探求

探求も神羅万象からの起こり

探求は悪くない

個人が真理を探求する、、、その個人が真理を隠している、、、その通りです。。ですがその個人の探求もまた神羅万象から起こっておます、神羅万象の動きそのものです。ですから行動が劣っているなどは絶対にないのです。ですが個人が真理を、神羅万象全体を探しても、、見つからないというのは事実です。ですが真理、真我、への探求が起こっているという時点で何かしらの存在に気づいている真我がそこに居るのは事実です。何も気づいていないにも関わらず真我、全体、気づきの意識への探求が起きるとは思えないからです。

探求が止まらない

探求が止まらないようならばそうなのです、、、そのような人はほぼ居ませんから、、それは凄いことです。探求することに義務も要求もなく、、ただ探求は真我へと誘っていきます、、、益々真我気づきの意識が身近に感じれるようになっていきます。。。最後は真我、気づきの意識が個人の不在を見つけ、、そのメカニズムに気づきます。その時に自分、自分以外の概念が紛糾し、、真我そのものが残ります。気づきの意識そのものが残るのです。

自分と自分以外

自分が居て、自分以外がある、、、、これが我々の認識です。自分がこうだから、、自分以外がこう、、です。自分+自分以外で全部です。自分以外とはこの見える世界全てのことです、、、ところが自分という存在自体の概念が壊れ、、真実を発見しますと、、、自分が居ないことが分かってしまいます、、すると自分以外の概念がぶっ壊れるわけです、、、今までの誤認識がはっきりと分かってしまう、、気づきの意識がそこに気づく瞬間です。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

探求はどこから生まれているのか?

探求も根源からの現れ

探求したいという欲求はどこから生まれているのでしょうか、仏教を極めたい、神道を極めたい、茶道を極めたい、趣味を極めたい、、なぜ人は何かを極めたいのでしょうか。。。答えは簡単、今に満足できないからです。今が不満足だから何かを究めたいという欲求が生み出されるのです、根源から。自分という感覚は欲求不満生臓器です、自分という全体から分離した感覚を作り出すことで不足感を生み出しそれを埋めたいという欲求が根源から湧き出します。その欲求こそが何かを究めたいという探求になるのです。

探究心が強い、根源を知っている証拠

根源に深く触れたことがある人は再びそこに戻りたいという欲求が強くなります、それが探究心です。何かを究めたらあの感覚に触れることができるのでは、あの感覚に戻れるのでは、、これが探求を始めます。全体は分離感覚を作り分離ゆえの孤独感、悲壮感、不足感を味わうことに成功しました、全体感覚を垣間見ることで全体への帰還意識を強く強く覚えるのです。

気づきが後戻りすることはない

良い音楽に触れてその感覚がなくなることがないように、素晴らしい芸術に触れてその良さを忘れることがないように、気づきとは後戻りすることがありません。探究心というものが衰えることがないのは、一度全体、根源に触れた人間は根源への欲求が衰えることがないのです。それを忘れるということができないからです。ということで今探究心が強いならばそれが衰えるということはなくその事実こそが悟りに触れてきた証拠になります。

探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

私=探求

私とは探求のこと

私とは探求です、というよりも探求するために作られたのがこの私です。私とは神が勘違いしてこの体、思考、感情を「自分」だと認識する存在です。神の意識がこの体、思考、感情にフォーカスされきった状態こそこの私です。故にこの私を支えているのは神の勘違いでありだからこそ常に違和感を感じ続けることになります。この私が居るというこの認識こそが不快感を生み出し私はこの不快感を解消すべく探求し続けることになります。

探求は悪くない

私とは探求ですから探求は決して悪くありません。ですがこの探求を続けている限り「私」は存在し続けますからこの違和感は消えないということになります。私は常に探求し、その探求が私を存続させ続けるというメカニズムに入り込んでいきます。けれどこの探求を継続させ続けていきますと、、徐々にこの探求には終わりがないことを知ります、肌感覚で理解できてきます。そこで私はこの探求の旅を終え、なぜ私は探求してきたのか?という疑問の解消にシフトするのです。

私はこのエネルギー全体、神、ワンネス

この私が探求するという旅には終わりがないことを薄々ながら理解できてきた私は、、この探求の根本解決に乗り出します。そもそも探求で答えが出ないならば、、私にはこの解決は不可能ということになります。そうしますと「悟り」系と言われる書籍にすがるしかない、、、「私が居ない」という身も蓋もないメッセージにすがる以外に解決がないことを悟ります。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

いつか悟りが開く時を待つの誤解

時間軸の延長線には悟りはない

悟りとはこの時間が幻想であることを見抜くことです、この自分、自分が動く空間、時間、、これらが幻想であることを見抜くことであり、、それゆえいつの日か悟りを開ける日が来るだろうという思い込みは「自分」と「時間」というものを大前提にした考えでありこの考え方は逆に悟りを閉じます。ですが路頭に迷う探求者であるならばいつの日かという発想を持つのは当然のことでありこの誤解の事実をただ認識するのみです。

誤解を解き続ける結果として突然気づきが起こるのみ

思考を使いこなす自分としてではなく、、思考が抜け落ちた無我としてただひたすらに「自分」「自我」のメカニズムを理解していきます。どのように自我が構築されてどのようにこの分離の世界が出現したのか、、、我々の誤解を解き続けていくしかありません。自分という視点が作り物であるという深い理解、分離しているというこの世界の思考によるメカニズムの深い理解こそが「自分」から全体へのシフトを起こします。

時間とは?

時間というのはこの「自分」がこの世界に誕生することで生まれました。この自分が経験することの積み重ねを記憶した際に時間の認識が起こります。ですがこの「自分」が幻想である以上、時間も幻想ということになります。移り変わりを記憶する「自分」がいることで時間というアイデアを共有しているだけのことです。ですからいつの日か悟りを開ける日が来るという考え方は多くの矛盾を秘めているのです。

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

苦しみこそが自我を悟りに誘う

自我増大=苦悩増大

苦しい、悲しい、寂しい、、、これらの苦しみは自我こそが作り出しています。信じられないかもしれませんが自立するとは苦しみを増やす行為なのです。だからこそ自立に積極的になれる人はそうはいません、それは自立がそのまま自我の確立でありそれはそのまま苦しみの増大だからです。ということで自立は決して生易しいものではなくとんでもなくチャレンジフルなことなのです。

あの人は自立していて憧れる、、

自立、自我の確立は、、、決して甘いものではありません。世間は自立した人間を生活力があり分別があるぐらいの評価しかできないかもしれませんが全く違うのです。自我の確立とはそのままで不足感、欠乏感の確立なのです。自我の確立とは分離意識の完成でもありそれはそのまま居心地の悪さ、不足感、分離感、孤独感の完成でもあるのです。地獄の始まりでもあるのです。社長は孤独、、、と言われるのは社員とは状況が違う、、という簡単な話ではなく、、、自我の確立とは全体との完全分離でありそれこそが孤独感や不足感を生み出すのです。

確立した自我は悟りに誘われる

自我確立とは自立確立であり、、これは同時に全体からの完全分離を意味します。この完全分離は苦しさ、孤独感、不足感の確立でもあります。よって自我が確立した大人は苦しだとともに生きていくことになるのです。ですがここで問題があります、自立すればするほどに苦しくなるならば今後自身は何を目指したらいいか?という話です。この先にはさらなる苦しさが待っているならば人生に何も期待はできない、、こうなります。ということで自我が確立した大人は逆にこの自我とは何か?という探求に誘われることになるのです。