川たらしめているのも自分、魚を見るという行為も自分が作り出しています、、、だから興奮する、、、それが大人になると何も感じない、、ただ魚が居るだけ、、終わり、、自分が完全に魚と分離している、、だから興味も湧かない、、、

本当は魚であり、魚を動かしている、、、

本当の本当は魚を魚として動かしている張本人こそが自分自身です、、この感覚を子供は覚えている、、だから興奮してしまう、、、自分がこんなすごいことをやっているという喜び、、、はっきりと感じる万能感は嘘ではない、、俺が雲を作りその雲を動かしているという絶対感、、、そう今も全部を自分が作り出しています。

幻想だから落ち込める

究極の現実は平和

なぜ落ち込めるのか?それは幻想の世界に居るからです、、幻想の世界に入り込んで居るときだけ落ち込むことができます、、、この幻想では地獄も天国も状態としてあるからです、八方塞がりも状態としては確実にあります、、この自分が居るという大前提でしか周囲を塞がれるという感覚を持つことはできません。実際には周囲を塞がれる個人が居ませんから八方を塞がれても落ち込むことはできません。

究極の現実は生命そのもの

究極の現実は、、我々は生命そのものです、、生命そのものですからこの体、このコップ、この光、この雲、、全部を動かす生命そのものです、、、その中に思考が生まれ、感情が生まれ、この体の中に自分が居るという感覚が生命として起きているだけです。ですから我々は全生命そのものなのです。この体を動かす生命と、このコップを動かす生命が別々だという事実はありません。

幻想に入り込むという生命の動き

幻想に入り込むのも生命の動きです、、幻想の中に入り、自分が居て、相手が居てという現象が起こるのも生命の動きです、、そして我々はこの幻想を作り出す全生命です、、その実感が無いだけ、、、ですが実感が無いのも生命の動きです、、そこに突然全体だという気づきが起きます、生命の動きとして。。これが悟りです、ノンデュアリティです、、ユニティーです、、、。

雲は動く

雲の中に個人は居ない

雲の中に鳥のような形が生まれます、、この鳥はいつの間にか生まれいずれ無くなるでしょう、、形の崩壊です、、、、この鳥の誕生と消滅には意味があるでしょうか??ありません、、、この雲の動きには狙いがあるでしょうか?ありません、、、雲の動きは森羅万象の動きでしかない、、そこに鳥が生まれ、人間が生まれ、、ドラマが生まれる、、、これも森羅万象の動きでしかありません、、、ドラマに没入するのも自由、ドラマと見抜いて没入から離れるのも自由、、没入は疲れる、、非没入は疲れない、、、ただそれだけ。

今目の前にも、、、

今目の前にも、、、ドラマが起きてますよね、、、完全な森羅万象の動きに、、、勝手にラベルを貼り付け、、、共有した意味を持たせ、、、ドラマを共同で作っていますよね、、そこに没入すれば疲れ、、没入から離れれば疲れない、、、、ドラマに埋没すれば楽しい時もある、、、ただ疲れる、、、ラベルを剥がしてしまえば、、森羅万象の動きに戻ります、、、意味を持たせるにはラベルを貼ってドラマにするだけ、、

この現象は雲よりも動きが遅いだけ

我々が見ている世界は雲よりも動きが遅い現象です、森羅万象の動きです、、、雲の動きに後悔や心配は起きないのは、、雲だと見抜いているからです。。。。我々の動き、、、もただの森羅万象の動き、、時計もコップも、、実はゆっくりと動いている、、、心も動く、、、我々の活動、我々を取り巻く環境も雲のように動くのみ、、何を心配し、何を後悔するのか???何一つこの動きをコントロールなどできないのに、、、

盲目的人生の終焉

自分が見えていない

自分が見えていない、、、これを盲目的にと表現しますが、、、、人類がおかれている状態こそまさにこれです、盲目的、、、、本当の自分という存在に全く気づかずに生活しています。。本当の自分の存在など、、全く関心を寄せずに生活しています、、、、まさに盲目的でしょう、、、、これで幸せになる????不可能です。・自分の存在を完璧に忘れてしまっているからです。多くの時間を無意識で生きていることになります、なぜならば本当の自分とは意識だからです。

いや、意識はあるよ、、、常に

そうです、、、在るのです、、常に、、、常に意識はありますね、、、その意識がなぜかこの体の中に在ると勘違いを起こしています、、、、自分として。。全く別形態の存在として体の中に自分として存在していると錯覚しているのです、、、これは大変なことです。ご飯を食べている感覚を所有するのは体の中の私、音楽を聞いているのはこの体の中の私、、、思考しているのはこの体の中の私、、、、という捻れ現象が起きています。

いや、意識は外にあるよ、常に

本当の意識とは、、、この体に起こることの全て、、太陽の光、鳥の声、、、雲の流れ、、、全部に気づく存在です、、、これまでこの体が経験してきた全ての経験に外から気づいてきた存在です。意識がこの体を通じてあらゆる経験を所有してきたのです。この体の中の自分ではなく、、、、。そしてこの体の中に自分が居てその自分があらゆる経験を積んできたという思考もこの存在が気づいてきました。

実は何も起きていない

映像、音、香り、触れるのみ

覚者の言葉で何も起きていないんですよ、全ては無です。という言葉がありますがこれは真実です。私たちが今見ている光景は映像です、映像だけがあります、いやそこに雲があるがそれは水の塊ではないか??違います、雲という映像があるだけです。水は存在しません、今は。ですがヘリコプターに乗って雲に接近しそれに触れればその瞬間水の映像と触れたという感覚が生まれます、これは事実です。そしてこのコップの映像、ですがコップは実在しません、ですがこれに触れた時に触れたという経験だけが起こります。これは事実です。

何もないも本当

この五感を使って見たり、聞いたり、嗅いだりしない限り、、この世界には何もありません。五感が感じた瞬間根元が現れます、経験として。バナナを食べるまではバナナは映像です、映像だけが確実にあります。そして食べた瞬間噛んだという経験が起こります、これは根源の現れです。そしてバナナの香りがします、この香りは根元の現れです、この瞬間だけ起こります。お風呂に入る時それまでは映像だけです、入った瞬間、お湯を感じる瞬間その感じるという経験だけが起こります、これが根元です。

何かが在ると思っているけど経験しかないぞ

何かが在ると思っていますが実際には経験しかないではないか、、そうです、映像を見るという経験、触ったという経験、匂ったという経験、聞こえたという経験、この経験だけが事実です、根元です、自分自身です。これ以外は全部思考想像感情です、これは事実として起こります。これだけです。友人Aの映像があり、その中には感情が湧いている、、これは嘘です、感情を感じていません、、体験として、、、これで分かってきました、、この世界は間違いなく在りますが私たちが思っているような在り方は全くしていない、、在るだろうという想像以外は何も起きていないのです。

目を閉じると悟りが迫ってくる

幻想の世界からの脱却

あらゆる生命現象に名前を付けた我々人類は目を開けば勝手に名前が迫ってきます、我々が物を認識できるのは名前を覚えたからです。完全な根源からの現れの中で物を発見できるのは名前を覚えたからです。大草原の中から鳥を見つけることができるのは鳥という名前を覚えたからです。ですから目を開いた状態で目の前に根源の現れがただ在るということに気づくのは不可能です。本当は鳥も、猫も、木も、雲も全部実在などしません、それはただの根源の現れに過ぎないからです。目を閉じるとこの名前がついた分離体が消え去ります、目の前には名前が一切ない暗闇が広がります、、そして静寂から音が湧くのだけを感じればいいのです。目を閉じるだけではっきりと静寂から音が湧くのを感じます。

見える世界こそが幻想の世界

目を閉じると根源を感じ、目を開くと物が入り込んできます。この名前がついた物が入ってくる世界こそが幻想の世界です、名前などないにも関わらず名前が付いた物がしっかりと入ってきてしまいます。しっかりと幻想の世界が飛び込んでくるのです、「自分」に。この幻想の世界から抜ける方法があります、目を閉じて幻想を締め出すのです。幻想を締め出すと現実が入ってきます。そして音が鳴った時にこれは鳥の声かな?これは子供の声かな、これはヘリコプターの音かな?という発想を捨てます。ただ音に触れます、ただ音が湧くのを感じます。音を発する何かは存在しません。根源、静寂からただ音が湧くのを知るのです。最後は目を開いていても静寂(根源)を感じることができるようになります。幻想の世界の中に居るのに根源が湧き出してきます。幻想も全て根源(静寂)でできているのですからそれも当たり前です。

名前など実在しない

名前とは音です、音の組み合わせで成り立っています、、これは実在しません。りんごという生命現象は存在しないのです。ある生命現象にりんごという音を付けただけです。しかし我々はリンゴが視界に入るとリンゴを生命現象の現れからしっかりと切り抜きします。空間にりんごという分離物体が登場してしまうのです。これが幻想です、幻想を作り出す天才に人間はなってしまったのです。この幻想を終わらせる方法がただ目を閉じること、これだけです。目を閉じて音だけをしっかりと聞きます、思考が湧いたならばその思考が静寂から湧くのを感じます。幻想ではなく根源から音だけが湧くのを感じます。これが根源に触れる、根源を感じる方法です。

全てを自分ごとにする癖

全ては自分に向かって起きている

事実ではこの自分という存在とは何も関係なく現象が起き続けるだけです。自分など何も関係なく現象が起き続けそしてこの自分の体を通じても様々な事象が起き続けます。これを止めることができる存在は居なくただ淡々と事象が起き続けるのです。本当にただこれだけです、風が吹き、太陽が周り、雨が降る、この体も動き、発言もし、思考もする、、これが延々と起き続けています。そこに自分が居るという思考が湧き起こると事象は自分に向かって起きているという思考もまた起きるのです。

今までも自分とは何も関係なく起き続けこれからも起き続ける

これまでの自分人生もこの自分とは何も関係なくあらゆる事件が起き続けました、そしてこれからも同じように起き続けます。その事象を自分に向かって起きていると捉えるが起きるのか、自分など存在せずただ起き続けると捉えるかによって人生の重みが変わってきます。自分に起きたが湧くのか、ただ起きたが湧くのかです。事象に名前というラベルが貼られているこを見抜くと自分というラベルも剥がれ落ちていきます。

自分以外のラベル剥がし

自分というラベルを剥がすのは難しいものです、ですが周囲のラベルを剥がすのは意外と簡単まずはそこからスタートしましょう。雲という決まった物質は存在せず空に薄く広がった白い模様を雲と呼んでいるだけ、川という決まった物質は存在せず陸の間を流れる水を川と呼んでいるだけ、海という特定の物質があるのではなく水が広がる彼方を海と呼んでいるだけ、、、名前が付けられた事象は実は区切りなどなく、、こちらの勝手で区切りらしきものを設け呼んでいるだけ、、この作業を延々と続けそこに自分を付け加えたのが我が人生。

ただ生命現象が広がっている

これまでもそしてこれからも私の目の前にはただ生命現象が広がっていきます。名前というラベルを剥がしてしまえばたった一つの根源が移ろっているだけです。そしてそこに自分という個別の生命体など居るはずがない、、自分というラベルを最後に剥がすと全てになります。色即是空、空即是色があるだけです。こんなことが分かって何になるのか?その疑問が湧くうちは分かっていないだけです。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。