自我

気づく

スーパーに行けば

スーパーに行けば、、陳列が並び、音楽が鳴り、店員さんが動き、他の客が歩く、、、全てに気づく、、気づきの意識が、、その気づいた内容を私が認知した、、、という思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。。お買い得商品に気づき、、商品を購入する、、私はラッキー、、、そういう思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。実はこの全ての行動に「私」は関与していない、、全部気づきの意識が気づいただけだから。

人間は可愛い

人間は可愛い動物です、気づきの意識が気づいたことを「私」が気づいたと全て転換する動物、、、そしてその大前提で思考が湧き続け、、それに気づき続ける、、、本当は気づきの意識が全て気づいているのに。人間だけが自分が全部やっているという信じている、、、そういう思考が湧きそれに気づきの意識が気づいています。

自我が完成すると、、

自我という収縮したエネルギーが完成しますと、、、もうそれだけで苦しい、、、苦しいから次から次へと何か手に入れるべき次の目標が必要になる、友人と電話しよう、お茶を誘おう、お酒を誘おう、旅行の計画を立てよう、もっと良い職場を探そう、もっと格好良い洋服を買おう、次々に獲物を探していく動きが始まります、、この全てを気づきの意識が気づきます。

自分が居るという感覚は真実とはかけ離れている

自分が居るという感覚は真実ではありません、、真実はたった一つのエネルギーです、、その中に自分という独立したエネルギーが存在できるはずがないのです。だから自分という感覚を維持するのは苦しいのです、疲れるのです、、、無理をしているから。ということで自分というメカニズムを理解します、、そうすると力が抜けてきます、自分っていう存在を頑張って誇示しようとする動きが無くなっていきます。

自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。

成功法則とは不自由法則

こうあるべき、こうあるべし

成功者はその他大勢とは違う、成功者はこう判断しこう行動する!!これらは全て人を不自由にする行動です。判断決断に緊張感が走りますがこれは本当の自由とは真逆ですね、本当の自由とは間違うとか正解とかのない世界、あるがままの世界のことです。成功法則を学んだ自我はこれからの人生はこういう決断を下していこうと、、勢いつくでしょう。ですが実際には自由意志はないのですからただ勘違いが大きくなっていくだけです。全くもって自分で判断などしていないにも関わらず自分で的確に判断を下している、、という勘違いの世界に生きることになるのです。

常識ある社会人とは

子供は大人になるにつれて常識のある社会人とは、、と学んでいきます。そしてその学びに沿った言動をとるようになる、見かけ上。この段階で徐々に生きているのが重くなっていくのです、非常識な選択決断を緊張感を持って避けなくてはならないからです。そして実際には自我がそれをしているのではなくそのような思考が湧き続けているだけです。

良識、常識を学べば学ぶほどに

見かけ上の個人は常識、良識を学べば学ぶほどに、、しっかりとした決断をしようという思考が湧き続けますから重くなっていきます。だから社会的には認められてきたけれどちっとも面白くないという状況に陥るのです、見かけ上。本質は真逆で本質は全くの自由、選択に優劣は一切ないのです。優劣が生まれるのはあくまでも見かけ上の個人が生きる世界での話です。

複雑化する社会の中で

中高生時代に絶望する

子供から大人になっていく過程で人間はどうやって生きていくべきかを思考するようになるのですがTVニュースなどを見る限りどうやら社会は大変複雑になっていると気づき始めます。そして勉強が得意ないわゆる優等生ほどに保守的になっていくことからもどうやら生きていくとは保守的に収まっていくものなのかもと思い始めるのです。自由とはほど遠い、むしろいかに安全に収入を得ていくかを真剣に考えていく人生になっていくのです。

自由とはほど遠い生活

一つ一つの選択が重要になる生き方とは自由とは程遠い生き方です、そうです自我が行使する決断人生は大変重いわけです。本当は自由そのものであるにも関わらず自由とは対局の行き方を選び生きていくのです。世の中で成功者と呼ばれる人々が選択の王であるのならば彼らは自由とは対極にいるわけです。自由とはなにを選んでも良いことであり成功とは選択を誤らなかったことだからです。

成功法則の罠

成功者の成功本を読めばあらゆる選択の重要性が説かれています。成功者はこの時どういう決断をするのか!の羅列です。年収1億円プレイヤーはこういう決断をする!です。ですがこれはより決断を慎重に適格に行えというアンチテーゼでありこれは自由とは真逆の生き方のなのです。彼らは選択を間違えばいつでも非成功者に戻ると宣言しているのですから。我々の本質は自由であり全ての選択肢を楽しむ存在です。成功者になるためには、そして成功者であり続けるためには選択を適正に行い続ける必要があるのですから。これは自由とは真逆のことです。

社会が複雑であろうと

社会が複雑であろうと、、我々はいつでも自由になれます、、それは先ず選択するという行為を自分がやっていないことを早く悟ることです。選択の全ては自動反応で起こっており自分は何も介在していないのです。今現在自分が決断に関与していると思っているのはそう思っていからだけです。だから社会が複雑であろうと単純であろうと決断には全く個人は関与できないのです。つまり流されていくだけです。

流されていくことでどんどん自由になる

何も決断を自分はしていない、この真実に染まっていきますと、、環境がどうであれ悩むということが不可能になります。悩むというのは自分が決断に関与していると信じているから悩むのであって全く関与していないのであれば悩むのは不可能なのです。会社の経営会議に参加すらしていない社員が議決の判断に悩むのは不可能です。少なくとも悩むことに全く意味がないことに気づくだけで世界は軽くなります。

自分という緊張感

湧き出てくる思考を所有する「自分」

自分にとって決断は重要です、より幸福になるために決断を間違えてはいけないのです。ですから一つ一つの決断には緊張が走ります。朝起きて何を食べ、何を学び、何を仕事し、誰とコンタクトをとるか、、全部が全部緊張の連続です。緊張などしたくないと思っても勝手に緊張が湧いてくるのです。この緊張を緩めるためにお酒、コーヒー、タバコ、ギャンブル、各種娯楽などがあるのです。

湧き出る思考を一手に管理すると思い込む自我

飴が欲しい、おもちゃが欲しい、友達が欲しい、、、これらの思考の全ては「自分」が起こしている、、この勘違いが、、重く重くします。本当はただ湧いているだけ、自分などいう存在なしに勝手に湧いているにも関わらず自分が作り出しているという勘違いが起き、それ前提の思考がまた湧き続けていきます。そしてその思考も自我が作り出したという誤解が生まれていきます。

本当はただ湧き上がる

本当は本当は誰も関与することなく思考は湧いています、ただ湧くのです、自由意志など存在しません。だから今後の人生を憂うというのは意味のないことで何も関係なく思考が今後も湧き続けるのです。1万時間この先を憂いてもそれとは何も関係なく思考が湧くのです。それが分かってきますと将来を憂うことほど無駄なことはないことが分かります。

過去の後悔も将来の不安も無駄

過去の後悔も全くの無駄です、なぜならば自分という存在が全く関与せずに言動が起き続けてきたからです。そしてそれはこれからも全く同じ、だから何も不安に思わなくていい。突然地球一周旅行に行くかもしれないし、悟りを開くために山に篭るかもしれない、突然お笑い芸人を目指すかもしれない、、、だから無駄なのです、将来を憂うのは。

目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

目覚めすらない

目覚めるとは???

目覚める、悟る、覚醒する、、、これらは幻想上のストーリーの中で起こることであり、、真実という面から説明すれば実は何も起きていません。真実の中では悟りは閉じてもいないので開くことも、目覚めることもないのです。真実とは真実のみであって、、その中では何も起きないのです。真実の中で真実ではない思考が湧き上がることでその思考から目覚めるというストーリーが生まれただけです。真実は真実でしかないのですから本当は目覚めすらないとも言えるのです。

この世界はこれだけで自由意志も自我もない

真実はこれそれだけです、今この広がる世界、これが真実です。その中には自由意志という何か特別なものはなくただ何かが起きるだけ、何も名前が付けられていないこれが起こっているだけです。そこに言葉が現れ、名称が付けられた何かが現れ、ストーリーが出現しました。ストーリーの側からみればこれがストーリーだったという気づきが起き目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実の側から見れば何も起きていないということになります。

騙し絵

騙し絵では老女に見えていた作品が実は若い女性だったという気づきがおきます。これこそがストーリーだと思っていたのが実はストーリーなど無かったという目覚めです。事実は最初から若い女性がそこには描かれているわけですから若い女性側からみれば何も起きていないということになります。老女であると勘違いしていた人から見た時に初めて若い女性(真実)に目覚めるということが起きるのです。我々は皆この幻想の世界に取り込まれていますから真実に目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実は常にそこに普遍的に存在していたのです。