自我

本当は分かっている

本当は全員が分かっている

本当は本当は全員がこの究極のリアリティをしっています、いまここ、ナウアンドヒア、悟りの世界で表現されるこの究極のリアリティを全員が実は知っています。何も欲しがる状況がないという状況が起き得ることを本当は誰しもが知っています。なぜか????それは今現在も、、、究極のリアリティの中に我々はどっぷり浸って暮らしているからです。

温泉の中に浸かって寒い寒いと嘆いている

この世界は究極の温泉です、温泉しかないのです、、、温泉しかない場所で、、、寒い寒いと嘆いているのが我々であり、、、、今もその温泉にがっつり浸りながら寒い!!!!と嘆いています。面白いですよね、100パーセント温泉に浸かっているのです、、なぜ寒いと感じるのでしょうか?????だから鳥も魚も、、犬も猫も、、寒い!!!!と叫ぶ人間が何を言っているか全く分からないのです。この温泉にしっかりと浸かりながら寒い!!!って意味不明ですよね。

寒い!!!と感じることができる極暖の温泉

正解はこうです、、この温泉は寒い!!!と感じることができる極暖の温泉なのです。どうやって?????それはこの温泉の中に「自分」という温泉とは全く関係のない存在をイメージで作り出しそれゆえ私は温泉とは全く関係なく孤独に生きていくと、、そうイメージして過ごしているのです。このイメージがあまりにも完璧なので温泉に今も居るのも関わらず寒い!!!!と体感しているのです。寒い寒いと叫びながら温泉にしっかりと浸かっているのが個人という洗脳を受けた存在の特徴です。

呼吸法で抜ける

個人という概念を保持するためには、、自動思考が起きなくてはなりません。要は勝手に思考が湧く状態を維持しなくてはならないのです。この感覚が抜けてしまいますと、、一瞬で温泉に浸ってしまい、、あったか!!!と気付いてしまうのです。ですから、、常に常に常に常に思考が湧かなくてはまずいのです。自我形成とはまさにこれをやるためのものです。これを呼吸法で抜きます、呼吸に意識を意識させることで自動思考が落ちるまで行うのです。景色がしっかりと変わる瞬間までこれを行います。自動思考が抜ければ、、あったか!!!が起こります。

リアリティをこの場で出現させる

思考の住人を追い出す

悟り系のメッセージに触れ、、呼吸法やファスティングなどで体の感覚を鋭敏にし意識を体に向けていきますと、、、リアリティが現れてきます。思考が落ちていき、、リアリティがはっきりと姿を現すようになります。お化けがでたり、霊的現象がでるのではなく、、そのむしろ逆で、、、植物がとんでもない迫力でもって目の前に現れるのです。輪郭がしっかりとし神のアートのように主張が出てくるのです。

この感覚が分かってくると

この感覚が分かってきますと、、もう思考に取り込まれていくことはありません。なぜならば体感としてリアリティを感じるようになり答えがもうそこにあることに気付いてしまうからです。今まで探し求めていたものはこれだったという気づきです、、それはもしかしたらみたいな曖昧なものではなく、、そうだ!!!これだ!!という思い出す感覚です。

幼少期は究極のリアリティに触れていた

自我がしっかりと形成されていない時はいつでもここに居たことを思い出します。そうだこの鮮明なリアリティの中に居たんだと、、、そう思い出します。思考はマトリックスの世界に留まるようにこの景色をずっと隠してきたのです。トニーパーソンズは「オープンシークレット」とこれを表現しますが、、本当にその通り目の前に全く隠れずにそこにあったにも関わらず、思考がひたすらにこの景色を隠し続けていたのです。

これじゃ嫌だ

この玩具じゃ満足できない

自我が芽生えてきますと、、、「この玩具」じゃ嫌だ!!!が起きてきます。嫌だ嫌だ病です。この玩具じゃ嫌だ!!!!はこの後死ぬまで続きます、、この成績じゃ嫌だ!!!この学校じゃ嫌だ!!!!この会社じゃ嫌だ!!!この相手じゃ嫌だ!!!この家じゃ嫌だ!!!この政府じゃ嫌だ!!!!この老後じゃ嫌だ!!!です。本当はこれしかないのに、、これが嫌!!!!なんです。

ここに全部ありますよ

悟り????ふざけんな!!!!です。ここに全部ある?????冗談じゃない、、こんなに不満足なのに何が全部あるだ!!!!ですね、、、、この「私」をこの世界に登場させてしまったが最後、、、これじゃ満足できない!!!なんです。なぜならばこの「私」こそが不満足製造機だからです。

呼吸法

これじゃ嫌だ!!を生み出す大きな要因は雑念が止まらないことです。雑念が止まらない状況は苦しみが止まらない状況なのです。ですから雑念を強制的に止めてしまう、、これが効果莫大なのです。「私」という思考、概念を強制的に止めてしまう、、それが呼吸法です。呼吸に意識を向けて意識的に呼吸を行います、、ハッキリと視界が変わるまでこれを行います。何度もこれを続けていきますとある時、、思考が湧いていないことに気づくのです。雑念が落ちますと、、嫌だ嫌だ!!も終わります。

「自由意志がない」気楽さ

所詮は他人事

自分の行動は自分が背負うべし、、、この考え方がどれほどこの人生を重いものにするかということです。自由意志がないという諦めはこの重さを一気に軽くしてくれます。自由意志って本当にないんです、なぜならば思いつく思考は完全に湧いてきていて、、その湧かすをコントロールできる自我など存在しないからです。過去のデータからもっともベストな回答が勝手に湧いてきて勝手にその通りに動くのが我々なのです。

他人の行動

他人がいかに失敗してもそのことで夜寝れないってないんです。なぜならばこちらには全く責任がないからですよね。自分の行動は自分でコントロールできると信じているから、、自分に起きる出来事に深刻になれるのです。ですがこの自分の行動は全くもってノーコントロールであることが分かると一気に深刻さが消えるんです。だって他人の行動と全く同じじゃないですか。

究極の教え

自分の人生を他人事のように捉えることができますと、、、人生の辛さってほぼないんです。だって他人のことでそれほど悩みませんよね??????つまりもうこれからは悩む必要が全くなくなるんです。自由意志がないというこの真実は人生から深刻さを完全に無くします。同時に過度な期待もなくなるのですがそれが最高なんです、本当はこんな暮らしができたはずなのに、、、がないんです。

呼吸法

これほどの真実が理解できたとて、、思考の渦はなくなることがありません。なぜならば意識が思考を意識している期間があまりにも長いからです。ですから意図的に意識を思考から外す必要があるのです。そのために有効なのが呼吸法、、、呼吸に意識を意識することでその瞬間思考から意識が抜けます、、意識が思考ではなく呼吸に意識を向けるのです。これを1日に何度も行います、思考が湧いたら呼吸法、思考が湧いたら呼吸法です。意志が自動的に思考に意識しなくなるまでこれを行いますと、、、苦しみが消えます。

どんなに滑稽な行動も

ベストな選択をさせられる

酔っ払って昨日本当に馬鹿な行動を取っちゃったなー、、、、残念!!!!間違いなくベストな選択をしています、過去のデータ上。あの時は本当不注意で大失敗したよ!!!、、、残念!!!!その時もデータ上最善の選択が自動的になされています。失敗して、、三日三晩考えすぎちゃった、、馬鹿だよね????違います、、考えすぎるという行動も完全完璧なベストな選択として起こっています。

あの歳は本当に不調で

20歳の時は本当は勘違いが酷くて、、失敗し続けたんだよね!!違います、、データ上完全完璧な選択しか取れないので、、たまたま周囲からはそう映っただけです。それを操れる人格は実は存在しません。自我が存続すると思ってもいいのですがその自我はデータ上最善最適な選択しか選択できないようになっています。つまり全員がそうなのですから、、自我は居ないと思っても全く関係なく人生は進みます。

ただ経験させられるだけの人生って本当は存在するんですか???

結局最善最適な選択をさせ続けられていく人生ならば、、それって人生と呼べるんですか?????間違いなく多くの人が思っている人生とは違いますね、、化学反応上の事実と多くの人が想像する人生とは異なるということです。勝手にそのような行動をさせられるならば、、そのゲームの行方を俯瞰しててもいいぐらいですよね???その通りです。どこで俯瞰するんですか????今ここです。もう俯瞰でいいや、、が起こった時に、、今ここという真の安らぎの場所にどんと座ってこの経験だけをさせられるというステージに入ります。

コメンテーターの勘違い

松本人志問題

今ワイドショーでは松本人志の問題で賑わっています、、、、彼の行動に対するコメンテーターのコメントが、、、、この世界の「苦しみ」を証明するので解説します。多くのコメンテーターは彼の行動に対し、、、もっと慎重に考えるべきでしたね、、、あれだけ優秀な才能を持っていてなぜその衝動を抑えれなかったのか????後輩の今後の人生をもっと考える余裕があったんじゃないか????女性の気持ちを全く分かっていなかったようだ、、、と好き勝手なコメントを言います。

ですが

この真実を分かっていません、、、「松本人志は、、彼の歴史においてベストだと思う選択しか選べない」ということです。彼は常に過去のデータ上ベストだと思える選択しか選べないのです。そういう機械です。つまりベストな選択がそういうことになってしまった、、、という真実しかないのです。もっと違う選択肢があったんじゃないか????という思考前提の議論は完全に的を外しています。

被害者を守らなくていいというわけではない

かといって被害者を守らなくていい、、というわけではありません。松本人志という人間を通した行動が女性を痛めつけたならば彼は責任を取らなくてはならないのです。ですがその彼の行為のシステムが、、ベストしか選べない自我から起きているという新しい視点で観察できるか否かです。その時彼の人格を非難するという無駄な時間は省けます。

それは真実ではない

本当はあの時

本当はあの時こうしとけば良かった!!!!人間ならば何度もこういう後悔は起こるでしょう。。ですがこの後悔の仕方は真実ではありません。真実とは人間はベストしか選べない道具であるということです。その状況でベストと思えるアイデアが勝手に湧いてきてそれを選ぶ道具が人間です。ですからあの選択肢があったというのは、、その経験を積んだからこそでるアイデアであり後悔するというのはポイントがズレています。

ベストしか選べないのならば

ハッキリ言いましょう、、ベストしか選べないのならば、、、自分など存在しないも同じことです。選択肢の中から自由に選べる存在こそが自分であるとするならば、、、それは起き得ないので、、、つまり自分は居ないんです。ベストしか選べない道具=自我とすればそれは真実です。ですからこれからもこの自我はその環境においてベストしか選べないし選びません。

あー私はベストを選択され続けてこうなった

ベストを選択され続けた結果=自分です。そして今後もそれは微塵も変わることはありません。この認識が板につきますと、、人間関係が変わります、、、、その選択をしちゃった友人ではなく、、、その選択しかできえなかった友人になります。その選択を責めるこうとは構造上不可能ということです。降ってきた雨に責任を問うことが起きないように、、人間を判断することは今後できなくなります。

ベストを選択し続ける機械

我々の自我の特性

私はこの人生において一回たりとも失敗をしたことはありません、、、なぜならば私とは過去の経験からもっともベストだと思える選択をし続ける機械だからです。一回たりともベストではない選択をしたことがないのです。そういう意味では人は一回もミスをしていないし、、、そしてこれからもミスをすることはないのです。ただしその選択を後悔するという動きは今後も続きます、、、ですがどれほど後悔しようと、、ベストしか選べないという点で何もそこを動かすことはできないのです。

ところが

自我はベストしか選択することができない機械です。ですが、、、と同時に自我が存続し続ける限り我々から苦悩が消えることもできないのです。ベストを選択し続ける機械は「自分」という存在ありきでベストを選択し続けていきます。ですがどこかでその自分が居ないという気づきが起こる場合があります。自分がベストを選択し続けてきた結果この先には至福がないという気づきが起こるのです。

すると

する次は、、この自分という存在が嘘だということを見抜くことがベストだという気づきが起きます。そしてまたその上でのベストな選択が今後も続いていくのです。悟りが開くまで、、、我々はベストしか選べないこの機械『自我』と共にあります。ベストしか選べないのが自我であるという気づきは多くの癒しを起こすはずです。相手の行動はベストを選んだ結果である、そして「私」の行動もベストを選んだ結果であるという気づきです。

エージェントスミスの最後の逆襲

幻想ではない

エージェントスミスは、、、多くの場合現象としてあなたをマトリックスの世界に閉じ込めようとします。試しに悟りを真剣に開こうと思うと友人家族会社で言ってみてください。。。99%が怪しい目で見てくるか、バカにしてくるか、、嫌悪感を出してくるはずです。つまり応援者はゼロだということです。応援者ゼロの中で悟りを開こうとうする勇者は少ないです。つまりこの戦いは先ずは孤独に耐えないと不可能なのです。

孤独に戦えばエージェントスミスは消える

悟りについて誰にも話さなければ、、エージェントスミスは一切現れません。話をして初めてエージェントスミスは登場します。孤独に耐えながらこの戦いを進めていきますとかなり深く理解できるようになります。ところで多くの場合、、、、思考を使った悟りの理解は進めでしょう、、、覚者の本を読む、YOUTUBEを見る、ブログを読む、、、これらはスムーズに行くものです。ですがエクササイズになると途端に止まります、、なぜかやらしてくれない、、、。

もっと簡単な方法あるかもよ????

エクササイズになった瞬間、、、、思考がざわめき出して、、、やめた方がいい、、、もっと簡単な方法あるかも、、、面倒じゃん、、、、となります。心の中で途端に面倒臭いの大合唱が起こるのです。これぞエージェントスミスの最後の攻撃、自我の存続維持戦略、、エゴの最終兵器です。。。。思考を使わない本当のエクササイズだけはやらせるわけにはいかない。悟りを思考の中で概念の中で理解するのは構わない、、、だが思考なしは絶対にダメだ!!!!です。なぜならば悟りとは思考の世界からの脱却だからです。

子供はワンネス

朝起きて

子供はワンネスです、、朝起きた時に昨日はこうやって遊んだから今日はこれをやろう、、、、一週間こうやって過ごしてきたから今日はこうしよう、、、、一昨日は太郎くん、昨日は大輔君だったから今日は次郎くんと遊ぼう、、、という過去を振り返っての行動をしません。なぜか???それは自我が発達していないからです、自我とは過去が支える幻想です。

過去過去過去

あの時は上手くいったのになぜ今回は???学生時代はこのキャラで上手くいったんだけどなー、、、過去を振り返って自我は、、上手くいく方法を模索し、、今日という日をやります。自我とは過去から延々と連なるストーリー上のキャラですから、、、過去がなかったらキャラが成立しないのです。ですから自我にとっては過去が最重要になります。

過去と自我の関わりに気づく

過去と自我の関わりに気づきますと、、、自我は実はないことが分かります。過去がなかったら成立しないということは記憶が飛べば自我は崩壊します。だからこそ思考で過去を思い出し、形成して、、常にもっとも都合の良い自我をその都度作り上げるのです。