探求

至福に至ろうとするエネルギーがあるがままを隠す

探求の先にはない

どこに至福はあるのか??どこにあるがままはあるのか???この探求は自我のエネルギーの特徴です、探求者です。私がそれを見つけ出すんだ、、ですがこの見つけるというステージは確実に幻想の世界で行われるがために至福は見つかることはありません。マリオが必死になってスーパーマリオゲーム本体を探している状態です、画像の中で。画像の中にゲーム本体は存在しないのです、むしろ画像全てが本体の投影です。

探求を諦める

マリオが画面の中で至福(ゲーム本体)を探すのを諦めた時実は最もそれに近い状態にあります。マリオが必死になって探している間は絶対に絶対に見つからないわけです。探すという行為が自分(マリオ)以外を見てますからそれはもう分離のエネルギーしかないわけです。分離(マリオ)が分離を探している状態です。我々が唯一できることはこの仕組みを理解すること、ゲーム内での行為によって至るではなく仕組みを理解しゲーム本体にマリオが再吸収されるのを待つだけです。

あるがままへの誘い

今ここで感じる苦しみはあるがままへの帰還、誘いです。今苦しみを何十年間もこのゲーム内で解決しようと懸命に努力し、物理次元では解決できないと思うと情報空間、スピの世界で解決しようと努力しました。ですがそれらの努力は報われません、、この自分が何者かになろうとする努力自体がゲーム本体(あるがまま)への帰還を妨げるのです。この苦しみは自分という存在が起こしている、この事実に向き合うことです。自分という存在が苦しみを作り出すのです。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

最初に理解がある

なぜ苦しいのか????

なぜ苦しいのか???先ずはこの疑問、思考から始まります、、、そしてそれを毎日思考するわけです、、、なぜ???なぜ?????なぜ????そしてその探求が始まります、、、、ですがこの探求は多くの場合は非常に困難な探求になるのです???なぜか????それはこの苦しいの理由がさっぱり分からないからです、、、、そして多くの場合、、、それは、、、、、ワンネスがワンネスであることを思い出すことである、、、という結論を知ります。。。ですが、、、、じゃあ、、、、どうすりゃいいんだ???です。答えが分かったとて、、、、するべきことが分からない、、、、、

思い出し方を教えろ!!!

それが分かったとて、、、、どうやって思い出せばいいのでしょうか??????瞑想、ヨガ、座禅、マントラ、お経、、、、今度はそれが分からない、、、、、迷路地獄、、、、これを知識で解決しようとすれば失敗します、、、、なぜならば、、、知識は、、、、退屈を埋めるために発生したため、、、、知識は本当の意味での解決を図る道具ではないからです。。。。。真実を発見するのは体であり、、、体に真実を発見させます、、、知識は、、、、退屈を解消するための道具です。理解が終わったら、、、体で再発見させます。

目の前にある

真実は実は目の前にあります、、、今も真実しかありません、、、、今も悟っていて、、、、真実をありのままに見ています、、、ですがその真実は、、、、虚しい、、退屈を表現した真実ゆえに、、、、ここから逃げたいのです、、、自我システムという真実の表現の中で我々は苦しんでいるのです。。。。体の中に自分が居るという、、、この観念が真我の中で起こり、、、苦しみが生じます、、、、この観念からくる苦しみが体を蝕み、、その蝕みが、、、退屈を生じます、、、、このサイクルを断ちます、、、蝕みを強引に解消します、、すると、、、本当の真実、、静寂である真実が顔を出します、、、頻繁に顔を出すようになります、、、、静寂の真実が手招きします、、、

もう少し

静寂の真実から手招きが起き始めたら、、簡単、、、、ただ体の蝕みを解消していきます、、、体の感覚から、、そして理解をさらに明晰に、、、そしてまた五感を研ぎ澄ます、、、そしてまた深い理解を、、、、この繰り返し、、、、何かを手に入れる、、安定した暮らし、、常識、、、、これらは正しい五感の開発、深い理解によって勝手に起こります、、、、追い求めるのではなく、、ただ普通に手に入ります。

虚しいとは真逆

無限の現れ

今目の前に無限の現れが起こり、、、「私がそれを見た」が起きました、、、これは宇宙創造最大の目的であり、、これ以上の目的はここにはありません、、、、つまり、、、、我々は何かを見た、、、という経験こそが最大の恩恵であり、、それ以上の目的は実はこの世界には存在しないのです、、、、だから幼児は、、、、目の前の玩具に、、、、、夢中になり、、、、至福に至るのです。。。。。。。ですが大人は、、、、このおもちゃは私にとってどんなメリットがあるか????損得で思考し、、、、霧がかかった世界にいきます、、、、霧がかかった世界ゆえに、、、、探求を続けるのです。

全く何も見えていない

実は我々は全く物を見えていません、、、ありのままとは真逆な景色を見ています、、ゆえに、、、この世界は退屈だ、、、と感じ、、、、なんとかしてこの退屈な世界で、、、刺激的に生きれるかを探るのです、、、、ですが本当はこの世界は、、、、全てが神々しく、、、、それが見えていないということが、、、、この世界を苦しいと感じてしまう要因なのです、、、、、

今目の前に神が居る

幼稚園児が生きる世界は、、、神の鏡です、、、今神がそこに居ます、、、、、、、、ですが我々大人は、、、目の前に神が居ることに気づきません、、、、とんでもない不感症患者になっているのです、、、目の前の神に気づかない、、、鈍感人になっているのです、、、、、、、、幼稚園児は毎日が神の創造物で溢れています、、、、大人は、、、、体が鈍り切り、、、、目の前の神に気づいていないだけなのです。

体を解放する

幼稚園児と、我々大人の決定的違いは何か??????体が鈍感になってしまっているのです、、、感じる力が落ちているのです、、、、目の前の神に気づかないぐらに鈍感になっているのです、、、だから体を解放します、、、、積極的に体を緩めます、、、、緩めることで体を強くします、、、、緊張による強度ではなく、、、緩め切った状態からくる強度を高めます、、、、すると、、、、今を感じる力が増えます、、、目の前の神に気づきます、、、、これが悟りの道です、、、、ありのままに感じる、、、、ありのままに生きる、、、ありのまま。

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

私たちは「いつ」と比べて今が苦しいと感じているのか???

なぜ探求するか???

この世界に居る人々は全員が探求者です、、みんなもっと幸せになりたいと思っています。。。ではなぜもっと幸せを目指すのでしょうか????ゴールを経験した事がないのですから、、なぜゴールに向かうことができるのでしょうか????簡単です、、ゴールを知っているからです、、この表現は間違い見かけ上の「私」はゴールを知りません。本質はゴールそのものであり、、この探求が本質の中で起こっているので、、ゴールに気づくことができるのです。ゴール(本質)はゴール(本質)のままではゴール(本質)に気づきません、、ゴールから離れることでゴール(本質)とのギャップが生まれ、、、そのギャップこそが苦しみを生み出しているのです。逆を言えば、、、ギャップを生み出す根本こそが、、ゴール(本質)です。

ゴールを離れることでゴールを知る

今苦しんでいる「人」は間違いなくゴールから離れているのです、そしてそのことを明確に感じている、、だからこそ苦しいのです、、、苦しいとはゴールの存在を知っている絶対的な証拠になります。。。早くゴールを達成したい人とはゴールを感じまくっている人なのです。今まさに。ゴールを達成していないのに、、、今ゴールを感じてから、、今苦しいが湧いています。このギャップを今生み出しているゴールを直視してください。ゴールは遠いどこかにあるのではなく目の前に常に鎮座しています。

苦しみを生み出す力こそがゴール

ゴールとは場所ではない、、ゴールとは今この苦しみを生み出す力そのものです、、この視点を作り出すこの力そのもの、、私が確実に居るという思考を生み出す力そのもの、、、今目の前に広がる世界を作り出す力そのものです。苦しいから苦しくない場所があるのではなく、、、この苦しみを作り出すパワーそのものがゴールです、、つまりこの全現象、全思考、全感情、全行動、全経験を作り出すパワーそのものがゴールであり、、ゆえに本当の「私」とはこのパワーのことです。。

この認識が起きると「凄い」という気づきが生まれる

見かけ上の「私」なんていうちっぽけな存在ではなく、、、この経験の全てを作り出すパワーそのものであるという認識はそれを感じさせてくれる経験を起こし始めます、、、自分がそのパワーそのものであるという経験が起きるのです。。それでも周囲はこの見かけ上の「私」を渡しといて接点を持つでしょう、、、ですがそこで認識を戻さない、、、、そこで認識を戻せばまたもとの生活に戻ります。学び倒して認識を変える必要があります。ですがそれが起きるか否かはその動き(本当の自分)にも分かりません。

探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。

その人の価値観を否定する無駄

その人の価値観はその人の経験が作った

価値観を選ぶことは不可能です、、戦争を経験すればその経験が価値観を作ります、、、震災を経験すればその経験が価値観を作ります、、、多くの方はどこかに完全なる価値観が落ちているのではないか???と真剣に真剣に探したりしますがその行為が無駄なのは、、、価値観は経験からしか形成されないということです。そして究極の価値観、完璧な価値観がもしもあるのならば、、、人類はとうの昔にそれを発見し、、、、それを世界憲法として共有するはずなのです、、、それが今もないのは究極の価値観が存在しないからです。。

究極の価値観が存在しないならば、、、

探求者とは究極の価値観が絶対にあるはずだ、、、ということで本屋やあらゆる宗教、、ヨガ、禅、、、などを片っ端から制覇していく輩のことです。ところが究極の価値観は絶対にないので、、途中で夢破れ諦め、、、どうでもいいや、、、という究極の心境に至るのです。。。この「どうでもいいや」こそがサレンダー、降参を引き起こし、、、悟りが起きる場合もあります。。悟りとは究極のどうでもいいやだからです。

病気になるか悟りを開くか

究極の価値観を探してもどこにも存在せず、個人はあらゆる模索の旅にでるわけですがこの経験がさらに独自の価値観を作り続けていきます。。。新しい価値観はどこにあるのだという模索の旅が経験を作り価値観を強化していきます。。。そしてその価値観がさらに個人という存在を強化する、、、この強化が最大規模の強化になった時に「苦しい」が最大級になり、、、病気になるか悟りを急激に求めるようになるのです。

個人という存在の不在は、、価値観崩壊の核爆弾

個人が実は居ない、、、この事実を個人が絶対的に嫌うのは、、、そんなことを認めてしまったら、、これまでの価値観、個人が居るという前提の価値観が、、、大撃破、崩壊、粉砕するからです。。。。価値観を全部壊される、、、これが悟りの本性であり、、それゆえ悟りは多くの個人から嫌われ、拒絶され、、虐殺されるのです。その人の全経験、全価値観、全観念を木っ端微塵にぶち壊すのです。

探求者

子供の時の感覚を覚えている者

2歳、3歳児はまだ、、これが夢だと分かっています、、この夢を見ているのはこの自分一人で、、、全部自分が作って自分がそれを見ているのを実感しています、、ですから不安感がない、、万能感、、しかないのです。それは全部が全部自分がこしらえた物事だからです。。その中にこの体があり、、楽しんでいるだけ。。朝起きて寝るまで楽しむだけ。この記憶が残っている大人が探求者になります、彼らは、、この現実と称される世界の常識に違和感を感じる、、何かが違う気がする、、、何かおかしい、、本当はこんなんじゃないのでは、、

社会人になると

社会人になると鮮明にこの感覚が蘇ってくる、、それは会社などが徹底的に現実のルールを押し付けてくるから、、もう違和感では済まない、、、受け入れるか受け入れないかの強制収用、、それでもなんとか社会に合わせ生きていく、、でも辛い、、、しかし何が辛いかを言語化できない、、このもどかしさ、、、この状態が極限まで来ると彼らは本当の探求者になります。

悟らないと終わらない

社会に迎合し、、あらゆることを頑張った、、何年か働き、、地位も手に入れた、、家庭も、家族も、、、だが何かが足りない、、この何かは、、、この延長線上にはない気がする、、、、これが悟りへの入り口です、、、この体の中の個人が主人公の幸福探求ゲームは終わりがない、、、このままいくとこのまま死ぬぞ、、、そこまで追い込まれますと、、、悟りのメッセージが届くようになります、、

登場人物とのズレ

自分は夢だと気づいても

この現実が実は夢だという突然の気づきが起きれば、、、この体の扱いが変わります、、感覚がどうしても変わる、湧いてくる言動が変わってしまう、、これはコントロールができない、、すると周囲との人間関係にズレが生まれます、夢の中で。周囲が焦る状況で焦ることができない、、周囲が怖がることを怖がることができない、、、何を考えているか分からないと周囲から思われる、、こうなるのです。。。価値基準が個人の幸福ではなく、、夢を観る傍観者の幸福に変わる、、夢を観る傍観者感覚での衝動が始まる、、、

私の場合は、、

私の場合は、、人間関係を大切にしようという感覚が無くなりました、、、この言葉は誤解を産むのですが、、慎重にしてまで付き合う興味がなくなりました、、、気を使ってまで付き合おうという気合いが無くなる、、なぜならば夢の登場人物は、、これを現実であるという前提で生きていますから、、価値観が合わなくて当然なのです、、無理をして合わせるのが一番辛い、お互いに、、となりました。ですからある程度の距離をとって話を合わせるだけの存在になっていったのです。

探求者

探求者とは話が合います、、探求者はこれが夢っていうのはなんとなく分かった、、だけど腹落ちしない、、このような状態の人々が多く、、ここには私は貢献ができる、、そして価値観も合いやすい、、、となりました。この現実って本当は夢なんですか???これには答えられる、明確に、、体に溜まった感情を手放し、、言葉からの理解が腹落ちできるように導くことができます。