五感

背骨を通す

基本

ヨガ、アーユルヴェーダ、気功、、、、などの基本は最終的に背骨を通します、、、、背骨の浄化、背骨の解体、、、どうやらこの背骨が覚醒しているか否かが、、、重要になる、、、、背骨の覚醒が、、、そのまま悟り、、、感受性の局地、、、あるがままをあるがままに感じる体にする、、、、

下半身という土台

下半身は、、、、しっかりと強靭に、、、、かつ柔軟性高く、、、、これによって、、、背骨をしっかりと支え、、背骨が安定する、、、、そして脳からの指令が、、、的確に届いていく、、、、五感が解放されていく、、、五感が開いていく、、、、五感がこの世界をありのままに捉えていく、、、、

この幻想の世界で、、、

この幻想の世界で、、、、五感を開くとは、、、、幻想の世界に生き生きとした体験を生み出すということ、、、虚という実在しない世界に、、、、実という生命を生み出します、、、それが五感の役割です、、、、何もいらない、、、ただここに居るだけで、、、生命が湧き出し、、、生命と共に在る状態に至ります、、、、何かを手に入れたからではなく、、、、その何かと共に居るだけで充実、、、ここに至ります。

五感

なぜ食に走るのか????

五感が鈍れば、、、、楽しくない、、、、、結果、、、、食に走る、、、お酒に走る、、、仕事に走る、、、、異性に走る、、、、何かに走らざるをえない、、、、なぜか?????退屈だからです、、、、、五感が鈍り、、、何をしてもつまらない、、、、状況になる、、、、、、、

思考に走る、、、、、

五感が鈍れば、、、、思考に走ります、、、退屈だから、、、、退屈だから、、、、思考という刺激に走るのです、、、、、結果、、、、、思考中毒になる、、、、、でもこれでは五感が鋭敏になることはない、、、だからこの思考中毒は無くならない、、、、、益々思考中毒になっていく、、、、重要なことは五感を開くこと、、、五感を開いて、、、、今ここに居て感動できる体にすることです。

体を作る、、、

体を作ります、、機械運動ではない、、、、体の柔軟性を作り上げます、、、子供のような柔軟性を取り戻します、、、すると、、、、五感が開いてくる、、、、今ここに居て感動が起きる、、、今ここに居て楽しいが起きる、、、、すると何かに走るという中毒が消える、、、、何かをしなくてはという中毒が消えます、、、、ただここで楽しいが起きます。

五感開発マシーン

この体

この体を五感開発マシーンとして捉えます、、、この幻想を最大限感じるマシーンにしてしまいます、、、この幻想は体験しかできない場所です、、、この体験だけが真実です、、事実です、、、だから、、、、この体験の密度を上げていきます、、、、そのためには五感の鋭敏さを上げていく、、、これしかありません、、、、ここから離れると思考に取り込まれます、、思考の甘い罠に取り込まれます、、、

思考はいつでも、、、

思考はいつでもフル回転待ちです、、、思考はいつでも刺激に満ちています、、、いつでも悩みたい、考えたい、、なんでもしたい、、、だからフルオープンです、、、、ですがここに入ると抜け出れなくなります、、、なぜならば簡単だから、、思考に入り込むのは、、、、五感を開くよりも、、、思考にふける方が簡単なのです、、、だから、、、、退屈が解消しない、、、

思考に逃げない、、、

思考にこの退屈を解消してもらおうとしないことです、、思考ができることは幻想を作り出し刺激を与えてくれるだけです、、、本当にこれだけなのです、、、、、退屈解消は実は全くしていない、、、こん真実に触れることとは全く関係がないのです、、、それが思考です、、、、真実は体験でしか味わえない、、その真実が今この目の前に現れています。。。

退屈は五感が作る

五感が鈍れば、、、

五感が鈍れば、、全てが退屈に感じます、、何を観ても、、、感動が起きない、、、何を体験しても感動しない、、全部が全部予想通り、、、全部が全部想定内、、、、つまらない、、退屈、、、どうせこんなん、、、がエンドレスに続きます、、、、実際には実は五感が鈍り、、、思考が廻り、、、負のループを回っているだけです、、、、

体を開いていく

体を物理的に緩めていきます、、、体を物理的に浄化していきます、、、、、、見える世界が変わります、、新鮮さが出現します、、、感動が起きます、、、、なぜ???五感が鋭敏になっているからです、、、感動を感じるほどに五感が開いたからです、、、、チャクラが解放し、、経絡が開いているからです、、、、体に溜め込んだ感情というエネルギーが成仏しているからです、、、思考の無駄な回転が止まります。

真実に迫る

真実はこうです、、、全てが全自動、全反射、全無意識に、、起こります、、思考も感情も行動も全部が全部自動です、、これを感じれるまで体を開いていきます、、、この真実を体感でもって感じた時が悟りです、、、あ、、本当だ、、、全部自動で動いている、、、本当に何一つ、、、自分なんて存在は関与していない、、、ただ起こりが起こっているだけだ、、、、が理解できます、、体験できます。

感情を解放し、、五感を高める

体に溜まった感情

体に溜まった感情を、、、エネルギーとして感じ、、それを成仏させていくことは、、、五感を高める最も大きなツールになります、、、東洋医学では、、、、、、陰陽五行の経絡上に、、、全感情が溜まっていくと考えます、、、、この感情を、、、、、マッサージ、鍼灸、導引、漢方で解放し、、、病気を治すのですが、、、これが全身の五感を変えます、、、視覚は木、味覚は火、触覚は土、嗅覚は金、聴覚は水、、、、となります、、、つまりこれら五行の狂いは、、この世界の狂いです。

この世界をどう感じるかは、、、五感に依存する

感情は五行の経絡に溜まり、、、感覚は五行の経絡に依存する、、、そして感覚がこの世界を作り出しのですから、、、世界とは健康に依存することになります。勿論感情を生み出すのが我々の観念でありこの観念の形成を理解することは大変有効です、、、ですが溜まってしまった感情を今処理することで、、、五感が変わり、、、世界が変わってしまうという事実に目を向ける必要があります。

世界は五感で出来ている

この世界は五感でできています、、、というよりもこの世界は完全なる虚構ですから、、、幻ですから、、、この世界とは実は実在しません、、、この体もしかりです、、、ですが、、、この体を使った経験、感覚は確実に実在します、、、、ということで、、、この感覚の鋭敏さが、、、、この体験の充実度にそのまま影響するわけです。

五感全開、悟り全開

五感全閉、悟り全閉

五感が完全に閉じた時、、悟りが完全に閉じた状態です、、、、五感が完全に開いた時、悟りが開ききった状態です。。。。五感を閉じるには何をすればいいのでしょうか????ストレスを溜めまくり、、、不健康を極めれば、、五感は閉じていきます、、、睡眠不足が続きますと、、、五感が閉じ、、、幸福感は完全に無くなります。五感が開ききり、、全てを感じる時に、、、幸福が完全になります。

悟りとは体感だから

悟りとはこの現象の世界で完璧にこれを感じ切ることです、、、ありのままに完璧に感じ切ることです。突然の一瞥体験は、、多くの場合、、五感を開ききった状態で起きるのではなく、、、五感が閉じ切っていき、、、自我OSシステムが機能せず、、、自動削除されたものでしょう、、、本来はこの体を健やかに維持するための自我OSが陰転した状態にそこに至ったと考えます。

体を開き切る

体の全てを開き切っていきます、、そのためにヨガや太極拳、マッサージ、アーユルベーダ、整体などがあります、、、どのやり方が合っているかは個別に異なりますから、、、それはひとそれぞれ、、、体の感覚を開き切った時に、、、悟りが全開になります、、、、全経験が、、ありのままに鮮明に感じられます、、、幼稚園児のような体感が起きれば、、、それは悟りです。

今の幸福度は、、今の五感力

幼稚園児

幼稚園児は、、、箸が倒れただけで笑います、、これは何が起きているのでしょうか????五感力です、、、彼ら彼女らの感じている全てが大人とは全く違うのです、、、視界に起きた、、箸が倒れるという動きが、、、スーパー立体映像で起こり、、それがたた面白いのです、、、全く違う世界を幼稚園児は見ています、、、大人がどんなに解釈を変えて幼児になった気分でそれを見ても、、、同じような感覚で笑うことは不可能です。

五感力の向上

大人になって衰えたこの五感力を高めるにはどうしたらよいのでしょうか????そのためにヨガ、ストレッチ、マッサージがあります、、、あらゆるツールを駆使して体を鋭敏に戻していきます、、東洋医学では、、これを経絡で考え、、、経絡を解放していきます、、、幼稚園児ぐらいの柔軟さに戻った時に、、大人は箸が倒れただけで笑うのです、、、この状態が悟りです。

五感を舐めてはいけない

五感が全てです、、我々は五感を使った体験しかできません、、、この五感での体験が退屈になった時に、、人は六感である思考を使って思考で遊びます、、、ですが思考が作り出したお遊びは、、、お遊びに過ぎず、、そこには真実に直接触れるという醍醐味がないのです、、、六感に逃げずに、、、五感を充実させるのです、、五感の充実が、、、、虚しさを消滅し、、虚しさの究極の対局である、、悟りが待っています。悟りとは大満足のことであり、、、大満足とは、、今この場所に居るだけで、、、起こるということです。今この場所が大満足でない時、、五感を磨くのが全てです。

五感という充実

充実=五感

漢字とは非常に面白い、、、充実という言葉は、、、、、実が充ちた状態と書きます、、、なんという気づき、なんという答え、、、、、実とは何か???????実とは、、、真実、、、です、、、、虚の反対語、、、、、では虚とは何か?????虚とは、、、、、、真実ではないこと、、、真実ではないこと、、、この世界で真実とはたった一つしかありません、、、それは、、、、体の感覚だけです、、、もっといえば感覚だけです、、、これだけが真実です、、、残りは全て、、、虚です、、、、、、感覚=実、、、、五感=五実、、、となります、、、充実とは、、、、実が充ちることですから、、、、五感が充ちることです、、、、五感を使った経験を増やすと、、、充実します、、、、これが減ると、、、、虚しくなります、、、

なぜこんなことを言われたのか?????

なぜこんなことを言われてしまったのか????考えるのは時間の無駄です、、、虚の世界に入り込みます、、、擬似体験の世界です、、、五感で感じれない世界です、、、、時間の無駄、、、虚しくなります、、、あなたが言われた言葉は、、、その人から勝手にでてきた言葉です、、、それについておれこれ考えるのは時間お無駄、、虚に入ります、、、、ですがもっと俯瞰すれば、、、虚に入ること擬似体験をして楽しんでうるのですからそれも悪いことではない、、、、ですが本当は、、、より五感の世界に入った方が良い、、、体を健康にすると、、、五感を使った活動をし始めます、、、体は全部知っていますから。

健康になるだけで、、、

体が健康になりますと、、、五感を使った活動を勝手に体が起こします、、、五感を使った方が充実することは体は完璧に分かっています、、、ですから、、、ただ体を健康にするように導けばいいのです、、、悟りとは五感です、、究極の体感です、、、、ですから、、、、体を健康にして五感を完璧にし、、、、真実に多く触れ続け、、、本当の真実をありのままに感じることができた時に、、、目覚めます、、、、ありのままの真実を五感が感じることが悟りです。

真実を最初に知ってしまう

悟り本のメリットは真実を最初に言葉で知ってしまうということです、、、、真実はこうなっている、、、、それが分かれば、、、、あとはひたすらにこの現実でそれを発見していきます、、確認していきます、、、すると、、、思考、感情、行動に振り回されないことに気づきます、、、、健康になります、、悩めなくなります、、、五感を使った活動時間が増えていきます、、、この延長線上に本当の悟りがあります、、、真実を五感で感じるが起きるのです。

五感で感じていたのは、、この私ではなく、本当の私だった

「今日は良い日だな」は誰が感じてる?

今日はいい日だなー、、、この感情を感じてるのは誰でしょうか???この体の中に居る自分ですよ、、確実に今感じましたから、、、、違います、、、本当の自分が今感じたんです、、本当の自分ではなく、、間違いなく私が感じましたけど、、、違います、、その私が本当の自分なんです。????そうです、、あなたこそが本当の自分、この夢の創始者、この夢の観察者です。いや、、私はこの体の中の住人に過ぎない、、その証拠にこの体の中の感覚しか持っていない、、あの人の感覚も、、あそこの人の感覚も持ち合わせない、、

この夢は、、この体が主人公の夢

そうです、、、この夢はこの体が主人公になっている夢なのです、、ですからこの体が感じることだけを感じる、、この体が向かう場所だけが出現される、、この体が味わう物だけを味わえる、、そしてその全てを回収し、起こす存在がこの私です、、、私が経験していない経験はない、、、ですからこの体が感じる全てはこの夢の観察者である私が感じているのです、、体の中に居ると思っていた「私」は実はこの夢の創造主、観察者です。

その証拠に

その証拠にこの体の中を何十兆円とお金をかけて調査しても、、この私は出てこないですよ、、居ないんですから、、、じゃあどこにいるのか???夢全体こそが私です、、、鳥の声が起これば、、夢全体としてそれに気づき、、友人が現れれば、、夢全体としてその存在に気づきます、、、この体の中から思考が湧けば当然気づく、、、友人に会えて最高、、、に気づく、、今日は会いたくなかったなー、、、に気づく、、ということです。

それが分かって何か意味があるのか???

その質問が出ている時点で分かっていません、、、これまで現実だと思っていたのが夢で、、しかもこの体の中には居ると思っていた自分が、、夢を見ている当事者だった、、、この気づきは驚くほどの感情を変えます、思考を変えます、、行動を変えます、、、なぜならばもうこの体に執着ができない、、この体に執着できなければ、、もうこれは遊びになってしまう、、今まで真剣に深刻に生きてきたのが、、、お気楽な遊びになってしまう、、、ということです。

五感+脳の感覚で六感

脳はあらゆる生命現象に名前をつけた

脳はあらゆる生命現象に名前を付けました、、これによって我々は、、、生命現象の中に独立区別した物を作り上げ、さらに自分を登場させ生きています。六感の世界で生きているのです。ここに良いも悪いもありません、結果的にこの自分は餌を捕獲しやすくなり生存確率が確実に上がりました。容易に生存することが可能になったのです。ところがこの脳の戦略には副作用があります、、それが苦しいです。気づきの意識(空)がこの自分に気づくことで閉塞感が湧いてくるのです、、

名前を消すことはできない、、、

かといって名前を消してしまうことは出来ません、、仮に名前を消してしまえば生存確率も下がります、、ということで我々ができることはこの脳が作り出したファンタジーの世界に閉じ込められてしまった気づきの意識に、、この世界の構築に気づいてもらう他ありません。気づきの意識は気づきの意識であってこの脳が作り上げた自分ではないということ、、目に見える世界に登場するあらゆる登場人物も名前を付けることでそこに登場しているだけだということ、、元々は気づきの意識(空)とそこに現れる現象そのものしかなかったということ。この自分もその現象の一つに過ぎないということです。

脳すらも気づきの意識が現象化させた

この脳も気づきの意識から現象化されたものです、脳が悪いのではないのです、、ですがこの脳が作り出した世界は苦しい世界であるということだけです、、、なぜ苦しいのかを気づきの意識が気づき、、この苦しみから脱出する他ありません。