天才とは無我に入った状態で何かを顕現させる人

先ず無我に入るが先

天才とは間違いなく無我の状態で何かを成し遂げていく人のことです。思考という柵、自我の制限がある状態で成し遂げられことは小賢しい行動のみです。小賢しさの先に賢さはなくどこまで行っても小賢しさが重層されていくだけです。そうではなくいかに思考を剥ぎ落とし無我の無心、無我の状態にまで入り込めるか、そしてその状態で視界から描くモノが芸術作品であり、素晴らしい小説や論文であり、聴覚から表現するものが歴史に残る音楽作品、味覚で表現するモノが舌を巻く料理になります。これらは皆無我に入った状態で表現されているのが特徴です。

無我に入るためには思考を追いやる必要がある

無我に入り込むためには思考が邪魔にあります。自我とは思考のことですから思考が入ると自我が表現をし始めるのです、これは邪魔になります。いかに思考を廃し、思考を抜け落とし無我に入っていくか、、ここが鍵になります。無我に入るためには矛盾するようですが無我に入った感覚を知っていなくてはなりません、この状態を知らないと入りたくても入れないのです。ここが本当に難しいところです。無我に入れない人はちょうど眠りに入れない人に似ています、眠った状態に意識をフォーカスすることで眠りに落ちることができるのですが思考がフル回転マックスの人はそれができません。熟睡にも無我に入るにも思考が邪魔になるのです。

無我に入り込めたらこっちのもの

無我に入って制作するものは全て素晴らし出来になっていきます。なぜならば無我とは大いなる一つ、神だからです。神が人間に代わって表現制作をするのですからこれが素晴らしくないわけがないのです。逆に言えば神以上のクリエイターはこの世にはいないわけです。ということでこの世の芸術作品の優劣は自我をどこまで落とせるか、思考をどこまで落とせるか、無我の状態に入ってどこまで表現できるかの一点になります。思考とは無我に入って制作したモノを加筆修正する時にのみ使えばいいのです。

(Visited 3 times, 1 visits today)