自分

自分をなくすための努力は自分を強化する

残念ながら悟ための努力は自我を強化する

苦行、瞑想、お経、霊的向上、座禅、、、あらゆる悟るための努力の多くは自我を強化していきます。なぜかと言えば悟ろうとするのが「自分」だからです。どうしても「自分」は悟ることすらも自分が成し遂げようとするわけですがこの努力は逆に自分を強化する結果に終わります。自分を維持する自我のメカメニズムは自らそのメカニズムを放棄するわけがなく結果「自分」が行おうとする行為は逆に自我を強化します。

自己認識を変えるのみ

悟りとは視点の転換です。自分として何かを達成するのではなく、自分が居ないという認識です。では一体この在るというこの感覚は何なのか?間違いなく「在る」という感覚は確実にあります。自分が仮に幻想であったとしても「在る」というこの感覚に嘘はなく、、いくら幻想であると言われても幻想しかないということには納得できません。この自分が偽りであることを腹落ちできた時この在るという感覚だけが残るのです。これが答えです。

物も自分も全ては幻想

我々は生まれてきてから何度も両親に名前を呼ばれ続けてこの体を「〇〇ちゃん」と認識するようになりました。名前を呼ばれ続けることで脳がその名前を記憶し、、、この体がどうやら〇〇ちゃんであると意識し始めます。全体意識の個別意識化の成功です。全体からこの体、思考、感情が分離します。そしてそこからあらゆる見える物に対して名前を記憶していき名前が付けられた物が全体から分離していきます。この事実を理解することで自分、その他の物の分離のメカニズムが理解できます。この理解が分離のトリックを解消します。

自分というものが幻であるのになぜ自由意志があるのか?

自分=思考、感情、体

自分とはこの体、感情、思考を自分自身であるとした意識です。これによってこの自分は全体から分離しました、この感覚がなければ全体からの分離はありません、つまり分離は分離意識が起したものでありこれが無ければ全体のままです。分離しているという錯覚がこの分離意識を起こしているだけであって本質は全体のままです。分離はあくまで錯覚でありゆえにこの自分の中に起こる思考は全体からの現れであることに違いはありません。そういう意味では個人の自由意志はないと断言できます。ただし全体からの意思の現れはあります。

自分を命名した瞬間に全体から分離が起こっただけ

我々は生まれてから、、、両親からどのように扱われるか、、、、とても重要なここポイントです。名前を呼ばれ続けるのです、、、ひたすらに名前を呼ばれ続けます、、、太郎くん、、太郎くん、、、、これを1万回ぐらい呼ばれ続けます。。これにより子供はこの体、思考、感情を太郎君であると認識します。この1万回の声かけによって我々はこの体、思考、感情を、、、全体から分離させることに成功するのです。意識にはこのような力があります。他者からの声かけによって分離錯覚が生まれます。。

そして視界に入る全てのモノの名前を覚えていくことで全てを全体から分離させていく

そこからはモノの暗記が始まっていきます、目に入るあらゆるモノの名前を暗記していくことでそのモノが全体から分離していきます。これをそこから何十年とかけて行なっていくのです。自分が先ずは他者からの声かけで分離し、あらゆるモノの名前を覚えて視界に入るあらゆるモノが分離していきます。これにより分離幻想のストーリーが完成します。自分の分離に関しては何万回と名前を呼ばれることでこの分離意識を解消するには恐ろしいほどの気づきが必要になります。それゆえ多くの人は生まれて死ぬまでこの分離錯覚を見破ることができません。

事実、血液の流れ、細胞の生まれ変わり、心臓の動きも自分がやっていない

自分とは面白い

自分というのはこの体の王様としてのさばっていますが、、、本当のところ唾液の分泌、胃腸の動き、排泄までの流れ、心臓の動き、発汗作用に至まで何一つ自分の意思では行っていせん。全部自動操縦、唯一、思考、体の動き、感情の処理などを意識的に行うことができますがそれ以外は何一つ「自分」の意識では行っていません。にも関わらず「体、思考、感情」を自分でコントロールし行っていると勘違いしています。だからこそこの「自分」は思考の制作を積極的に行います、思考が湧いていれば自分という存在を強く意識できるからです。

いっそこの「自分」が居ないことにして暮らしてみては、、

自分という認識などなくても放っておいてもこの体は動くし、思考も感情も意識しないでも勝手に湧いてきます。例えば料理をする時など、、全部を無意識で行うことができます。計画を立てるという行為は必要になるかもしれませんがそこに「自分」は必要ないのです。ただ美味い料理ができたときは「自分」が作りましたとインスタにアップしたくなります。「自分」がやることなどその程度のことです。

この体で起こるほとんどをノータッチなのに、、なぜ偉そうにしているのか

心臓などの内臓を思考(自分)の部下としたら内臓は自分の命令など一切関係なく動いています。感情をもしも思考の部下とするならば感情など全く上司(思考)のコントロールが効きません。ましてや思考そのものすら自動反応で止めることができません。にも関わらずこの私は体、思考、感情を「自分」と認識できているから凄いことです。これほどまでに不安定な要素をかき集めて「自分」と認識しているところが面白いのです。

自分=体、思考、感情の罠から抜けると自分ごとにできなくなる

他人から何か言われても自分ごとにできない

芸人が舞台で他の芸人からいじられる、「お前太り過ぎや!!」これに対して真剣に怒る芸人はいません。なぜならば自分に言ってはいるが「芸人としての自分」にいってきていることを理解しているからです。この体、思考、感情を自分と捉えなくなっていきますと他人から色々言われても自分ごとにできなくなります。どうやら他人はこの体の中の思考、感情を含めた「私」というものに意見があるらしい、、こんなノリになっていきます。色々「私」に不満があるらしいがその私は実は幻想でいない、、こんなすれ違いコントのような状況になります。

自分ごとにしない「私」に周囲はイラつき次々と罵詈雑言を

多少の皮肉を言われれば怯むのが「自分」人間ですがその自分が実は幻想でいないことを理解してしまうと皮肉ぐらいでは止まることができません。そうなれば周囲はさらなる皮肉を言って行動を止めにかかるかもしれません。「あなた」にしっかりと届くようにとより強い口調になるかもしれません。すれ違いコントがギャグでは済まなくなっていくということです。そうなったならばここで初めて思考を使いその皮肉、雑音に対応すればいいのです、冷静に。

全てを「自分ごと」にする周囲とは基本すれ違いだが

全てを「自分ごと」にできない覚醒者と、全てを「自分ごと」にする周囲とはすれ違いが当たり前になっていきます。ですが覚醒者は周囲が全部を「自分ごと」にしていることを百も承知ですからそこは冷静に対応できるようになります。自我を超越した人が自我を超越できていない人の対応を間違えるわけがないのです。自己を超越した人が自己を超越していない人をコントロールできないわけがないのです。

自己超越とは自己を散々味わった人に訪れる

この分離の世界は基本「自分」「自己」を味わいにきています。ですからここではこれが基本、ほぼ全員が「自分」「自己」「自我」からスタートします。ですから散々にこの自分にが苦しまされています、これに苦しんでいない人は100%いません。よって自身に自己超越が訪れたとしても自己に苦しむ人の気持ちが分からないわけがないのです、むしろ誰よりもその苦しみに敏感でもあります。

思考と一体化した自分と思考を観察する自分

多くの方は思考と一体化した自分のみ

多くの方は思考と一体化した自分として生きています。思考=自分です。思考が湧いてきたらその思考とは自分自身のことです。そこに何にも疑いを持ちません、そして人と関わるときも相手の思考をそのままその相手と判断します。要は人間関係とは思考関係なのです。相手はこんな思考をしておる、私はこんな思考をしている、相性がいい、悪いを判断していきます。ですが思考とは損得を図る道具ですから人間関係は=損得関係とも言えます。これが一般的な方の生き方です。

思考を観察する別の自分を作る

思考と完全一体化した自分ではなく、、、思考を観察する自分、、というのを今後は作っていきます。思考が湧いたらそれを自分とするのではなくそれを観察する自分を作ります。思考の声=自分の声ではなく、思考の声を観察する全く思考とは関係ない自分を作り出します。この自分、思考を観察する自分こそ、、、大いなる存在、全存在、気づきの意識です。

湧いてくる思考=自分の声、で生きるのは修羅の道

世の中の99.9999%の人は湧いてくる思考=自分の思考で生きていますが、これが修羅の道、地獄の道、苦悩の人生の入り口です。湧いてくる思考は湧いてくる思考です、、、、これに本来自分という定義はありません。ですが人間はこれを自分の声とすることに決めました。これによって人間は思考=自分として生きています。何にも疑わず無意識にそれを受け入れています。そして湧いてくる思考を自分の声とし、、、大切に大切にその声を聞き入れようとするのです。ですが本当はこの湧いてくる声を自分とするのは後付けです、湧いてくる声はただ湧いてくる声であり、、、それが誰の声という定義はないのです。

湧いてくる声、思考を観察する自分を作る

湧いてくる声を自分の声として生きていくことが苦しみを生み出します。この宇宙全体である存在が、湧いてくる声を自分と定義することで居心地の悪さが生まれます。そうではなく宇宙全体は、この湧いてくる声、思考をただ観察するという本来の存在に戻る必要があります。これによって宇宙全体は宇宙全体に戻ります。何を言っているか分からないかもしれませんが本来ここには宇宙全体の意識しかなく、その意識がこの体、湧いてくる思考、湧いてくる感情を自分と勘違いすることから苦しみが生まれました。だったらもう一度宇宙全体に戻ればいい、、、この体、湧いてくる思考、感情を宇宙全体として観察するという初期設定に戻すことで苦しみが解消されます。これは正しい間違っているを伝えているのではなく事実をのみ伝えています。

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

体、思考、感情という安定しない存在を自分とする危うさ

自我とは体、思考、感情という不安定な存在を自分とするメカニズム

なぜ人生は苦しいのか?それは自我のメカニズムそのものにヒントが隠されています。自我とはこの体、思考、感情という毎日揺れ動く、不安定な存在を自分とするメカニズムです。朝起きて何一つ自分でコントロールできなものを自分とすることは非常に苦しいモノです、明日の体調、心情、何もかもが未知でありこれほど不安定なモノを自分としていたら将来不安が起こるのは当たり前なのです。メカニズム的に危うさしかありません。ですから人間とは基本不安定、恐怖、不安に牛耳られた生物なのです。思考、感情、体という不安定なものを自分としているわけですから当然です。

不安定だからこそ取り込まれる

若者がサーフィンにどっぷり浸かるのはサーフボードというものに波の上で乗るのが恐ろしく不安定だからです。不安定だからこそ意識をそこに全集中できます。この人間も同じで体、思考、感情という恐ろしく不安定な存在を自分自身であると意識することは全集中しなければできません。だから気づきの意識、大いなる存在はこの「自分」に全集中できるのです。思考が湧くたびに、感情が湧くたびに、体調が悪くなるたびに、、全意識はこの「自分」に取り込まれていくのです、全集中させられます。

自分に全集中すれば全体に無集中

自分に全集中すれば全体には無集中になります。自分はこの自分だけがこの世で自分であるとし、その他を自分以外であると完全なる分離の世界に入り込んでいくのです。サーフィンに没入する若者が他の全部を忘れ去るのと同じです。体、思考、感情が不安定だからこそ「自分」に全集中するのです、全意識が。ですがこの揺れ動く体、思考、感情に全意識が意識を向け続ける状態は居心地が悪いのも事実、常に不安定なものに自身を同一化し続けるのは苦しいモノ、、そこで人間には睡眠という「自分」から離れる時間が必要になるのです。そしてこれだけ不安定な要素全開の自分を生きていくのはしんどいことなので途中からこの「自分」脱却に興味が出てきます。

意識がこの体に入り込むことで「自分」が生まれた

「自分」とは体+意識

自分というものが幻想なのは、、体に意識が入り込むことでできているからです。体に全存在が入り込んで「自分」という感覚、メカニズムが起動しました。これはあくまでメカニズムですから意識が体から抜ければそれで終わり、死ねばそうなります。「自分」というものは体+意識のメカニズムのことです。体がなくては自分ができないし意識がなくても自分はできません。そういう意味で自分というのは体と全意識の複合体ということになります。「自分」という感覚は後付けてできたものですが「居る」「在る」という感覚が絶対にあるのは「意識」ゆえです。

「体+思考+感情」を「自分」とする思考を「全意識」が意識する

自分とは全意識の中の突然変異です。全体の中に独自の個別の意識体が存在するかのように錯覚できるプログラムです。全意識はこの体の中に入り込むことで「自分」体験をするわけですが、では「自分」以外を全意識は意識できないか?と言われればそんなはずはありません。全意識とは全部を意識するからこそ全意識なのです。ではなぜこの「自分」は意識しているのに自分以外は意識できていないかと言えば自分以外は全意識そのものだからです。「自分」だけが全体、全意識から分離しているシステム上なっているのでこの体で五感することを意識できているのです。全意識はこの「自分」のみを異物化し「自分」の中で起きることを意識できるようにしています。全意識は異物化した「自分」で全意識(自分以外)を生きるという自分体験をしています。

「自分」はいつも居心地が悪い

全意識が異物化した「自分」は思考というフィルターを通じて全意識(自分以外)を生きます。思考というフィルターを通じて見ますからそこには価値観が投影されます。人間は目に見える世界に名前をつけてラベルを貼り名前が付いていないものは背景化します。ありのまま(全意識)を見ているのではなく思考によってラベル化された独自の世界を見ているのです。全意識が「自分」を経験しているわけですからこの経験は大変エキサイティングになります、そして自分の構成物質は全意識ですから「自分」は同時に全意識そのものに常に戻りたいというストレスを抱えています。「自分」を楽しんでいる全意識と全意識に返りたい「自分」のせめぎ合いが常に起きています。これが人間の面白さであり苦しさです。

両親の考え方を否定できない自分

両親の考え否定は死を意味する

両親が子供に教えることは絶対です。特に小さい頃はもしも両親には迎えばそれはそのまま死を意味しますからDNAレベルでも子供は両親の価値観をそのままインストールします。その考え方が正しいか間違っているかはこの際どうでもいいんです。なぜならば歯向かえばそのまま死を意味するからです。ですから子供は両親が信じることを無条件で受け入れていくのです。その一つがこの心身が自分であるという価値観です。あなたは〇〇ちゃん、、、これを何千回、何万回と呼ばれることで私は、〇〇ちゃんと自分を信じるようになるのです。この体、そして心、思考を〇〇ちゃんであると何年間もかけて信じ込むのです。

自分を〇〇ちゃんと信じ込むことで生き延びてきた

両親がこの体を〇〇ちゃんと呼び続けそれを受け入れることでこの体は生き延びることを勝ち取りました。もしもそれを受け入れなければどうなるか?おそらく病院に連れていかれるか、特殊な学校に入学していたでしょう。我々は両親から教わった名前をこの体、心、思考に刻み込んでそのままそれを受け入れました、これぞ生存戦略です。この心身こそを自分と信じ込むことで生き延びてきたわけです。ですがそこには問題があります、それは事実ではないからです。

宇宙全体であるこの私はこの心身に閉じ込められる

宇宙全体であるこの私がこの心身の中に閉じ込められた状態が自分です。この話を聞くだけで気づくと思いますがそれは辛い体験をしているのです、私たちは。何を達成しても何を獲得しても何を授かっても満足できないのはこのためです。究極の欲求不満存在それがこの人間です。この心身を自分自身であると勘違いしている時点で何を得ても満足できないのは当たり前なのです、宇宙全体、視界全体である全存在がこの心身を自分であると勘違いしたのは両親から見捨てられないためです、ですからこの勘違いは人間として生まれた宿命です。

自分は優秀、、、の罠

「自分は優秀」は危険

自分は優秀と思っている人は注意が必要です。周囲との人間関係が破綻していく可能性があります。自分は優秀と感じることができるのは何かしらに集中できる人の特徴です、普通ならば直ぐに疲れてしまうにも関わらずそれを集中し続けて処理できるわけですから周囲から優秀と言われます。集中するということはその瞬間思考を削ぎ落とせる人なのです。つまり無我になれる人なのです、この状態がずっと続けば周囲からは感謝されさらに自分も至福ということで何も問題がないのです。ところがこの状態が続くと自我が死んでしまいます。自我は無思考の状態が続くと死にます、要は悟ってしまうということです。これはなんとしても避けたい事態、これを避けるために自分以外に問題を大量生産して自我は存続を図るのです。自分の周りには常に問題が噴出するという不思議な状況に陥るのです。

優秀な人の周りには常に問題が勃発する

無我に入れる人、集中できる人、無心に入れる人、、これらの人は意識的に悟りに入れる人です。要は優秀な人たちです、これらの人の自我は存続の危機に陥ります。このまま何もしなければ自我が死んでしまう、自我が消滅してしまうというリスクです。なんとしもこれを打破したい、なんとかして存続を図る自我は周囲に問題を作り出すことでここで思考をフルスロットルさせようと画策します。例えば友人が問題を起こす、パートナーがトラブルを起こす、部下が問題を起こす、、、などです。こうして自我は思考フルスロットル状況を無理くり作り出すのです。自我は再び無我から主導権を握り返すことになります。

何かに集中できてきたら自我の巻き返しに備える

何かに集中できる人は既に思考の罠を見抜いています。思考を使わないほうが結果も出るし、気分もいいことを知っています。思考のトリックから脱却し始めています、こうなるのと自我は危機感を持ち始めます、このままでは自分は消滅するぞと、、、なんとかして問題を作り出して自我存続を図ろうと、、、その人自身の問題はなんでも無我に入って解決してしまう、、そうなったらば周囲を問題にしよう、周囲は自分の思うようにはいかないからこれは困るはず。この策略は恐ろしいほど上手くいきます、自分を攻略されてしまった自我は、周囲を問題視することで自我存続に成功します。スター選手のチーム仲問題、優秀な監督のフロントの確執、営業成績優秀者の会社への不満、、、全部このパターンです。