マリオ

根拠を知りたい人間の性

人間は根拠を知りたがるが

目の前で音が鳴った時に、、なぜ鳴ったのかを知りたがります。目の前で人が起こっている時なぜこの人は怒っているのかを知りたがります。ですが実際にはそれらが実在しているという誤解があるからこそ生まれてくる欲求なのです。事実は何も実在していません、ですから起こる現象に根拠などどうでもいいのです。例えばその音は扇子が閉じたことで鳴ったことが分かったかもしれませんが扇子は映像でしかありません、目の前の人は携帯電話で話をし相手に向かって怒っているのが分かったとしてもそれもそう見えているだけ、これが事実です、どちらも映像としての事実です。

物質が在るというのは事実ではない

物質に見えるも物が我々の身の回りには溢れていますが、、これは全部嘘です。なぜならば物質という有限の物がもしも実在しているならば、、この地球の外には太陽系があり、太陽系の周りには銀河系があり、銀河系の周りにはアンドロメダ系がありと、、、このシステムが終わるがなく理論的に破綻していることになります。目の前に物質としての実在はあるはずがないのです。ということはこの体が実在しているも真っ赤な嘘、この体は間違いなく実在していません、画像としては間違いなく実在していますが。

マリオは画像としては100パーセント存在する

マリオが画像としては100%実在するが物質としては実在しないように我々の体も画像としては100パーセント実在しますが物質としては100パーセント実在しません。この体を画像として触れた感触として、嗅いだ香りとして、叩いた時の音として以外を確認できた人は一人もいません。この画像社会の中で物質的根拠を探すのは無駄なのです。扇子をどこまで分解してみてもそこにあるのは紙という画像、紙を粉々にしても木の粉という画像が続くのみ、、その先には何もありません。

相手に感情があると思ってゲームをしない

ゲーム中にクッパの感情を察するか

これはゲームです、このゲームは完璧であなたが認識したことだけが事実になります。あなたが悲しいを感じるならば悲しいは確実にあります、あなたが楽しいを感じるならば楽しいも確実にある、ですが相手の楽しいは感じることができませんからこれは事実ではありません。スーパーマリオのクッパの感情をマリオが一切感じることができないようにその感情は皆無なのです。感情フル回転していそうなクッパの姿は間違いなくありますがクッパの中の感情は確認できない、つまりないのです。だからこそゲーマーはクッパの感情を察するなどしないのです。

感情があると想定して生きないと難しいが

クッパには感情がないのですがだからといって無闇に攻撃すればクッパの反撃に遭います。ですからクッパを雑に扱うべきと言っているのではありません。そうではなく無いものを気にし過ぎて苦しくなるのは無駄ですよ、という話です。ある人を怒らせてしまった、、今も怒っているのだろうか???怒っていません、なぜならば今目の前に存在しないのならばこの世に存在していないからです。

とことん気楽に生きる

人間関係が一番疲れる、なぜならば相手の深層心理を読んでコミュニケーションを取らないと相手に失礼になってしまう可能性があるから。そうではないのです、これはゲームですから本当は全く感情はない、ただゲーム上相手を気遣うべきケースがあるということです。所詮はゲームだから相手を怒らせてもなんでも実はOKなのです。スーパーマリオと全く同じゲームなのだという腹落ちが重要です。するともう深刻に捉えることができなくなります。

プールで泳いでいたらいつの間にか海にいた

この脳内映像は完璧過ぎる

スーパーマリオなど三十年前のゲームは詰めが甘く至る所で完成度が低い、穴に落ちて死ぬはずが落ちても死なない、、クッパが同じ動きしかできない、、画面端ではマリオが映らなくなる、、などなどあってはいけないミスが多いのです。ところがこの自分ゲームではそんなミスは一切起きない、、、友人Aと遊んでいたらいつの間にかBに変わっていた、、、プールで遊んでいたら海になっていた、、山を登っていたら家に戻っていた、、こういったミスが起きないのです。この完成度の高さこそがこのゲームの醍醐味、感動です。

当たり前過ぎて誰も感動していない

このゲームの完成度は高過ぎて誰もそれに感動ができなくなっている、これが人間が不幸になるポイントです。それゆえ目標や夢を追い求め刺激から幸福になろうとするのです、ですがこれは邪道、見当違いです。ゲームの完成度に浸ることこそがこのゲーム最大の至福なのです。お金持ちになったらちゃんとタワマンに住める、貧乏になったらちゃんと取り立て屋が来る、、、この寸分狂わないゲームの完成度こそが醍醐味なのです。しかもこの映像は全て感知する体抜きには成り立たないのです。

五感が無ければこのゲームは消滅する

あなたの五感が無ければポルシェの色は消滅します、あなたの嗅覚が無ければ松茸の香りはこの世から消滅します、あなたの触覚が無ければこの世から高級皮のソファーの手触りは消滅します。五感がこの世界を作り出しているのであって体験そのものはどこにも落ちていないのです。全ての体験を作り出すこの五感こそが素晴らしいのであってポルシェの乗り心地も、高級ワインの味も、高級ソファーの手触りも全て人間の五感に依存しているのです。

この世界では自らを殺める自由すら与えられている

間違えることができるのは愛

本当の意味では間違いというのはないのですが、、この人間ゲームでは間違うという自由すら与えられています。これはゲームですからどの行動も完璧です、ゲーム上で行える行動は全部許されているからその選択肢があるわけです。そうなれば我々の行動には一切間違いはありません、マリオゲームでのプレイに失敗は全くありません。クリアする上で非効率に見える行為があるだけです。この人間ゲームも同じ、このゲームでは自らを殺めるという自由すらも与えられています。

なぜそのような自由があるかと言えば、、

なぜそのような自由があるかと言えばそれこそが愛、神、ワンネスが舞台の大元だからです。この人間ゲームではあらゆる失敗をすることが完璧に許されているのです。そして失敗とは人間が考える価値観であり宇宙には失敗という概念すらありません。人間という存在が苦しむ自由が与えらえているので自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるということです。

苦しむ自由が与えられている、、

この人間ゲームの特徴は苦しむという自由が大前提にあるということです。神が人間になり切っているわけですから基本が苦しみです。あとはその苦しみをいかに回避しながらも苦しみの根源に迫っていくゲームです。ゲームの特質上、途中で自らを殺めるという選択肢を取る自我も現れるでしょう。ですがそれすらもそのような行動をとる自由が与えられているというゲームの寛容性なのです。

「怖い」の真実

怖いは、、、自分が原因

よくよく考えてみればこの宇宙の動きは完全完璧であり何も怖いことは起きようがない、、、ただ自然現象、宇宙現象が移りゆくだけです。人間というこの浅知恵の動物の何億倍完璧なゆらぎの中で我々人間は生きています。ですが人間はその完璧なゆらぎの中で「怖い」を抱えながら生きています。これほど怯えた野生動物はいるでしょうか???将来不安、将来不安、老後不安、日本の行末、、、、病気でしかない

そうです、完璧なる神経症

人間という動物に完全同一化しますと「怖い」を抱えた神経症が完成します。人間という動物をただ動物だと俯瞰できると神経症は治ります。ただそれだけです。5歳児、6歳児の子供は学校から家に帰ると僕は僕は。。今日こうだった、ああだったを連発します、、、これは自分の存在を認めて欲しいからです。これは自然な流れです。ですが大人になると自然に気づきが起こります、、、この自分自分の自分は一体何だ?ただこの体、思考、感情を自分だと定義しているだけでその定義がなければ一体誰だ?ということです。

神経症脱却はこれだけ、、、自分を辞めるだけ

この体、思考、感情をひっくるめて「自分」とすると神経症に襲われます。怖い怖いが押し寄せてきます、波のように押し寄せてきます。この体、思考、感情を自分としないと決めると、、、怖い怖いが押し寄せてきません、、何のこっちゃです。映画の中に主人公になりきってミッションインポッシブルを見てみてください、、怖くて観れたモノじゃない、、、、心臓が破れそうなぐらいの衝撃を受けるはずです。。。。ですがあれは映画だから楽しめている、、、、

「自分ではない」として生きていけるのか?

逆にしっかりと生きていけます、常に冷静に冷静にこれまでの「自分」を観察できます。負の感情が襲ってこないので飄々と生きていけます。何をしていても負の感情に襲われることがなくなります。怖い、不安、危ない、危険が襲ってこない、、、常に平和、歓喜、安堵の中で動くことができます。なぜならば怖い、危険、不安は体、思考、感情との同一化が生み出してきたからです。マリオゲームをやるときにキャラに成り切ってやるか、プレイヤーとして冷静にやるかの違いです。

悟りを本当に知りたい人などほぼ皆無

マリオゲームの途中でクリアー後のことなどどうでもいい

これは人間ゲームです、人間が実在するという大前提で行われるゲームです。人間は次から次へとお題、目標、問題が与えられそれをこなして生きていきます。その際になぜこれをするのか?なぜこんな目標があるのか?など基本考えません、考える必要もない。なぜ就職するのか?なぜ結婚するのか?なぜ子育てをするのか?なぜ、、、これらを真剣に考えたところで答えなど出ないし苦しいだけです。そんなことよりも重要なことは今目の前のお題をこなすことです。

人生のお題をこなし続けた時に初めて興味が出る

人生のお題を真剣にこなし続け、結果も出し続けた時に、、いつまでこのお題をクリアーすれば自分は幸福になるのか?という疑問が湧いてきます。まあまあ真剣にお題に取り組んできた、だが一体いつ本当の幸福に辿り着けるのか?こういう疑問が湧いてくるようになります、自然と。こうなるともう目の前のお題に真剣に向き合うことができなくなります。それはもう何千回もやってきたからです。

目の前のお題をクリアーしても幸福になれないことは知っている

何度も人生のお題をクリアーしてきた人は、次に来るお題をクリアーしてももう幸福がないことを重々知っています。周囲からの称賛も、周囲からの評価も、収入も、安定も、全部自分を幸福にしてくれないことは百も承知です。その時にこの人間の苦しみとはどこから来ているのか?という漠然とした疑問が湧くようになるのです。このお題処理ゲームを続けることはできない、その奥にある原因を解消したいという真の探究が始まります。

確かにこれは見抜けない

ついに悟り、自己超越に興味を持ちそれを学んでいきますとその境地は確かに普通に生きているだけでは捉えられないことを悟ります。なぜならばこの自分が実はいないというメッセージは衝撃的であると同時に怪しすぎるからです。特に自我はこの手の情報を完璧にシャットアウトします。これは機械反応、脊髄反射的に遮断します。自分という神が編み出したこのアイデアを人間ごときが見抜くなどほぼ不可能に近くそれゆえこの手のメッセージを学ぶことはリスクが多いことになるのです。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。