五感

神は夢の中で人間に恋愛を与えた

恋愛とは人間の救済措置の一つ

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に人間を創造し人間の五感を使ってこのバーチャルリアリティー、立体型3Dゲームを作りました。人間が触ればそこに物があるように錯覚でき、人間が目線を動かせば見える世界が変わります、人間が匂いを嗅げば何かしらの香りを錯覚できます。そこにさらに感情、思考を+することでこのゲーム、夢は完全無欠な状態になっていきます。誰もこれが幻想、夢、ゲームとは見破れません。全員がほぼ騙されます。神が作ったこのゲームを見破れる人間などいるはずがないのです。子供は実はこのことを知っていますが伝える言葉を持ち合わせていないのでこの事実は封印されているのです。オープンシークレットという言葉は絶妙にこれを言い当てます。人間という極小の存在に成り切った神は不足感、絶望感、欠乏感を感じ続けるということになるのです。この不足感を一時的に満たしてくれる存在、それが恋愛です。

恋愛は不足感を癒してくれる

人間が恋愛に憧れるのは、この脈々と湧いてくる不足感を癒してくれることだからです。自分を好きになってくれる存在がいる、、自分を必要としてくれる存在がいる、、これは根本的な不足感を一時的に癒してくれます。自分は一人ではない、、、この地球上で一人で生きていない、、このように孤独感を癒してくれます。全部(神)が一部(人間)に成り切っているので再び全部に憧れます、渇望します。それを癒してくれるのが恋愛です。

問題はそれでも不足感が沸き続けること

ただしこの夢、ゲームは容赦無く人間に不足感を感じさせます。この不足感は神が人間になってしまったという根本的不足感ですから恋愛で全ての不足を満たしてくれるわけがないのです。ということで人間はこの不足感を埋めるために次の目標を定めるのです、自分には子供が足りない、自分には家が足りない、、自分には車が足りない、、自分には孫が足りない、、このようにこのゲームは続いていくのです。最悪にもこの不足感を相手にぶつけると大変、相手の粗探しになります。もっとこうして欲しい、もっとこういう態度をとって欲しい、もっと収入の良い仕事に変えて欲しい、、これは破綻に向かいます。ベクトルが内に向くか、外に向くかの違いです。

神は夢の中で夢を見る

子供が見る夢とは本来の自分の姿とのこと

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間の体になりきり、同一化しこの夢物語、ハイスペックバーチャルリアリティーショーを始めます。神がドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーをスタートします。人間の五感はこのバーチャルを作り上げるための電気信号です、さらに脳が人間の行動、経験を記憶することでストーリー化するのです。記憶された経験からそれを価値観にしていき、そこから思考し、感情も生み出します。感情に関しては根底に不足感がありその不足感が他の感情に置き換えられていきます。神が人間という極弱の存在、極小の存在に成り切るわけですから圧倒的なストレス、不足感、欠乏感を感じ続けるのがこのゲームのデフォルトです。子供の頃は自身が神であったことを強烈に覚えていますから強い存在、スターに憧れを持ちます。夢の中で本来の自分を思い出しているのです。

小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた、、、

ユーミンの歌詞でこのようなものが曲がありましたが、これは真実、小さい頃は自身が神であったことを覚えていますから神として夢を叶えていきます。大人になると人間に成り切っていますから神であった記憶は遠く向こうに。人間活動に精を出すようになります。人間は努力すべき、人間はルールを守るべき、人間は人情に厚くあれ、人間は自由を守る権利がある、、、人間ルールにどっぷり浸かり始めますがこのルールは完全に的を外しています。

大人になって夢を諦めるのは自然なこと

大人になると大人しくなります、大人になると現実的になります、大人になると常識的になります。それは当たり前、自分自身が神であったことを完全に忘れていますからこの極小の存在、人間が自分であると腹の底から信じています。自信を失い、将来を失い、安心を失い、歓喜を失った状態、、これが大人の人間です。ですがそのような地に落ちた状態か少しずつ過去の記憶を取り戻していく、それが神が神を自覚していくことになります。なぜ子供の頃は毎日が新鮮だったのに今は退屈なのか?なぜ子供の頃は楽しい人間関係しかなかったのに今は間反対なのか?こうしてあらゆる疑問が自身の存在の秘密を解いていきます。

神はこの夢の中で人間を作り五感を授けた

人間は五感でこの夢を構築する

神はこの夢の中で人間を作り人間体験を積むことにしました。人間に五感+思考+感情という7つの感覚を授けこの夢を想像しその中での体験から思考、感情を湧き出すように設定しました。五感によってあたかもこれが先ずは現実であるかのように創造する超ハイスペックなバーチャルリアリティーショウを作り上げたのです。神が人間に成り切っているわけですからとてつもない欠落感、欠乏感が湧いてきます。神には人間は不自由すぎるのです。そのためこの不足感、欠乏感をなんとか埋めようと人間に成り切った神はこのバーチャルリアリティーを動き回る、彷徨い歩く、貪り続けるのです。この状態を仏教では飢餓、畜生と呼びます。なんのことはない神が人間になって驚くほどの欠乏感を味わい貪っているだけなのです。餓鬼、畜生とは貪った状態の人間の顔をした神です。神が人間のあまりの不自由さに驚くほどのストレスを感じている状態を地獄、餓鬼、畜生、菩薩と表現を変えたものです。貪った状態からいかにその欲求を次元上昇させていくかになります。

人間の五感+思考+感情はゲームの醍醐味

もしも人間に思考、感情を与えなかったらこの夢、バーチャルリアリティーは驚くほどに味気ないもになるでしょう。感情、思考があるからこそ人間は行動します。行動しない人間は神そのもの、そこに体験はありません。五感+思考+感情、これがこのゲームの基本デフォルト機能でありこの7つを駆使してこのゲームを貫徹することになります。経験によって思考が変わり、それによって感情も変わっていきます。人間は最終的に至幸とは何かを探索する主人公です。ゲームのクリアは究極、延々の至幸に行き着くことです。なぜならば人間とは欠落感発生器でありその対極が大満足、幸福の局地です。延々の至福を求め続けるこの大冒険は至福に辿り着くまで続きます。

人間という体を持った状態で至福には基本たどり着けない

神が自身を人間であると勘違いした状態で至福に至ことは不可能です。それは人間であるという思い込みこそが不足感を生み出すのでありその状態は至福とは対極です。相反する状態、矛盾状態にあります。パラドックスです。神が自身を人間であるという思い込みの呪縛を解き、自身が神であったことを思い出す時が至福です。なぜならば神=至福だからです。この五感+思考+感情という7感体験ゲームの中でいかに自身が神であったかを思い出すか、ということになります。

人格者とは何か?

人格者も非人格者も苦しみは同じ

これは夢です。この夢の中にいる限り人格者も非人格者も苦しみは同じです。同じように苦しいのです。この夢の中にいた状態で人格が苦しみを和らげてくれることはありません。なぜならば自分は人間であるという思い込みが苦しみを作り出しているのであってその人間の格の高さは苦しみの解体とは全く関係がないのです。ですがそれでも人間が人格者を尊敬するのは他の人とは苦しみの種類が違うということだけです。人格者も非人格者も同じように苦しんでいます。苦しみの種類が違うだけで苦悩者であることは何も変わりません。

あえて言えば人格者は苦しみの種類を変え続けた者

この夢の中では自身はこの人間であるという錯覚こそが苦しみを生み出します。五感が感じるのだから独立した存在である、この体があるのだから独立した存在であるという思い込みを人類全体で行なっているのです。夢の中で。だからこそ人格者の自殺、成功者の自殺、牧師さんの自殺、僧侶の自殺、グルの自殺はこの世界ではタブーです、苦しみを解明したと思われている人の死は多くの人々にショックを与えます。夢の中で。本当のことを言えば人格者とは苦しみを表面的に解消し続け苦しみの種類を変え続けてきた人々です。多くの方が将来の経済的悩み、健康的悩みを抱える中で人格者は尊厳を得続けていけるだろうか、周囲から評価され続けることができるだろうか、、という悩みを抱える者なのです、例えばですが。

夢の中で悩みを解消することは不可能

夢の中に自分という独立した存在があるというこの勘違いこそが苦悩を生み出していますから、この勘違いを解消することなく苦悩を解消することはありません。ところがそのようなメッセージに触れることはほとんどないために延々にこの夢の中で必死にもがき続ける人生(夢物語)を送っていくのです。一番重要なことはこの夢から覚めること。それだけです。

一生忘れられないような嫌味を言われても、、

夢の中での発言を気にするのはおかしい

これは夢です。ワンネス、大いなる一つが見る夢です。この夢の中であなた(主人公)が他人(脇役)から一生忘れられないほどの嫌味、悪口、暴言を言われてしまったとしてもそれも夢の中での出来事です。そうしたのはワンネスです。脇役(他人)に何の自由意志もありません。だからこそムキになって言い返す必要はないのです、もちろん思いっきり言い返してもいいのです。ですがどちらも夢の中での出来事です。半沢直樹よろしく三倍返しにしても大丈夫です、ですがそれも夢です。

命を狙われたら

何かとんでもないトラブルに巻き込まれて命を狙われてしまったら、、、迷わず警察に通報してください、、、夢ですがやっぱり痛い思いはしたくないですよね。夢ですが痛覚はガンガンにあります。刺されたら強烈に痛いです。夢ですが。五感は全開です。夢ですが飲み屋で人に絡めば普通に殴られます、、、そして痛いです。夢ですが路上で猥褻行為をすれば普通に捕まります。そして普通に留置所に入れられます。

夢ではあるが、、五感全開

これは夢です、、夢だからといって全く寝ないで仕事したり、、長距離を無理して歩いたり、、三日間食事をしないなど無理をすれば普通に疲弊します。この夢はスーパーリアリティーショウ。五感全開です。自ら不快なことをする必要はないのです。

「自分は特別な気がする」は当たり前

特別も何もこの夢の主人公

あなたはこの夢の主人公です。この夢、ワンネスが見ているこの夢の主人公があなたです。ですからあなたが見ているこの現実、視界に広がる現象界においてあなた以上の存在はありません。あなた以外は脇役、チョイ役、いても主要キャラぐらいのものです。だからこそ自分こそ特別、自分だけは何か違うと感じるのは当たり前です。全員平等、全員が特別、人を比較してはいけない、、綺麗事は色々ありますが自分(主人公)以外は全て夢の登場人物に過ぎません。

主人公すらも夢の登場人物に過ぎない

この映画、夢はあなたの視界とセットで広がっています。あなたの聴覚とセットで広がっています。あなた目線、あなた五感で広がっています。ですから他の登場人物とあなたが同価値であろうはずがありません。あなたがいなければ他の登場人物は存在できないのです。だからこそ他の登場人物から何か誹謗中傷を受けても気にする必要はありません、所詮は脇役の主役への嫉妬です。あなた無しでは存在できない脇役の戯言など気にするほどの価値はないのです。ただしあなた(主役)すらもこの夢の登場人物でしかないことも事実です。

あなたを認識しているのがワンネス

今もこのブログを書きていると意識している存在がいます、私がこのブログを書きている、それを認識する、気付いている存在が間違いなくいます。食事をしても、仕事をしている時も、会話をしている時もそれを見ている、気づいている存在、それがワンネスです。この夢を見ている張本人です。この夢の主人公であり脇役であり、全てを認識する存在です。

蜃気楼は確実に見える、だが実在はない

ハッキリと見えるのに実在しない

人間は視覚を誤解しています。蜃気楼はその良い例で確実に見えるにも関わらずその場所に行くと何もありません。蜃気楼は光と気温などが原因で発生するようですがこの事実を甘く見ています。今人間が見ている世界がもしも蜃気楼のようなものだったら、、確実に触れる、、だから実在するも間違い。確実に匂いがする、、だから実在するも間違い。確実に聞こえる、、、だから実在するも間違い。五感で確実に感じるものは実在すると言うのであれば蜃気楼の説明がつきません。我々が見ている世界、触っている世界、嗅いでいる世界、聞いている世界、、これらは五感が確実に認知しているから存在していると言うのは乱暴な考え方です。

見えるし、触れるし、聞こえるし、温度もある、、だから実在するはおかしい

五感が確実に感じることは実在すると言う考え方は乱暴な考え方です。視覚で感じても実在しないがあるわけですから五感全部で感じても実在しないはあり得るわけです。我々は五感で感じれるものは実在すると言う大前提で理論を組み立てていきますがこの理論は稚拙すぎるのです。マトリックスでも有名なセリフ「五感で感じることが本当だと思うならそれは嘘だ、脳の電気信号にすぎない」まあこれはその通りです。五感とは脳の電気信号ですからここを操作すれば人間は何でも実在していると錯覚できるのです。これが夢だということを否定できない事実です。全てがより緻密な蜃気楼だったら、、、あなたの友人も親もパートナーも会社の同僚も触って喋って、匂えるような蜃気楼だったら、、あなたはこれを実在すると必ず錯覚するはずです。

昨日見た夢を思い出してください

あなたが毎晩見る夢で、、もしも高級フレンチに行ったならばそこでは心地よい音楽、舌触りの良いステーキ、深みのあるスープ、香りの良いワイン、、全てを感じるはずです。夢の中なのに五感全部でフレンチを楽しむはずです。もしも夢の中で極寒のシベリア探検隊に派遣されたならば、そこでの猛吹雪、肌を凍らすような気温、空腹感、暗さ、、全ての五感を通じて厳しいさを味わうはずです。人間が見る夢ですらここまでリアルに味わうことができます。これがワンネス、大いなる一つが見る夢だったらそれ以上のリアリティーある夢を創造できないはずがありません。人間という登場人物が見破れるような夢であるはずがありません。

良い音楽を聴くと至福が溢れてくる理由

良い音楽とは無心にしてくれる音楽

良い音楽とはどのような音楽のことでしょうか?単純に説明すればそれは無心にしてくれる音楽ということになります。思考を止めその音楽に浸れる、つまり体に感覚を戻せる音楽ということになります。人間は思考に浸っている時不足感、欠乏感、孤独感に苛まされます。ワンネスがこの心身こそを自分自身と感違いするこの夢ゲームはそのシステム上不足感、欠乏感がひたすらに湧き出てきます。その欠乏感、欠落感を一時的に忘れさせてくれるのが意識を体に戻す時になります。なぜならば体とは今(ワンネス)にしか居れないからです。体を過去、未来に連れてくことはできません。現象界というこの夢は今(ワンネス)が過去、未来という時間の中に埋没したものを言います。その中に今(ワンネス)は存在しないのです。

良い音楽は今(ワンネス)に引き戻してくれるツール

良い音楽は聴覚を使って体に意識を向けます。思考から体に意識をシフトチェンジさせます。思考は時間軸にしか存在せず時間軸はこの夢物語です。体は今にしか居れず、今はこの夢物語には存在しません。ではどこにあるのか?それはワンネスにあります。この夢物語を創造する根源です。それが体がある場所です。つまり人間の体とはいつでもワンネス(至福)に戻るためのゲートです。一方思考は過去、未来にしか存在できず故にこれは夢物語に意識を集中させます。思考が意識を夢物語に居続けさせるのです。夢物語とは苦の世界です。良い音楽は苦(思考)から至福(体・ワンネス)にシフトしてくれる神のツールです。

書道、花道、茶道などは意識を体に戻すツール

良い音楽は意識を思考から体に戻してくれる最高のツールです。体に意識が集中できると思考が抜け落ち、自我が抜け落ち、無我、無心、至福に至ります。書道、花道、茶道などは書を通じて、花を通じて、お茶を通じて思考から体に意識を戻す教えです。つまりこれを行うことで至福に至る教えです。どっぷりこの夢に浸り夢中になりこの夢から覚めることを忘れた人間が唯一夢から覚めた瞬間(至福)を思い出すためのヒントです。芸術は五感を通じて感じるものです、全て思考から体に意識をシフトさせるものです。苦(自我)から至福(無我)に至るヒントです。

過食症とは何か?

食事を食べる時、思考から身体感覚に戻る

ストレスが溜まった時に食事に走った記憶がある人は多いでしょう。ストレスが溜まった時のお菓子や、ケーキ、嗜好品は大変美味しく感じます。今回はこの点を悟りの境地から説明したいと思います。多くの方はストレスが溜まった時に思考グルグル状態になります。このストレスをいかに解消するかで思考がフル回転するわけです、そして思考がフル回転になればなるほどに自我モード、この心身こそが自分自身であるという思考も強くなり結果不足感、欠乏感が湧き出てきます。つまりストレスを解消しようとすればするほどに不快感が増していくという負のスパイラルに突入するのです。自我はストレスを餌にさらに自我を強化していきます。この負のスパイラルの救世主こそが食事です。食事を食べる時に体はこの食事を五感で味わいます、味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、、、この五感がフル稼働するのです。これによって何が起きるか?思考が止まるのです。人間の体は思考と五感を同時進行で使うことができません。思考がストップすることで自我が弛まり結果幸福感、至福感、安堵感が訪れます。つまり食事をしている時は強制的に無我の境地に至れるのです。

食事を食べると至福に至る

これは夢です、ワンネスが見る夢です。その夢の中で何故食事中は至福感が湧いてくるのでしょうか。体とは今にしか居ません。体が過去や、未来にシフトすることはできません。逆に思考は過去か未来にしか意識を向けることができません、思考は今にあることができないのです。この夢は今(ワンネス)が現象化したものです。今が過去から未来に向けての夢物語化したものです。この夢には実は今は存在しません。だからこそこの夢は基本苦しみストーリーなのです。そんな中で食事中は体に戻れる一時のチャンスです、食事をするときは今に戻れます、何故ならば体は今にしか居れないからです。体に意識を集中する時今にあります、つまりワンネスになるのです。つまり至福、歓喜になるということです。

タバコを吸い、お酒を飲み、食事をする、、これが体にシフトする人間のテクニック

お酒を飲みながらタバコを吸うと美味しい、食事をした後のタバコは美味しい、、、何故でしょうか。これは簡単です。食事もお酒も、タバコも全ては身体感覚が活性化するものだからです。その瞬間思考がストップして無我に入ります。無心に入ります、この状態は自我が抜け落ち今にある状態、ワンネスの状態、歓喜、安心、安堵の状態なのです。人間はこの夢の中で居る時は不足感、欠乏感、孤独感が湧き続ける状態にあります。ですが身体感覚に戻る間だけは至福、歓喜、安堵に戻ることができるのです。故にこれらは中毒化します。

全存在しかいないこの視界以外に存在があっていいわけがない

今この現実を認識している存在こそ全存在

今、この瞬間今を認識しているのが全存在です。今この瞬間認識していないことは何もないのです。もしもあるとしたら全存在が認識しないところで何かが起きているということになります。そんなことがあっては全存在が全存在ではなくなってしまいます。よってこの現実だけが今ここで起きておりそれが全て、地球の裏側では何も起こっていないし太陽系のどこかでも何も起きていません。この目の前の現実だけがあり、そこで五感を通じた認識、経験が全て、それ以外で経験が起きていたらそれは全存在が認識していない認識があることになり全存在はそのまま全存在でなくなってしまうのです。

10年前に別れた友人は今何をしているだろう?

10年前に別れてしまった友人は今どこで何をしているのか?答えを言います、いません。視界にいない人間はこの世にいません。もちろん卒業名簿をから電話番号をかけて10年ぶりに会ったとしましょう。会う瞬間その人はこの世に出現します。その瞬間までは声だけの出現でしょう。小学校時代の友人たちは今この瞬間にいなければいないのです。もしも居たとしたら今この現実を認識している全存在が認識しています。今全存在が認識していないならばいないのです。

会社に行っている間奥さんは自分を待っていないのか?

会社に行っている間、奥さんが姿が見えないならば居ません。存在が消えています、あなたが家に帰ったその瞬間までこの世にいないのです。あなたが会社にいる間退屈に待っているたんだと言ったとしてもそれは今言っているだけであって証拠は何もないのです。全認識が認識していないことは何も起こっていないのです。それだけです。全認識は全部を認識するから全認識であって全部を認識できない全認識は全認識ではないのです。