自我

なぜ存在、大いなる一つを言葉で説明することができないか

言葉で説明できることは自我の説明

大いなる一つ、存在とは何かを言葉で説明するのがなぜ難しいのか。それは言葉を使っている存在(自我)自体が存在を見えなくしているからです。つまり存在とは自我がいない時に出現するもの、それを言葉(自我)を使って説明するのは至難の技なのです。ですから書道、茶道、剣道でも真髄は言語で説明できないところにあると説くのです。所作の中から存在、大いなる一つを感じるものであり言葉で説明できるものではないのです。もしもそれが可能ならば通信教育で事は足ります。

お味噌汁の美味しさを言葉で正確に伝えるのは不可能

外国人の方にお味噌汁の美味しさを正確に伝えることは不可能でしょう。外向人の方に納豆の美味しさを言葉で伝えるのは不可能です。あの味を正確に表現できる言葉などありません。つまり言葉には限界がありにも関わらず現代人はその言葉で至福に至る方法までも手に入れようとするところに苦しみが始まります。言葉で悟りを理解する、解放を理解できるのならば中学生は皆学校でこれを学ぶだけでいいはずです、ですがそうは簡単にいかにのはそれが言葉を超えた存在だからです。

マインドが必死に至福を探しても見つからない理由

マインド、思考、これを自分自身と絶対視することが自我の証明です。湧き上がるマインド、思考こそを自分自身と捉えることで苦しみが始まります。そのマインドを強化することで至福、存在、自由に至れると勘違いすることが苦しみです。マインドを自身と勘違いすることこそが苦しみの原因ですからこれを疑うこと、これを自分と勘違いしないことこそが至福に至る唯一の方法になります。

一番の興味の関心を解脱、解放、目覚めに向けれえるか

夢の中での損得に奔走される自我

多くの方はこの夢の中でいかに快適に、楽しく、できる限り苦労からは遠ざかり生きていくかに奔走しながら生きています。そしてその作戦は多くの場合良く働くこともあれば悪く働くこともありその間を行き来しながら生きていきます。人生楽あれば具ありを地でいくのです。そして人生のどこかでこの企みが不毛であると感じた人から夢から覚めるという常識から外れたチャレンジに興味を持ち始めるのです。

夢から覚めることに興味が湧くのはなぜか?

この夢から覚めたいのは誰なのか?自我に奔走されて毎日を慌ただしく生きほとほと疲れ果てた存在、意識がもう無意識では生きられないと諦めた時に夢から覚めることを心待ちにするようのなるのです。しかもそれがなんとなく夢から覚めたいではなく夢から覚める以外興味がないぐらいの覚悟に変わると後はただ変化が起きるのを待つだけになります。

これは観念の書き換えではない

観念の書き換えは、今後の人生戦略の変更です。思考を変える、哲学を変える、観念を変える方法は本屋に行けば山ほどのマニュアルがありますがこれは全て自我の書き換え方法です。より確実に自我が生存していくための創意工夫になります。ですがこのブログでお伝えしている内容は自我の生存戦略のためのノウハウではありません。これは自我の策略、自我の生存戦略を見抜き、夢から覚める方法をお伝えしています。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。

目標を達成してもしなくても地獄

不足感を解消してもしなくても地獄

人間は不足感を抱き続ける動物です。人間が私は人間であるという自覚を持った瞬間に不足感が生まれます。全存在、いや存在しかないこの世界に個人という錯覚、幻想を抱いた瞬間に個人以外の他が生まれます。極小の自分の誕生と同時に壮大な他の世界が誕生します。ですがこれは自身に対する無価値観も同時に生み出すのです。それはそうです、見える世界全てからこの体だけが自分に縮小化された存在は息苦しくて仕方ないのです。そしてこの自分と称する存在に浮かび上がる思考は自分では到底コントロールできないという始末、無価値にも関わらずさらに思考する全くコントロールできないという無限地獄に苛まされるのがこの人間ゲーム、自我ゲームの真相です。これで人生最高、幸福、ハッピーしかないと宣っている人間がいたらそれは大嘘つきということになります。

苦しくて当たり前、苦しくないとしたら頭がおかしい

全存在がこの人間という体、思考のみを自分自身と勘違いすることからこの人間ゲームはスタートするわけですから人間のデフォルトは苦痛、不足、欠乏です。苦しいのがデフォルトであって幸福がデフォルトでは決してありません。ですから人間は普通に生きていれば苦しさだけがあります、この事実を先ずは認めなくてはなりません。その上でいかにこの苦しみから解放されるかが唯一の目標、夢になります。なぜ人間はお金持ちと結婚したら、良い会社に就職できたら、良いパートナーに巡り合えたら、、、いつか幸福になれると幻想を抱き続けるのはこの苦しみから逃れる方法があると思い込んでいるからです。ですが実際はそのような不足感を埋めてくれるような対象などあるわけがないのです。なぜならばそもそも対象と苦痛とは何も関係がないからです。

対象と苦痛とは何も関係がないにも関わらず

対象と苦痛が何も関係がないにも関わらず人間はなぜ埋めてくれるだろう対象を探し続けるのか。それはそれにしか希望が持てないからです。目に見える何かしか私の欠乏を埋めることができないと信じるぐらいしか希望がないのです。故に人間は愛人、お金、地位や名誉、安定という対象を求め続ける人生を歩むのです。ではもしもこれらの対象が人間の不足感を埋めることができないとしたらどうしたら良いのでしょうか。そうです、不足感を対象で埋めるのではなく苦しみの根源である自我を追いやるしかありません。行為に没入することで無我の状態に入り徐々に無我の状態にシフトしていく。今ここで無我に入ることで自我を追いやる、これしかありません。夢から覚めた感覚、至福の感覚を今感じることで至福に見つけてもらうことしかありません。無我に入り込むことで無我に見つけてもらうしかないのです。

病気にしがみつく自我

病気は便利なアイデンティティー

病気に好きでなる人はいない、病気を手放そうとしない人もいない、これが世間の一般常識です。自ら好き好んで病気になるなどあるわけがないのです。ですが実際には違います、病気は自我にとっては大好物、病気になれば病気の私という強烈なアイデンティティーを築けるのです。そんなわけがない、、、多くの病気に苦しむ方は困惑するでしょう、ですが自我は病気の時の自分を強烈に意識できるのです。これが自我が病気を手放さないメカニズムです。調子の悪い私、体調不良の私は、、だからこそ大切に扱ってほしい、だからこそ慎重に扱ってもらえる、、、といった生存戦略が効果的なのを熟知しています。こうして自我は病気を利用して生存を継続していくのです。

体調が悪い=特別視してもらえる

自我は熟知しています、病人は特別視してもらえる、病人は大切に扱ってもらえる、病人は高待遇をえられると。ですから自我は病気をなかなか手放そうとしないのです。自営業者では有名な話ですが自営業になると風邪をひかない、、これはなぜかと言えば風邪を引けば売り上げが少なくなって損しかないからです。風邪をひいたお店のオーナーの店に好き好んで行く人はいないのです。自我は基本損得しかありませんから風邪を引くメリットがなければ絶対に風邪をひかないのです。

体調に悩む人は体調不良を利用する自我に気づくチャンス

体調不良は自我の大好物であることを先ずは気づくことが重要です、そして体調不良を直したいならば運動や食事を義務としてやるのではなくそこに無我夢中になることでそこから悟りに入ることが最重要です。運動や食事に集中することでそこから悟りに入るのです。そこから無我の境地、至福の境地に至ります。

高級品にしがみつく自我

高級品を多く持っていればいるほど安心する自我

高級品に目がない自我は存在します。高級時計、高級車、高級バッグ、、、、自身の身の回りを高級品で揃えそれを誇示する自我の存在、自我はそもそも存在していないので周囲から羨望を集める=自我の存在を再確認することに安心感を覚えるのです。少なくとも周囲が自身を羨望の的に思っている関心を持っているということは自身(自我)が確実に存在すると思い込めるのです。高級品収集の問題点は、この自我の満足を満たし続けていくと全財産をなくして追いつかないということです。最後は借金をしてでも高級品を集めてまでも自我を満足させていきますがどんなに無理をして手に入れても至福には至りません。さらに今度はこれら高級品を失った場合自我は急激に小さくなったと錯覚し苦しむのです。高級品の量=自我の保障ですから、高級品の現象=自我の存続危機です。

かつて豪邸に住み、高級品に囲まれていた人生からの転落劇

高級品に同一化した自我は、高級品を増やしていくことで自我を確固たるものにしようとします。そのためここは多少無理をしても継続して収集していくわけです。ですがそれを維持していくためには体力、労力などかなりのパワーを必要とします。このパワーが枯渇しない間は維持できますがいずれ人間の体は衰えていきますからここにおいても無理が生じるのです。その時にこのメカニズムが崩壊し始めます。高級品を維持していくのが難しくなります、すると自我そのものが毎日のように縮小していく錯覚に苛まされることになるのです。

高級品を持つことを目標にして無我に入る

高級品が悪いわけでは決してありません、高級品は職人さんや企業努力の賜物でできたものであり素晴らしいものです。ですがそこに自我を同一化するとこの高級品が別の意味を持つことになるのです。素晴らしい高級品を持つことを目標に無我に入りましょう。仕事に無我夢中になることでそこで至福に至るのです。ビジネスや栄養管理に無我夢中になることでそこから至福に至ります。高級品を持つことを目標に技術をつけることに無我夢中になりそこから至福に至るのです。本当の幸福は高級品を持つことではなくそこへの道そのものにあることに気付いてしまうのです。高級品を所有するころには高級品への関心はなくなり無我に入り込めた事実に関心は向きます。そこに至福があったことに気づくのです。

若さに執着する自我のメカニズム

見た目に執着する自我

見た目に自身がある人は見た目に執着します、見た目に自身のアイデンティティーを重ねることで自我が見た目に同一化するのです。本来であれなただの生命現象、ただの存在の顕れでしかない人間の体に自我ががっつり同一化、しがみ付きを行うことでそこに執着します。分離など全くない世界にがっつりした分離が起こるのです。問題がこの人間の見た目はやがて衰えるということです、しがみ付いた先のこの体は時間と共に衰えていくのでそれはそのままその方、その自我の苦しみになるのです。

化粧品がこれだけ高く売れるのは必然

化粧品がこれだけ高く売れる理由は見た目にしがみつく自我にとっては当然のこと、お金で見た目を買えるのならばお安いことです。健康美容商品や、健康美容医療、医療商品がこの世から決してなくならない、むしろ増え続けるのはこのような理由です。若くて勢いがあったときの自身の見た目、容姿にしがみつきそれをアイデンティティーにする自我のメカニズムは多発します。

見た目、健康美を維持するために無我に入る

見た目、健康美を目指すことが悪いことでは全くありません。生涯健康で美しあることは素晴らしいことです。ですからそこに執着するのではなくそこを目指すことで無我に入ればいいのです。健康のためにトレーニングをする、美味しい食事を作る、マッサージをする、、、その行為を通じて無我に入っていきます。そこに集中することで至福に至ります、そこに無心で入り込むことで悟りに入るのです。そうすればもうその先にある健康、美容、容姿に執着することがなくなります。もうそこには渇望や意固地、苦悩はなくなります、なぜならばそこを目指すことで既に至福に至っているからです。

恋愛依存症と自我のメカニズム

恋愛とは強烈に自我が自我の存在を実感できる安心材料

恋愛の特徴、それは特定の誰かが、自分のことを一番と認めてくれることです。恋愛とは特定の誰かがあなたの存在を他の人間よりも第一優先にするという約束です。ですから自我はこの恋愛行動が大好きなのです。自我にとってあなたが一番と選んでもらえることは自我の存在を確固たるものできたと錯覚できるのです。もしも長澤まさみがあなたのことを好きだと選んでくれたならば『あなた』という存在を強烈に感じることができるはずです。世界に確固たる地位を築けるのです。ですから自我はこの恋愛を巧みに利用します。

本来存在していない自我にとって「あなたこそ特別」は最高の言葉

本来存在していない自我は自身の存在を認めてくれる存在、自身のことを称賛してくれる存在を探し回っています。誰が一番自分の存在を認めてくれるかです。認めてくれる=存在の保障、だからです。本当は存在していない自我にとって存在を保障してくれるかのような存在は神様のように偉大な存在になるのです。あの有名な社長が認めた、あの有名な偉人が認めた、クラスで一番の美人が自分を認めた、、、全て自我にとっては涎が出るような甘美です。

恋愛にトラブルが絶えない理由

そんな恋愛の多くには別れが訪れます、それだけ自我ににとっての保存プログラムがなぜ崩壊することがあるのでしょうか。それはある人にとって特別な存在であり続けることが非常に疲れるからです。パートナーの前でオシャレを維持し、体型を維持し、収入を維持し、安定を維持し続けるのは至難の技です。ですからどちらかが先ずこの耐久レースから降りるのです、そうなればもう相手にとって特別な存在から降格してしまいますから自我は非常に苛立つわけです。特別扱いしてくれないならばもうあなたは必要ないという逆切れです。恋愛とはお互いを特別視しあうことで成り立つ関係ですからこれは維持をするのに多大な労力がかかるのです。自我を満足させ続けるのは非常に骨の折れる作業なのです。

体裁をやたらと気にするのは自我のカラクリ

体裁を気にするのは自我、体裁は自我そのもの

大人になると体裁を気にします、体裁を死守します、体裁を守ろうとします。体裁は自我そのものです。自我は自身が壊されてしまったらたまったものじゃありませんから必死に存在を守るわけですが、まさにそれは社会的に体裁と呼ばれています。一度築き上げた身分、地位、役割は自我がしがみつく餌の一つです。自我はそもそもが存在していないためこの身分、地位、役割に同一化することで自我を強固にしようとするのです。私はこの会社の社長だ、私はこの人の嫁だ、私は自治会の長だ、、、人間とはなぜここまでにこの役割が好きなのでしょうか。それはそもそもの自身という機能が幻、錯覚だからこそ何も役割がないという状態が怖いのです。自我が幻、錯覚であるということに気づかれないためには自我はあらゆる役割、地位、名誉にしがみつくのです。

巨人軍の監督が、来年からはコーチに降格?という話を聞いたことがない理由

例えば毎年のようにニュースになる巨人軍の人事、原監督が来年からはコーチに降格しました、、というニュースが今後絶対に出ないのはなぜか?それは監督がコーチになるのは降格でありそれを自我は強烈に嫌います。監督とコーチ、ただ役割が違うだけにも関わらずこれを自我は強烈に嫌うのです。これはなぜか?それは役割の影響力が下がっているからです。影響力が下がるということはそこにしがみつく自我にとっては自分が縮小されたことと同じだからです。自分が縮小されることを良しとしてしまったら自我はいずれ消滅ししまう可能性があります。ですから自我はここで強烈な欠乏感、消失感を産んでみせるのです。もしも原監督に、「来年はコーチでお願いできますか?」とフロントが聞けば間違いなく彼は断るでしょう。そして断っているのは彼の自我です。小さくなる私などに興味がないのです。

付き合っている彼女に、、来年からは二番手にさせてくれと頼んだら、、、

今現在付き合っている彼女に、、良い人が見つかったから来年からはあなたは二番手にさせてくれと頼めば、、99%の確率で別れを切り出されるでしょう。それはなぜか、、彼女の自我が絶対に許さないからです。NO1の彼女の地位からNO2の地位に引き落とされることは彼女の存在が小さくなること、彼女の存在が蔑ろにされること、彼女の存在が価値を下げられていることと同意だからです。自我にとって。本当は別に新しく魅力的な女性が一人現れただけでそのことと彼女の魅力とは何も関係ないにも関わらずです。これが自我の反応です、自我は本当は存在しないからこそこのように蔑ろにされるような扱いに耐えられないのです。それならばいっそ別れてしまうことで自我の存在を守ろうとするのです。自分自身が軽く扱われることに対し強烈な怒りを覚えるのは自我が軽く扱われていることと同意、自我が存在を危ぶまれそこに抵抗する自動反応です。

人間にはなぜ目標や夢が必要なのか?

小学校に入ったら次は中学校、次は高校、次は就職、、結婚

人間には目標が必要とされています。小学校入学、中学校入学、高校入学、大学、就職、結婚、子育て、、、と延々に人間には次にやるべき目標がある程度決まっているように見えます。そして多くの方はこのメインストリームに沿って生きています。私は小学校にも、中学校にも、就職、結婚、子育てにも興味がありません。ということを言えば何か外れた、後ろめたさ、苦々しさ、を感じずにはいられません。これはなぜなのでしょうか。目標がいらないという人間は排除されていく傾向があります。

自我には目標が必要、

では答えをお伝えします。要は自我には目標や課題、夢が絶対的に必要なのです。自我というのは本来存在していません。本来は存在しかありません、目に見えるせかい存在そのもの、存在以外何もないにも関わらずそこに個人という存在を無理くり作り上げました、これが自我です。ですのでこの自我は大変不安定な存在です、何にも関わらずあると思い続けなくてならないのです。この自我が自我として確固たる地位を気付き上げるためにはそう、目標や夢、課題が必要なのです。私は中学生にならなくてはならない、私は就職しなくてはならない、私は結婚しなくてはならない、、課題や夢、目標を達成しなくてはならないのは「自分」だと。だか自分が次の自分になるのだと。これこそが自我の最強戦略です。目標を達成するのは常に自分『自我』です。ゆえに自我は次の目標、夢、課題を常に常に常に探し続けるのです。

金メダリストのインタビューで聞かれる質問に注目

オリンピックの大舞台、このステージで優勝、金メダルを手に入れた選手に聞かれる質問の中で最も多いのは「次は何を目標にしますか?次のオリンピックも期待しています。今後の展望は?」です。オリンピックで金メダルを獲った直後ですらこの質問がされることの異様さに誰も気付きません。人間とは自我とは、この目標をなくされてしまう恐怖を実感し直ぐに次の目標を決めさせます。これでまたしばらくは「私はこの体、思考である」というカラクリを延命できます。

自我の目標作戦に疲れ果てたら

自我の目標作戦に疲れ果てなならば、、自我の夢達成製造機に疲れ果てたならば、自我の課題探しロボットに疲れ果てたならばもうこの作戦に乗るのは辞めましょう。自我が次の目標、課題、夢を探してきたならばその目標、課題、夢を通じて行為に没頭しましょう。行為そのものになってしまうのです。勉強に入り込むことで無我を体感しましょう、仕事に入り込むことで無我を体感します、スポーツに入り込むことで無我に入ります、子育てに入り込むことで無我に入ります、自我(思考)がかき集めてくる課題を餌にしてそこから無我に入り込んでしまえばいいのです。その時自我は無我の良いパートナーになります。自我はもう無我から主導権を奪うことなく主導権を無我に明け渡すのです。