体裁をやたらと気にするのは自我のカラクリ

体裁を気にするのは自我、体裁は自我そのもの

大人になると体裁を気にします、体裁を死守します、体裁を守ろうとします。体裁は自我そのものです。自我は自身が壊されてしまったらたまったものじゃありませんから必死に存在を守るわけですが、まさにそれは社会的に体裁と呼ばれています。一度築き上げた身分、地位、役割は自我がしがみつく餌の一つです。自我はそもそもが存在していないためこの身分、地位、役割に同一化することで自我を強固にしようとするのです。私はこの会社の社長だ、私はこの人の嫁だ、私は自治会の長だ、、、人間とはなぜここまでにこの役割が好きなのでしょうか。それはそもそもの自身という機能が幻、錯覚だからこそ何も役割がないという状態が怖いのです。自我が幻、錯覚であるということに気づかれないためには自我はあらゆる役割、地位、名誉にしがみつくのです。

巨人軍の監督が、来年からはコーチに降格?という話を聞いたことがない理由

例えば毎年のようにニュースになる巨人軍の人事、原監督が来年からはコーチに降格しました、、というニュースが今後絶対に出ないのはなぜか?それは監督がコーチになるのは降格でありそれを自我は強烈に嫌います。監督とコーチ、ただ役割が違うだけにも関わらずこれを自我は強烈に嫌うのです。これはなぜか?それは役割の影響力が下がっているからです。影響力が下がるということはそこにしがみつく自我にとっては自分が縮小されたことと同じだからです。自分が縮小されることを良しとしてしまったら自我はいずれ消滅ししまう可能性があります。ですから自我はここで強烈な欠乏感、消失感を産んでみせるのです。もしも原監督に、「来年はコーチでお願いできますか?」とフロントが聞けば間違いなく彼は断るでしょう。そして断っているのは彼の自我です。小さくなる私などに興味がないのです。

付き合っている彼女に、、来年からは二番手にさせてくれと頼んだら、、、

今現在付き合っている彼女に、、良い人が見つかったから来年からはあなたは二番手にさせてくれと頼めば、、99%の確率で別れを切り出されるでしょう。それはなぜか、、彼女の自我が絶対に許さないからです。NO1の彼女の地位からNO2の地位に引き落とされることは彼女の存在が小さくなること、彼女の存在が蔑ろにされること、彼女の存在が価値を下げられていることと同意だからです。自我にとって。本当は別に新しく魅力的な女性が一人現れただけでそのことと彼女の魅力とは何も関係ないにも関わらずです。これが自我の反応です、自我は本当は存在しないからこそこのように蔑ろにされるような扱いに耐えられないのです。それならばいっそ別れてしまうことで自我の存在を守ろうとするのです。自分自身が軽く扱われることに対し強烈な怒りを覚えるのは自我が軽く扱われていることと同意、自我が存在を危ぶまれそこに抵抗する自動反応です。

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