意識

常に全体であることを意識する

主語が全体になると面白い

全体の残滓が残ります、常に全体として生き個人を辞めていると全体の残滓が残っていきます、、熟睡から起きた時、、至福がそこに残っています。それが起きている時に起こるのです、、、個人全開で生きていますと、、分離感、孤独感が漂います、、辛いエネルギーで覆われます。その多くの時間を無我に入り全体そのものになっていますと、、安心感がこみ上げてきます。

入り込むことを大切にする

1日の中で何度も集中します、、何かの作業をする際は集中することを重要視します、、集中できない時は無理をしない、、これを何度も行います、、、、自分という存在を捨てて、、行為に没入します、、、すると全体そのものになります、、、何にも集中できない時も、、全体として観察します、、全体として集中が起きるのを待つのです。

体の硬さを取る

体をストレッチしたり、、全身を動かします、、全身にエネルギーが満ち溢れるように体を動かしていきます、、すると五感が開くことで経験が開いていきます、、、経験を感じているのはまさに全体ですから何もしなくても全体で居られるのです、、、「個人で居る」のは思考です、思考がこれを支えています、つまり思考を落としますと個人では居られなくなるのです。常に体を鋭敏にする癖をつけていきます。

無意識という言葉の意味

意識が無い

無意識に何かをしてしまう、、自覚なく何かをしてしまうことを無意識と言ったりしますが、、、これは間違い、、、無意識とは、、、全ての言動を自分がやっていると勘違いしている状態です。。。????え、、、じゃあほとんどの人は無意識に活動しているではないか????そうです、、、ほぼ全員が無意識に生きているのです、、意識が無い状態で生きています、、、だから苦しいのです。

全ての言動は大いなる気づきの意識から起きている

実際には我々は全部を意識しています、朝起きて寝るまで意識が欠落することなど皆無です。ですが重要なポイントはこの自分がやっているという勘違いなのです。この自分が言動を作っている状態、、これが無意識です。本当は大いなる気づきの意識から言動が起き、それを大いなる気づきの意識が気づいているのです。この最重要なポイントを掴んで人と話をしてみてください、面白いことが起きます。

言葉が減ってくる

大いなる気づきの意識から言動は起き、それを大いなる気づきの意識が認識をする、、、このことに気づきますと、、無駄な思考が全く湧いてこなくなります。無駄な言動が減ってしまう、、、、ああだ、こうだの言動が減っていくのです。代わりに何が起きるか、、、大いなる気づきの意識としての自覚です。大いなる気づきの意識として「私」から出てくる言葉に気づくという気づきが起きます。

全てを意識する存在

もしもこの体が蜃気楼だったら、、

もしもこの体が蜃気楼だったら、、、この景色が見えているのはなぜでしょうか??音楽を聴いているのは誰でしょうか?コーヒーの香りを楽しんでいるのは誰でしょうか???ベーコンを噛み砕く感覚を所有しているのは誰でしょうか??もしもこの体がただの蜃気楼で実在していなかったら、、、、そして事実はこの体は蜃気楼です。そうなるとこの五感の感覚を完璧に捉えているのは誰でしょうか???それが全体、根源、大いなる意識と呼ばれる存在です。

???じゃあ私が全体なのか???

この五感の全てを所有してきたこの自分の体が蜃気楼であることが分かると、、おかしな気持ちになります、、、それでもこの五感は完璧にこれまでの人生あらゆる感覚を掴んできたぞ、、今日も朝朝食でベーコンエッグを食べたが、、香り、味覚、触覚、視覚、全て感じていたぞ、、、、そうです、、これまで自分の体がこれを感じていたと勘違いしてきただけで本当は全部全体が感じていたのです。???ではこの自分は全体なのか??その通りです。全体がこの蜃気楼である体になり切って全体験を所有していたのです。

だから五感を使っている時は全体そのもである

五感経験の所有者は完全に全体ですから、、経験している時は全体になっています、、経験しながら、、自分をやるのは不可能なのです。経験と自分錯覚の同時進行はできません、、、ベーコンエッグを堪能している時全体に戻ります、その時「自分が居る」を忘れます、、、韓流アイドルのコンサート中、、コンサートを堪能しているのは全体です、この時「自分が居る」を全体は辞めます、、大いなる気づき、全体、サムシンググレート、神は、、どこか遠くに居るのではないのです。今この瞬間ここに居ます。

それでも自分(縄張り意識)を愛せるか

実はこの自分こそが苦しさの大元だったと分かっても

縄張り意識こそが生まれて死ぬまでの苦しみを生み出します。野生動物は痛い、お腹が空いたはあっても悩むというこちはありません。それは自分という縄張り意識が弱いからです、縄張りを犯す侵入者がいてもそこを恨むということはありません、ですが人間は自分を攻撃する人間をしっかりと恨むことができます。この恨むことができるという事実が人間の苦しみなのです。

縄張りを守ろうとする意識も愛でできている

縄張りを守ろうとする意識は根源から現れていますからそれも当然愛そのものです。狼が縄張りを犯す侵入者を襲うのも愛の現れでしかありあせん。人間も縄張り(自分)を犯す侵入者に攻撃をしかけたり恨んだりしますがこれも愛の現れです。そしてここまで苦しいのならば自分を解放したいという思いが根元から湧いてきますがそれすらも愛です。どこまでいっても根源(愛)しか存在しないのです。結局愛しかなかった、、これが悟りです。

自分を犯す者を愛するということ

自分(縄張り意識)を攻撃してくる者がいてもそれも全部根源の現れですから愛でできています。愛が自分(愛)を攻撃するというストーリーがただ起きています。これを否定する意見(思考)がもしもあなたの中で起きたとしてもその思考すらも根元から起きていますからそれも愛です。そうですどこまでいっても愛しかないのがこの現象界、、それを生み出している根源(空)も愛でできています。

思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。

二元世界創造機、人間の意識

人間は名前を暗記するとそれをこの世から分離してみせる

この二元世界の創出は人間の機能あってこそです。人間は脳が極端に他の生物に比べて進化しその結果記憶機能、文字を扱う機能が発達しでありした。言語脳ですね。これによって共通認識で岩や花、滝、湖と、、、自然界の現象に名前をつけていったのです。そしてそれらを可能にしたのは記憶があるからです。共通認識で自然界に名前をつけることで生活は非常に便利になったと同時にその名前を付けた部位が完全に全体から分離することになります。これによってダイナミックなアートであるこの世が徐々に人間にとって生活しやすいただの背景になっていったのです。

小さい子供がサッカー場に行けば

小さい子供がプロのサッカー選手を観たくなってサッカー場に足を運べば、、、そこにはダイナミックなゲームが展開されるアートになります。ところがです、大人がサーカー場に行くとそうはならない、、、ただのサッカー場です。子供が見ている世界と大人が見ている世界はハッキリと違うのです。大人はあらゆる名前を覚えてしまったのでサッカー場に行っても様々な物が目に入ります、しかも分離して。子供は名前を知らないからこそ目の前にダイナミックなサーカーの試合、スタジアムが目の前にあるのです。だから子供は終始ワクワクが止まらないのです。

人間は便利な生活を手に入れる代わりに生気、活気をこの世から奪った

人間は多くの生命現象に名前をつけることで便利な生活を手に入れることができました。ですが同時にこのダイナミックなアートは殺風景なガラクタ、活気を失った物質、人物に成り下がったのです。これは人間の進化においては必然なことであり良い悪いの話ではありません。人間が進化の途上でそのような道を選んだということです。だから釈迦はそのことに気づき、この世は苦であると伝えたのです。ですがそれも進化の途上ゆえです、人間の苦しみが解明されてきたこれからは全く違う進化を迎える可能性があります。

思考との同一化から脱却した意識

気が抜けたような感覚

「思考こそが私」これが99.999999パーセントの人々の認識の仕方です。ですから会議の場所で何も発言をしていないと心配になります。飲み会で発言は少ないと心配になります。ボールに一切触れていないサッカー選手のような気持ちになります。だからこそなんとか思考し発言したい、、私はここに居るよと。ですが「この思考は自分ではない」この気づきを得た意識はもう思考との同一化に興味がありません、なぜならばそれは苦しい世界への入り口だからです。何も正解がない世界、話せば話すほど、思考すれば思考するほどに苦しくんる世界です。そんな人生御免被りたいという話です。

思考を使えとひたすらに沸き続ける

思考との同一化をしている意識にとって思考ほど当てにならない存在はありません、なぜならば常に不安定極まりないからです。毎日瞬間瞬間全く違う思考が湧いてくるわけでこれを自分とする不安定さたるや半端ないという話です。感情も然りです、不安定極まりないという話です。不安定であるからこそ思考も感情も泉のように湧き続け同盟関係を維持します。ですがこの同盟関係のしんどいところは湧けば湧くほど「同一化した自分」が肥え太り苦しみも増大するのです。

今日の機嫌はどうですか?

大御所タレントになるとどのスタジオでもこの機嫌というのを周囲は気にします。結局にところ機嫌が良ければ変な発言はしてこない、ですが機嫌が悪ければどんな発言すらしてくる、当然粗探しのような発言を。つまり思考などは感情の処理でしかないのです、どんなに正論をかざしても結局は思考とは感情の処理です。負の感情が湧き続ければ思考もその処理に使われているだけです。自分でも分かっている、機嫌さえ良ければそれでいいのに。。ですがその機嫌をとることが一番難しい、、、、

思考も感情も自分じゃない

残念ながらこの事実を発見しない限り思考と感情の二人三脚に一生を費やすことになります。思考と感情を自分のモノ、自分と定義して生きている限り常時このパターンです。思考と感情は自分ではない、、、この境地をいかに身に付けるか、、思考が湧いても感情が湧いてもそれは「本当の自分」とは全く関係がない、、この感覚をいかに掴めるかにあります。この感覚をしっかりと掴めるように不思議なことに思考も感情も湧いてこなくなります。

意識がこの体に入り込むことで「自分」が生まれた

「自分」とは体+意識

自分というものが幻想なのは、、体に意識が入り込むことでできているからです。体に全存在が入り込んで「自分」という感覚、メカニズムが起動しました。これはあくまでメカニズムですから意識が体から抜ければそれで終わり、死ねばそうなります。「自分」というものは体+意識のメカニズムのことです。体がなくては自分ができないし意識がなくても自分はできません。そういう意味で自分というのは体と全意識の複合体ということになります。「自分」という感覚は後付けてできたものですが「居る」「在る」という感覚が絶対にあるのは「意識」ゆえです。

「体+思考+感情」を「自分」とする思考を「全意識」が意識する

自分とは全意識の中の突然変異です。全体の中に独自の個別の意識体が存在するかのように錯覚できるプログラムです。全意識はこの体の中に入り込むことで「自分」体験をするわけですが、では「自分」以外を全意識は意識できないか?と言われればそんなはずはありません。全意識とは全部を意識するからこそ全意識なのです。ではなぜこの「自分」は意識しているのに自分以外は意識できていないかと言えば自分以外は全意識そのものだからです。「自分」だけが全体、全意識から分離しているシステム上なっているのでこの体で五感することを意識できているのです。全意識はこの「自分」のみを異物化し「自分」の中で起きることを意識できるようにしています。全意識は異物化した「自分」で全意識(自分以外)を生きるという自分体験をしています。

「自分」はいつも居心地が悪い

全意識が異物化した「自分」は思考というフィルターを通じて全意識(自分以外)を生きます。思考というフィルターを通じて見ますからそこには価値観が投影されます。人間は目に見える世界に名前をつけてラベルを貼り名前が付いていないものは背景化します。ありのまま(全意識)を見ているのではなく思考によってラベル化された独自の世界を見ているのです。全意識が「自分」を経験しているわけですからこの経験は大変エキサイティングになります、そして自分の構成物質は全意識ですから「自分」は同時に全意識そのものに常に戻りたいというストレスを抱えています。「自分」を楽しんでいる全意識と全意識に返りたい「自分」のせめぎ合いが常に起きています。これが人間の面白さであり苦しさです。

意識の体体験が動物、意識の体・思考体験が人間

動物と人間では意識の同一化が異なる

意識が体体験をしているのは動物です。意識が思考体験をしているのが人間です。思考体験は人間でしかできません、なぜならば思考は人間にしかないからです。思考の基本は言語です、言語を使いこなす脳を持つのは人間だけです。人間は言語を操ることで思考というものを使いこなすようになりました、これにより意識は思考に同一化したのです。思考が湧くと意識はそこの成り切り思考が見せる世界の中に入り込んでいきます。我々人間が見ている世界は実は思考が作り出しています、その証拠に人間は名前をつけたモノに意識をフォーカスし、名前が付いていなものをフォーカスできません。渋谷駅で知り合いを見つけた時、知り合い以外が見えなくなります。知り合いとは名前がついた存在です。

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることで新しい体験を積むことに成功する

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることでそれに成り切ることに成功しました。人間が見る世界は思考が作り出した分裂した世界でありその中を人間を通じて生きるという体験を積むことに成功します。意識が意識そのものであることでは絶対に味わえない経験をすることに成功したのです。人間が見る世界は実は全員違います、それは思考が違う、そしてモノに対する名前の付け方も違うからです。名前が違うということは見ている世界が違うのです。人間は名前がついたものをよりフォーカスして見るようになっています。

どの思考の世界を生きようとこの世界が苦しいことに変わりはない

人間は一人一人独自の思考を持つので、独自の世界を生きています。誰一人同じ世界を生きていないというのがこの人間の特徴です。全員が違う世界を生きているのですが、全員が生きるのが苦しいという点は共通しています、皮肉にも。なぜならば自分はこの心身、人間であるというこの考え方認識が勘違いだからです。具体的にはどういう勘違いかと言えば大いなる存在、全体がこの心身に同一化しているという勘違いです。広大無辺な全体がこの有限の体、思考を自分自身であると勘違いすればどうなるか??強烈な閉塞感に苛まれることになります。これが人間のスタンダード、地獄、苦しみ、生きずらさ、孤独感の根源です。