根拠を知りたい人間の性

人間は根拠を知りたがるが

目の前で音が鳴った時に、、なぜ鳴ったのかを知りたがります。目の前で人が起こっている時なぜこの人は怒っているのかを知りたがります。ですが実際にはそれらが実在しているという誤解があるからこそ生まれてくる欲求なのです。事実は何も実在していません、ですから起こる現象に根拠などどうでもいいのです。例えばその音は扇子が閉じたことで鳴ったことが分かったかもしれませんが扇子は映像でしかありません、目の前の人は携帯電話で話をし相手に向かって怒っているのが分かったとしてもそれもそう見えているだけ、これが事実です、どちらも映像としての事実です。

物質が在るというのは事実ではない

物質に見えるも物が我々の身の回りには溢れていますが、、これは全部嘘です。なぜならば物質という有限の物がもしも実在しているならば、、この地球の外には太陽系があり、太陽系の周りには銀河系があり、銀河系の周りにはアンドロメダ系がありと、、、このシステムが終わるがなく理論的に破綻していることになります。目の前に物質としての実在はあるはずがないのです。ということはこの体が実在しているも真っ赤な嘘、この体は間違いなく実在していません、画像としては間違いなく実在していますが。

マリオは画像としては100パーセント存在する

マリオが画像としては100%実在するが物質としては実在しないように我々の体も画像としては100パーセント実在しますが物質としては100パーセント実在しません。この体を画像として触れた感触として、嗅いだ香りとして、叩いた時の音として以外を確認できた人は一人もいません。この画像社会の中で物質的根拠を探すのは無駄なのです。扇子をどこまで分解してみてもそこにあるのは紙という画像、紙を粉々にしても木の粉という画像が続くのみ、、その先には何もありません。

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