坂本龍馬の行動は自己超越

「自分ごと」がない

坂本龍馬の行動は自己超越を上手く表現しています。彼は「自分」の損得を完全に超越して行動を取り続けていきました。もしも彼が「自分の損得」にこだわっていたらあのような偉業は達成できなかったはずです。自我とは損得でしか動けません、この自我を超越しなければ損得を超えた行動を取れないのです。彼は日本という国が海外の列強国に狙われていると危機感を感じ国のために行動を続けていた結果「自己」「自我」「自分」が消えてなくなりました。自我は放置しておくと消えてなくなります、なぜならば実在しないからです。そうなるともう全てを「自分ごと」にできなくなります。

無我が行動している

自分ごとがない人の行動とは自分がいない人の行動です、自己超越した行動、宇宙全体の行動の現れです。そこには体や思考、感情はありますがそれを「自分のもの」とする感覚が抜け落ちています。そんなことは出来るわけがない、、いや出来るのです、、、優秀な役者さんは演技中「自分」を完全に忘れています、なぜそんなことが出来るのか?それは元々「自分」はいないからです。「自分」がいるという思い込みはあります。坂本龍馬は国ためにと動いていたら「自分」という思い込みが完全に外れ「無我」「大いなる存在」になってしまっていた、、こんなところでしょうか。

「自分ごと」がない人は気持ちがいい

「自分ごと」に溢れている人は苦しい、、自分こそが苦しみを湧き出す根源ですからこれが強化されればされるほどに苦しみが湧いてきます。ですがこの「自分ごと」が抜け落ちている人は気持ちがいい、、苦しみを携えていないからです。これは人畜無害とは違います、本当に本人の中から苦しみが湧いていないのです。なぜならば苦しみを湧き出させる「自分」が抜け落ちているからです。「自分」という思い込みが壊滅状態にあります。

10人の子供を育てるお母さんは自我が皆無

戦後の日本では一人の女性が五人、六人と子供を育てていましたが、、その当時の母親には自我が欠落していたはずです。朝起きて寝るまで子育てに追われ「自分」に構っている時間など皆無だったはず。「自我」は構ってもらえない、注目されていないと自然消滅してしまいます。なぜならば本当はそんなモノはないからです。この体、思考、感情を「自分のもの」と思い込む認識があるだけです。この認識が吹っ飛べば誰でも自己超越に入ります。この世界が認識する自己が居ないならば全体、全宇宙、大いなる一つ、神ということになります。「自分」をうっかり忘れた神になります。

悟りを本当に知りたい人などほぼ皆無

マリオゲームの途中でクリアー後のことなどどうでもいい

これは人間ゲームです、人間が実在するという大前提で行われるゲームです。人間は次から次へとお題、目標、問題が与えられそれをこなして生きていきます。その際になぜこれをするのか?なぜこんな目標があるのか?など基本考えません、考える必要もない。なぜ就職するのか?なぜ結婚するのか?なぜ子育てをするのか?なぜ、、、これらを真剣に考えたところで答えなど出ないし苦しいだけです。そんなことよりも重要なことは今目の前のお題をこなすことです。

人生のお題をこなし続けた時に初めて興味が出る

人生のお題を真剣にこなし続け、結果も出し続けた時に、、いつまでこのお題をクリアーすれば自分は幸福になるのか?という疑問が湧いてきます。まあまあ真剣にお題に取り組んできた、だが一体いつ本当の幸福に辿り着けるのか?こういう疑問が湧いてくるようになります、自然と。こうなるともう目の前のお題に真剣に向き合うことができなくなります。それはもう何千回もやってきたからです。

目の前のお題をクリアーしても幸福になれないことは知っている

何度も人生のお題をクリアーしてきた人は、次に来るお題をクリアーしてももう幸福がないことを重々知っています。周囲からの称賛も、周囲からの評価も、収入も、安定も、全部自分を幸福にしてくれないことは百も承知です。その時にこの人間の苦しみとはどこから来ているのか?という漠然とした疑問が湧くようになるのです。このお題処理ゲームを続けることはできない、その奥にある原因を解消したいという真の探究が始まります。

確かにこれは見抜けない

ついに悟り、自己超越に興味を持ちそれを学んでいきますとその境地は確かに普通に生きているだけでは捉えられないことを悟ります。なぜならばこの自分が実はいないというメッセージは衝撃的であると同時に怪しすぎるからです。特に自我はこの手の情報を完璧にシャットアウトします。これは機械反応、脊髄反射的に遮断します。自分という神が編み出したこのアイデアを人間ごときが見抜くなどほぼ不可能に近くそれゆえこの手のメッセージを学ぶことはリスクが多いことになるのです。

天才とは無我に入った状態で何かを顕現させる人

先ず無我に入るが先

天才とは間違いなく無我の状態で何かを成し遂げていく人のことです。思考という柵、自我の制限がある状態で成し遂げられことは小賢しい行動のみです。小賢しさの先に賢さはなくどこまで行っても小賢しさが重層されていくだけです。そうではなくいかに思考を剥ぎ落とし無我の無心、無我の状態にまで入り込めるか、そしてその状態で視界から描くモノが芸術作品であり、素晴らしい小説や論文であり、聴覚から表現するものが歴史に残る音楽作品、味覚で表現するモノが舌を巻く料理になります。これらは皆無我に入った状態で表現されているのが特徴です。

無我に入るためには思考を追いやる必要がある

無我に入り込むためには思考が邪魔にあります。自我とは思考のことですから思考が入ると自我が表現をし始めるのです、これは邪魔になります。いかに思考を廃し、思考を抜け落とし無我に入っていくか、、ここが鍵になります。無我に入るためには矛盾するようですが無我に入った感覚を知っていなくてはなりません、この状態を知らないと入りたくても入れないのです。ここが本当に難しいところです。無我に入れない人はちょうど眠りに入れない人に似ています、眠った状態に意識をフォーカスすることで眠りに落ちることができるのですが思考がフル回転マックスの人はそれができません。熟睡にも無我に入るにも思考が邪魔になるのです。

無我に入り込めたらこっちのもの

無我に入って制作するものは全て素晴らし出来になっていきます。なぜならば無我とは大いなる一つ、神だからです。神が人間に代わって表現制作をするのですからこれが素晴らしくないわけがないのです。逆に言えば神以上のクリエイターはこの世にはいないわけです。ということでこの世の芸術作品の優劣は自我をどこまで落とせるか、思考をどこまで落とせるか、無我の状態に入ってどこまで表現できるかの一点になります。思考とは無我に入って制作したモノを加筆修正する時にのみ使えばいいのです。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

目の前に神(全体)が居るのになぜ居心地が悪いのか?

今目の前に神が顕現している

我々の目の前に広がる世界は神の顕現です。神が顕現化しそこに現れています。どのように見えていようとも神の顕現でないわけがありません。ですが我々は神の顕現を目の前にして居心地の悪さを常に感じています。不足感、孤独感、退屈感、喪失感などです。我々の前に神が広がっているにも関わらずこれらの感情が湧いているということ事実にもっと違和感を感じなくてはなりません。人間とは神を目の前にして退屈を感じる生き物なのです。

もっと先に満足できる世界が広がっているはずだ

我々は神の顕現を目の前にしながら、もっとこうなれば自分は幸せになるはずだ、もっとこういう家に住めれば幸福に、もっと良いパートナーが見つかれば充実するはず、、、と欲望を起こします。ですが今目の前に広がる世界は神の顕現です。神の顕現を目の前にしてなぜ不満が起きるのでしょうか?ここに今回のポイントが隠されています。我々の問題点は神の顕現を目の前にして自分はこの顕現とは違う存在であると確信していることです。なぜか神の顕現を目の前にしてこの自分だけは神の顕現とは別物であると宣言しているのです。これによって居心地の悪さが発生しているのです。

同級生全員の前で自分だけは違う学年である

同級生全員の中で自分だけは実は違う学年ではないか?こんな疑問を持った生徒がいたらその生徒はさぞかし居心地が悪いでしょう。なぜこの学年で一緒になって学んでいるのか?こういう気持ちが常に湧いてきます。これが全体の中の自分です。神の顕現を目の前にしてこの私だけは別物なのだと真剣に勘違いする存在、それが自我、エゴです。この勘違いが酷ければ酷いほどに生きづらい、、これだけです。この勘違いが少なければ少ないほどに生きやすい、、これだけです。エゴ、自我は自分だけは特別であると絶対的に思いたい存在ですがこれが苦しみを生み出しているのです。

目の前の存在が神でないとしたら一体何?

我々の目の前に映る存在、これが神ではないとしたら一体何でしょうか?宇宙、地球、空間、、、なんとでも名称をつけることはできますがではそれらは一体何を起源にして生まれているのか?そう考えると目の前に写り出す現象は唯一のエネルギーでしかありません。唯一のエネルギーを神、ワンネス、大いなる存在、無我と表現します。これが今私の目の前に広がっています。もしも目の前に広がる神が燻んで見えるとしたら燻んでいるのは神ではなく見ている存在の方でしょう、つまり私です。

自我は無我を感じることができない

自我は無我を感じることができないから苦しむ

目の前に心穏やかな至福に満ちた老人がいてその人が最高の師であるにも関わらず、多くの若者はその老人には見向きもせずモノ、ファッション、ゲーム、SNSに走っていきます。なぜ目の前に至福な存在がいるのに自我丸出しの若者はそこには興味を持てないのでしょうか?それは自我は無我を感じることができないからです。自我には目の前の至福な老人が理解できないのです、なぜ至福なのかを全くわからない、、、思考には至福を感じることができません。だから思考が求めるモノ、自我が求めるモノは常にピントがずれているのです。思考や自我、エゴが求めるモノは常に形あるモノなのです。それは自我には無我(安堵、平和、愛)を感じることができないからです。

むしろ失うことでの気づきが多い

大切な車を事故で失った若者は最初大いに苦しむはずです、自分のアイデンティーティーであった大好きな車を事故で失った若者はショックでしばらくは眠れなくなるかもしれません。ですが1ヶ月、2ヶ月もすればそのショックもなくなり今までの精神状態に戻ります。車を失ったという事実は変わらないにも関わらずなぜショックが癒えたのでしょうか?車を自我の一部として所有し自我が大きくなっていると感じるのが錯覚だからです。そもそもが錯覚で自我が大きくなっていただけのこと、車を失うことで実は本質は何も失っていないのです。むしろそれによって自我が小さくなったならばその分無我が大きくなるということです。

失って見たら実は平気だったという気づき

私は大学進学に失敗し一年間の浪人を経験しました、それまでは学校に順調に行っていたので学校に行っていないということ、同級生との足並みから外れることに怖さを持っていました。ですが実際に浪人を経験してみると非常に居心地がいい。ドロップアウトすることがこれほど肩の荷が降りるとは全く思っていませんでした。キャリアに傷がつくということを恐れ続けていた感情は一体どこから来ていたのだろう?自我の策略です。自我は順調にキャリアを積まなくては大変なことになると脅し続けていたわけです。ここが私にとっての最初に気づき、自我が恐れていたことを真に受ける必要はないということでした。

倒産、闘病、投獄、、、この三つを経験した成功者は多い

倒産、闘病、投獄、、、これらは現代社会においての地獄、全部を失う状態です。この状態を経験した人間がそこから成功するのが多いというのは理解できます。人間の自我が最も恐る状態を経験した人は、、、実はその状態でも何も失っていないことに気づきます。全自信、全信頼、全人間関係を失っても実は平気だということに気付いてしまうのです。失うと大変になるのが実は自我の策略でこれを失っても本質(無我)は何も失っていないのです。無我とは何もないということ、、、この状態が歓喜、平和、愛なのです。

口に出して独り言を言うか、頭の中で独り言を言うか

口に出して独り言を言えば精神病

例えば電車の中でひたすらに独り言を言っている若者を見たら精神病ではないか?と疑うはずです。なぜならば彼は自分が独り言を言っているのに気づいていないからです。独り言の多くは自身には自覚がなくそれゆえ周囲からは病的に見えるのです。病院で診断を受ければ病名がしっかりとつくでしょう。ですが頭の中だけでグルグルと回る独り言、これは周囲は気づきません。そうなるとその人は病院に行かない限り自分を病人だと気づかないと言うことになります。現代人はこの頭の中での独り言を半端なく言っているのではないでしょうか?悟りの観点から説明すればこれは機能不全、負の感情自然発生状態です。

独り言がグルグルと頭を回れば要注意

頭の中をグルグルと思考が回るのが何が悪いのか?その前になぜ頭の中をグルグルと思考が回るのか?と言う話です。結論から説明すれば負の感情を一生懸命思考で解消しようとしているのです。明日の仕事に行きたくないな、、、この感情が湧いてきたらどうしたら解決できるか?あの上司が悪いのか?自分が悪いのか?仕事のやり方を変えて見たらどうだろう?いっそのことを転職をしてみたらどうか?このように思考がグルグルと巡ります。昨日散々考え回したのだからなぜ今日もそれ行っているのか?これは絶対に考えません、なぜならば今日も間違いなく負の感情が湧いてくるからです。それをなんとか解決しようと精一杯なのです。思考がグルグルとめぐれば回る回転数に比例して負の感情が湧くという地獄のスパイラルに人間は簡単に陥ります。

口に出して独り言を言うまでこれは続く

思考の暴走を一旦許したら最後、、精神病になるまでこの思考回転は続いていきます。負の感情は延々と沸き続けそれを解消すべくさらに思考がグルグルと回転を始めます。回転数が増えれば増えるほどに自我が強固に肥え太りさらに負の感情が湧くという地獄ループです。真面目な人ほどこのループにハマりやすいのは考えて解決を図らなければという責任感からです。能天気な人、考えるのが苦手な人はこのループには入りにくいモノです。負の感情は思考の活動、自我の活動こそが湧かしているという事実をいかに早く見つけるか、そして一旦それが分かったらもうこのループに入らないことです。

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情は無意識を常に狙っている?

負の感情、自我の存続

負の感情の根源は絶対的な存在からの分離が引き起こしています。ですからこの感情が湧いた時には実は全体に戻る、全体を思い出す絶好のチャンスなのです。ですが自我はそうはさせません、この負の感情の解消こそ自身が行うことで自我の存続を永続させていくのです。負の感情が湧いた瞬間に多くの方は不快感に打ちひしがれて即座に思考に委ねます、それまで意識的に生きていた人も負の感情には通常かてないモノです。相手から攻撃された、相手から誹謗中傷を受けた、相手から馬鹿にされた、、、途端に怒りが込み上げて、、思考が乗っ取り反撃を企てます。感情と思考の隠密プレイが始まります。

この作戦が理解できたら感情時に思考が出てこなくなる、、、

自我の生存戦略、負の感情時だけは意識的になれない、、、この作戦は人生の多くを占拠できます。ですが今まさにこの作戦が終わりを迎えています。負の感情が湧いてきたその時こそ思考を手放し感情を観察する、これによって自我から無我にシフトします。自我から真我にシフトします。自我から神にシフトします。負の感情の湧き出し時こそが自我の永続プログラム解体のチャンスなのです。負の感情自体は実は自我の味方でも何でもありません、負の感情は真我の味方でもない、、、負の感情は自我が生み出した真我とのギャップです。

真我−自我=負の感情

真我の偉大さと自我の小ささのギャップこそが負の感情です。もしも負の感情が湧き出してきたならばこのギャップが生み出されている証拠になります。毎日負の感情が湧き出すのならば自身が自我になり切っている証拠です。そうすれば真我ではなく自我になり切ることでこの感情が湧き出してくるのです。この解消方法を思考に頼ればさらに自我は強化されますから益々感情が湧き出してくるというメカニズムです。負の感情が湧いてきたならば自我になるのではなく真我になるに決まっているのです。感情を真我として観察しこのギャップをゼロにしてしまいます。

「最強のメンタル」は存在するか?

存在しない

本屋さんに行けばこのようなタイトルの書籍が数多く並んでいます。最強メンタル、メンタリスト、土壇場メンタル力、朝からフルコミッションメンタル、タスク処理メンタル術、、、これが人間がまだまだ思考というものの本質を理解できていない証拠です。思考というものは使えば使うほどに自我(これが自分であるという思考)が強化されていき負の感情を湧き出させます。思考をフルスロットルで使い倒せばそのまま負の感情が湧き出てくるのです。思考というのはナイフのようなもので確かに効果があり目の前の問題、負の感情を一刀両断できる力を持っています。ですがその思考こそが自我を形成し得体の知れない違和感を湧かすのです。人間として生きていて感じる孤独感、喪失感、不足感、欠乏感を生み出す真犯人こそが思考に基づく自我です。

目の前の負の感情を蹴散らすからこそ人は思考中毒になる

目の前に起こる負の感情、負の問題点を思考はバッサバッサと切り倒し蹴散らす力を持っています。そのため人は思考を一番の友とします。特に思考が回る人ほどに思考を使い倒すことになる、思考と一心同体、思考と心中するかのようです。ですがこの思考を心の友、中毒化した関係を継続しますとまさかの負の感情が増え続ける結果になっていくのです。思考とは自我を作り出すエネルギーでありそれはそのまま自我の肥大化を起こすわけです。

思考中毒から抜け出すには

思考中毒から抜け出す方法は何か?思考を野放しにしないことです、思考の活躍を応援しないことです。朝から晩まで思考をフル回転させないことです。これらを行えば行うほどに負の感情が湧き出してきて負のスパイラルに突入します。そうではなく負の感情が湧き上がったらそのままそれを観察します、感情が起き上がった状態をしっかりと観察し集中し無心になります。今無心という言葉を書きましたがそこに集中すると感情が消え去って無心状態、無我状態に入るのです。負の感情から逃げるのでもなくそれを臨機応変に処理する必要もない、ただそれを見つめます。ここが神、真我、大いなる一つの入り口です。

気晴らしのレジャーは必要ない?

人間が行うレジャーとは退屈、不幸を感じさせないための予定の詰め込みがほとんどです。何かしらの用事を詰め込んでしまえば退屈、不幸、孤独、寂しさを感じないで済みます。だからこそ皆必死になって予定を詰め込むのです。何も予定を入れなければ死んでしまう、、それほどまでに人は負の感情の扱いに困っているのです。負の感情は逃げても常に追いかけてきます、負の感情は逃げてもまた次の日には起き上がってきます。ですからこれと戦うのはもうやめましょう、これから逃げるのではなくそこを観察し集中し、無心になって無我に入ります、悟りに入ります。